32.生きるということ
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
今日、私の名前が変わった。
佐治小鳥から別宮小鳥になった。別に何とも思わない。
名前が変わるのは初めてじゃない。生まれたときは田中小鳥だったらしい。
らしいというのは覚えていないからだ。当然だろう。わずか1歳で自分のフルネームを言える子なんていないだろう。
両親が離婚し母に引き取られた私は母の旧姓である佐治小鳥になったらしい。その後、母が再婚して二宮小鳥になり、また離婚してもう一度佐治に代わり、以下略。母が5度目の結婚をして坂口小鳥になったのは小学校3年生のときだった。この時のお父さんはいい人だったけど2年後に交通事故で死んでしまった。
私のこともかわいがってくれたので私もちょっとだけ悲しかった。
5人目のお父さんが死んで半年ほどたった頃、母が新しい男の人を連れてきた。
私はまたかと思っただけだった。
けど、それで済ませてしまう私も相当いかれているのだろう。
*
私の母は一言でいえば自立してないひとだ。
3人兄妹の末っ子に生まれた母は両親(私の祖父母)に溺愛されて育った。兄と姉(私にとっては伯父と伯母)と10歳離れた末っ子を父母はかわいがった。容姿にも恵まれ愛くるしい娘であった。そして母は一人では生きられない娘に育った。
幼い頃は両親にべったりで学校に上がると友達に依存した。大人からすれば自己主張のない娘は理想的な子ともに見えた。だが、友人たちにとっては違う。幼い子供にとって依存されるのは迷惑でしかない。娘は次第に疎まれ、中学に上がった頃には完全に悪意をもって扱われた。小遣いを巻き上げられ、足りなくなると親の財布から抜くよう命令された。
子供のやることだ。すぐにばれた。年の離れた兄姉は妹を叱り、両親にも甘やかすのをやめるよう言った。しかし溺愛していた両親は改めず、兄姉は離れていった。既に社会人になっていた兄姉にとって問題しか起こさない妹は迷惑でしかなかったのだ。
そして両親はなおさら娘を甘やかした。
両親もこのままでよいとは思っていなかった。
引っ越しをし、悪い友人から引き離した。そして金さえ積めば入れる私立中に娘を転入させた。学力は高くなくてもお嬢様学校と呼ばれるところだ。両親は安心した。
だが、何も変わらなかった。
知っている人が誰もいない学校に転入させられた娘は依存できる相手を探した。
まともな子は離れていった。代わりに寄ってきたのはやはり悪意だった。電車通学になったため行動範囲が広くなり、親の目も届かないことが多くなった。部活を隠れ蓑に遊び歩くようになり、命令されて万引きに手を染めた。命令は次第にエスカレートし、援交までさせられるようになった。手にした金はすべて巻き上げられた。
それでもよかったのだ。命令に従う限り一緒にいさせてもらえた。それはエスカレーター式に高等部に上がっても続いていた。だが、2年の夏、補導されたことで状況が変わる。
犯罪に手を染めていたのはその娘だけだった。周りはそそのかすだけで見張り役すらしてはいなかったのだ。学校からはただ一人停学処分を言い渡された。
娘は堕ちたのだ。
堕ちてからというもの言いなりだった両親の言動が娘には煩わしくてどうしようもなくなっていた。言われた通りにしてきたのに何故あんなに怒られなければならなかったのか。娘には納得できなかった。
家出同然に夜の街をうろついていた。蠱惑的な容姿を持つ娘の肉体を求める相手に事欠かなかった。たとえ一夜でも一人ではいられなかった。
そんな頃、一人の若者と出会った。誘われるまま彼のアパートに転がり込み体を重ねた。やがて娘は妊娠した。
若者は籍を入れてくれたが、ままごとみたいな生活が続くわけもない。甘やかされてきた娘は料理どころか洗濯すらできなかった。1年経たずに破局した。
娘は赤子を連れて実家に戻った。
だが、同じことの繰り返しだった。母親に子供を預け遊び歩くといつの間にか男を作って子供を迎えにくる。その繰り返しだった。
*
母は一応私に愛情を持っているようだった。愛情というより一人になりたくないからかもしれない。
私にとって迷惑なことだったけど男ができると必ず迎えに来た。祖父母は反対したが、母は私を連れて家を出た。そしてしばらくするとまた実家に戻ることになる。私は小学校時代3回名字が変わり、4回転校した。
当たり前だが、こんな育ち方をした私に友達なんていない。母に似て容姿が整っていたこともよくなかった。声を掛けてくる男子はいたが、余計に女子の反発を招いた。私がそれを気にもしていないことが、最も孤立する要因だったのだけど、そんなことを言われてもわたしに何ができただろう。
そんな私でも夢があった。夢というのも言いすぎなほどささやかな夢だ。
高校を卒業したら一人暮らしをしてみたい。仕事をして誰にも依存せずに生きていきたい。
なのにその夢はかなわなかった。
私の何がいけなかったのだろう……
*
小学校の卒業が近づいてきたころ、半年ぶりに母が戻ってきた。
30歳になったはずだか、変わらず美しい。ひっきりなしに話しかけてくるのは甘えているせいだ。娘の私に甘えられても……
「小鳥、貴女に会わせたいひとがいるの」
またかと思った。
私は甘かった。
母とその夫(義父だ。さすがにお父さんとは呼べない)に引き取られた私はまたしても転校……中学校進学と同時なので転校ではないか……いずれにしても誰も知る人のいない宵が原中学に入学することになった(宵が原町は小学校時代、3回に渡り延べ10ヶ月ほど住んでいたが、友達などいなかった)。
入学式を数日後に控えた春休みのこと、私は義父に犯された。
義父は小学校を卒業したばかりの子供だった私のことをあろうことか女として見ていたのだ。
テレワークのため家で仕事をしていた義父は隙を狙っていた。母が外出したタイミングで私の部屋に押し入ってきた。
「小鳥ちゃん……げへへ……かわいいよねえ……お父さんといいことしようね」
いきなり抱きつかれてベッドに押し倒されても私は何をされるのかわからなかった。スカートを捲り上げられ下着を下ろされてやっと気づいた。襲われているのだと
「ダメ……お父さんにはお母さんがいるでしょ……」
「バカ言え。あんなあばずれ拾ってやったのはお前がいたからだ……かわいいよ、小鳥……」
気持ち悪い。初めてそう思った。
私はそれまで義父のことを何とも思っていなかった。関心がなく見てすらいなかったのだ。見ていれば気づいたはずだ。この男の下劣な品性を
12歳の少女に抗えるわけもない。歯を食いしばり目を閉じている間にことは終わった。
「お母さんには言ってはいけないよ」
馬鹿なのだろうか?
言えるわけがないじゃない。
「これは二人だけの秘密だよ。これからも仲よくしような、小鳥」
男はいやらしい笑みを浮かべそう言った。
その関係はそれからも続いた。続けさせられた。
二人きりにならないようにしよう。私は逃げようとした。母に縋りつくようにまとわりついた。だが、そのころには夫婦仲が冷え込んでいた母は家を空けて夜な夜な遊び歩くようになっていた。もちろん私を置いて。
「小鳥は高校に行きたいんだろう? 行かせてあげるよ。お父さんの言うことを聞いていたら大学にだって行かせてあげるよ。ぐへへ……わかってるだろう?」
恫喝だった。将来、家を出たいと望む私にあと6年、大学まで入れれば10年耐えろという脅しだった。
そのときの私には誰かに助けを求めることなど考えもしなかった。
学歴もない少女が一人で生きていくことなどできない。まっとうに生きていきたい。母のような夜の女にはなりたくなかった。男に縋りつく女にはなりたくなかった。
なら、今は耐えるしかない。
そう思ってしまった。
義父は屈服した私を抱くだけでは飽き足らず、奉仕をするよう強要した。口では言えないようなことをいっぱいさせられた。
だが、そんな嘘がいつまでも続けられるわけもない。
「何やってるの!」
遊びに出たはずの母が部屋のドアを開けたとき、私は男の下半身に顔を埋めていた。
「違うの、お母さん!」
信じてもらおうと必死に言い訳をする私を下衆が嘲笑う。
「毎晩、抱いてくれって小鳥がうるさくてさぁ。やっぱりあばずれの子はあばずれだね。どうせなら一緒に親子丼とかどうだい? ぐへへ」
理解できないかのように母はうなだれバッグを落とした。
「違うの! 私はお義父さんに無理やり……」
パシッ
頬が熱くなった。
母が私を叩いたのだ。
「この、泥棒猫がーっ!」
なぜ……私のことを信じないの? あんなこと好きでやってると思ってるの? なんでお母さんのことをあばずれってバカにする人のことを信じるの?
母に首を絞められながらも私は抵抗しなかった。できなかった。将来を餌に母を裏切っていたのは私だ。だから……
*
「なんで……」
気が付いたとき私は暗闇の中にいた。
頬が熱い。それは叩かれたせいではなく。絶望の涙が頬を焼いていたからだった。
「お前が生きようとしてこなかったからだ」
暗闇の奥から声が聞こえた。男の……声が随分と若い。
顔を上げると玉座のような豪華な椅子に座っている若者がいた。見たことあるような気がしたけど思い出せない。
私は周りの人たちを覚えようともしていなかった。
「誰?」
「オレは閻魔ってものだ」
若者が答えた。
「閻魔様って……私、死んだんだ……」
ろくでもない人生だった。あの母から解放されるならそれでもいいか。そう思った。
「このまま逝かせてやってもいいんだけどな。お前はどうしたい?」
どうしたいって言われてももう死んでしまったのならしょうがないじゃない。
若者は胸ポケットから帳面を取り出すとパラパラとめくる。
「別宮小鳥……あれ、佐治……坂口……佐治……二宮…………? ああ、巻き込まれたのか」
やっと思い出した。中学校のクラスメイトだ。確か名前は……
「同情の余地はあるが、根本的な原因はお前自身だ。それを自覚しろ」
頭にきた。
勝手なことを言って。子供だった私に何ができる。この世の中は子供が一人で生きていくことなんてできないのに
「勝手なこと言わないで! 私は悪くない! 私は子供なの! 守ってもらえなければ生きていけないの! だからお母さんの言う通りにしてきたの! なのに信じてもらえなかったの!」
「ならお前は信じてもらえるように生きてきたのか? 助けてもらえるように生きてきたのか?」
痛かった。若者の言葉が身を削る。体中から血が噴き出す。
痛みから逃げるように首を振る。
「知らない! 知らない! お母さんなんてもう知らない! お父さんなんて知らない! そんな人いない!」
「それならそれでいいんだけどよ。別宮、お前、助けてほしかったんじゃないのか?」
そんなこと言ってくれる人はいなかった。祖父母は口喧しく言ったけど言い返す母にいつしか諦めたように何も言わなくなった。私も気にしなかった。でも……本当は助けて欲しかった。振り回されたくなかった。自分の人生を生きたかった。
「……ぐすっ……助けてくれるの?」
「生きたいと願うならな」
それは己を計る試金石だ。本当は私は……
「………………私……生きたい! だから……助けて」
若者は頷いた。
「別宮小鳥よ。未練を断ち切るまで地獄への立ち入りを禁ずる」
判決を言い渡した若者……大王様は裁可の槌を振るう。
コーーーーーーーーーン!
目を覚ますと病院だった。
「小鳥!」
抱きしめられた。
それは祖母だった。ずいぶん小さくなった。私が大きくなったのか? 2年振りに見た祖母は小さく見えた。
「お祖母様……」
「ごめんね。ごめんね。あの娘の我儘に付き合わせてしまって。つらかったね。ごめんね」
涙が零れた。
でも、今度の涙は肌を焼くような痛みはなかった。
「お祖母様……助けて……」
祖母は涙を流しながら頷く。私を抱きしめ、頭を撫でながら何度も何度もうなずいてくれた。
暖かかった。
*
オレたちは高校生になった。
受験はあったが、普段からまじめに勉強していたオレはそんなに苦労はしなかった。康太は死にそうになるほどしごかれていたが何とか高校生になることはできたようだ。
別に高望みをしたわけじゃないし。学生と地獄統括と居酒屋アルバイト兼子守の生活では贅沢は言えない。最寄りの公立を選んだ。歩いても通えるところでよかった。
ということで今日は伊佐波高校の入学式だ。宵が原中からも50人ほど進んだ。知り合いも多いし緊張もしない。
ぱんっ!
校門をくぐったとき背中を叩かれた。
「おはよう、黄泉坂!」
ポニーテールを揺らしながら走り去っていくセーラー服を見て康太が驚く。
「結弦、あのかわいい娘、誰だよ!」
なぜ、そんなこと聞くのかわからない。ボケたか?
「別宮だろ。中2まで同じクラスだった。あっ今は佐治か……」
「別宮……? ああーっ、中2の冬に転校していった。戻ってきたんだ……ってあいつあんなにかわいかったか? なんていうかもっと……」
そうだよな。雰囲気が変わった。
まあ、楽しそうでよかった。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
新章です。いきなり新キャラ登場でした。でも、ご安心ください。いつものキャラもちょっと成長した姿を見せてくれます。これからも応援よろしくお願いします。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




