2.罠
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
「十文字先生、初日だし緊張しているのはわかるけど生徒に舐められないようにしないとね。優しくすることと甘やかすことは違うから。生徒は甘く接するとここまでは許されると距離を測ってきます。その時々で判断の基準を変えると生徒は私たちを信用しなくなります。あのときは許してくれたのに、なんで今回はダメなの? ずるい、勝手だって。もちろんそうする理由はあるのですけど、それは生徒には理解できないから。一人二人に対してならその時々の状況によって判断が変わることを説明できるかもしれない。でも、私たちは30人のクラスを預かっているの。公平に公正に接しなければいけないわ。わかる?」
福島先生のお説教に千衣はうなだれる。指摘はもっともなことだ。自分は教職に就いたのだ。もう学生とは違う。生徒にいい顔ばかり見せていてはいられない。目の前のことに一生懸命に取り組むだけではだめなのだ。
ああ、どうして私はこうなんだろう。子供の頃から真面目なばかりで要領が悪かった。成績はよかったが、素行不良の8つ上の兄と比べてさえも叱られることが多かった。思い出しただけで落ち込んでしまう。
「はい。すみませんでした」
「次から気をつけてね。山元は悪い子じゃないのだけど、お調子者だから。ほどほどのところで止めておかないと後で困ることになるわよ。じゃあ、明日からの準備にかかりましょう」
*
職員室の2年生担任の席で鏡嵐丸は新任の十文字千衣が担任の福島にお小言をくらっているのを見ていた。
十文字……どこにでもある苗字ではない。そして鏡は同じ苗字の男を知っていた。ポケットからスマートフォンを取り出すとクラウド上のデータベースを開く。必要な情報を確認すると自然と笑いが込み上げてきた。
やはりそうか。面白いことになった。
「鏡先生、何度も言ってますが仕事中にスマホで遊ばないでください。生徒たちに示しがつきません」
「すいません。これメモ帳代わりなんで、遊びじゃないですよ」
学年主任の田中のお小言をへらへら笑いでやり過ごす。
「十文字先生、気にすることないですよ。子供たちはどうせ調子に乗るものです。いずれ慣れますよ」
福島教諭のお説教から解放された向かいの席の十文字千衣を慰めてやる。
「ありがとうございます、鏡先生。でも、私もしっかりしなくちゃ」
素直すぎる優等生の返事をする新人の女教師。
さて、この小娘をどう使ってやろうか……
*
「で、私は何をすればいいの?」
目の前にいる蛭子雅美は園芸部長だ。鏡は要領よく楽そうな部活、園芸部の顧問の地位を得ていた。蛭子は3年生唯一の部員ということで部長をやらされていたが積極的に活動する娘ではない。むしろ、話していても反応の薄い、何を考えているかわからない娘だ。この友人の一人もいない生徒を鏡は便利に使っていた。
「何でもいい。十文字先生の弱みになるような証拠を押さえろ。多少なら捏造しても構わない」
「それで先生はエッチな命令でも聞かせるつもりなの?」
「そんなつもりはない。俺はこれでも不自由はしていないのでな」
「それは信じられないけど……いいわ。十文字先生の弱みを押さえればいいのね」
蛭子は無表情に渡されたデジカメとICレコーダーを制服のポケットにしまい込んだ。
*
ゴールデンウィークが終わると短縮授業になり、午後は体育祭の練習が組み込まれた。月末には学校の一大イベント、体育祭が開かれる。
千衣はジャージに着替え、競技の指導に当たっていた。とはいえもともと運動の得意ではない千衣は先輩教諭の言いなりになって走り回っているだけだ。
「おい、見ろよ。千衣先生」
「ああ、すごい胸だな」
「あの揺れ方、はんぱねぇ!」
「最低!」
男子のひそひそ話を小耳にはさんだ女子が冷たい視線を送っているが男子たちはそれにも気付かない。すごいすごいとはしゃいでいる。
千衣も男子の視線には気がついている。でも、しょうがない。これは仕事なのだ。
*
「お待たせいたしました。校長の秋川です」
事件は校長室にかかってきた1本の電話から始まった。
今年度も無事に始まった。新人が一人入ったが、なんとか生徒に受け入れられたようだ。危なっかしい娘だが、一所懸命で好感が持てる。このまま何事もなく一人前になってくれればいいと思う。校長の仕事は生徒の相手だけではないのだ。若い教師をこじれさせることなく育てる。それも重要な仕事だ。近年は若い教師に対する圧力が強く、折れされずに育てるのも大変だ。今どきの若者は……などという者もいるがそんなことはない。皆真面目な子たちなのだ。真面目すぎて線が細いことは否めないが、経験で克服できる程度のものだ。
だが、敵は真っ当ではないのだ。そして、今年も板挟みになることとなった。
*
ある日の放課後、校長室に呼び出された千衣はジャージ姿だった。月末には体育祭がある。連休明けからは紅白に分かれて練習が始まっていた。新人の千衣も練習の監督に駆り出されていた。学校にいるほとんどをジャージ姿で過ごすようになっていた。
「十文字先生は学校には慣れましたか?」
「はい。先輩の先生方も皆さんいい方ですし、生徒たちもみんないい子たちです」
「それはよかった。それはよかったんですけどね。先日、私のところに電話がかかってきましてね……」
秋川校長は言いにくそうに千衣を……千衣の胸を見る。言わんとしていることがわかってしまった。また同じことが繰り返される。千衣は自分の身体が、自分が嫌いだった。必要以上に女を強調する脂肪の塊。そのせいで電車の中で痴漢に遭うこともしょっちゅうだったし、厭らしい目で見られることなど当たり前だった。学生時代には胸の大きい女は頭が悪いなどと同性の教授に嫌味を言われたこともある。同級生には誘っているのだろうと襲われそうになったこともあった。
望んでこんな身体になったわけじゃないのに。
「生徒には刺激が強すぎるというご指摘がありましてね。いえ、十文字先生にそんなつもりがないことは我々はわかっています。けど、こういう指摘は無視できないのも事実でして……」
「それは十文字先生の問題ではないと思いますが」
同席した指導教員の福島教諭が校長に反論する。
「それは勿論です。十文字先生がなにかをしたわけじゃありません。でもですね。相手はこちらの言い分は聞いてくれないんですよ。十文字先生を守るためにも何かしらの対応する必要があるんです」
秋川校長は苦しそうに言葉を吐き出した。
「私はどうしたらよろしいのでしょうか?」
板挟みになって、それでも千衣のことを考えてくれている校長を責めるべきではない。千衣は校長の指導を受け入れることにした。
「しばらく十文字先生は体育祭の指導から外れてもらいましょう。ジャージ姿は控えてください」
福島先生はモンスターペアレントの言いなりになる校長の姿勢に不満げであったが、千衣としては気にならなかった。運動の得意でない千衣にとってジャージを着なくてよいのは気が楽だ。
*
体育祭の練習指導から外された千衣はグラウンド以外の全ての監督を任されていた。この時期のグラウンド以外と言うと裏方の全てと言ってもいい。雑用を押し付けられての体の良い厄介払いだ。だが、それも気が楽だ。
「さてと、裏庭の園芸場って……この時期に活動なんてしているのかしら?」
今日は園芸部の見回りを押し付けられていた。
やがてたどり着いた園芸場の一角に体操着を着た一人の男子生徒がいた。大型のスコップを持って何かしている。千衣はその生徒に見覚えがあった。千衣の担当するクラスの黄泉坂結弦だ。
「こんにちわ」
「ああ、十文字先生」
千衣が来たことに気がついていたのだろう。結弦は驚いた様子もなく応えた。
黄泉坂結弦は大人びた子だった。どこか不思議な存在感がある。大柄な体格のわりに控えめな性格で目立つようなことはしない。それでも自然とクラスの中心にいる。普段からはしゃいだり羽目を外したりせず、他人と言い争うこともない。真面目な生徒だ。今も堅苦しく苗字で呼びかけてくる。別に距離を置こうとしているわけではない。ひと月が過ぎ、ほとんどの生徒が名前で呼んでくれる中、少し硬すぎるとは思うがそれも彼の個性なのだ。
それが証拠に彼の周りにはいつも友達がいる。ただ、面倒見がよすぎて何かと押し付けられていたようにも思う。これも体よく押し付けられたのだろうか。
「黄泉坂君一人なの?」
「ええ、部長はいるんですけど来たり来なかったりだから。それ以外は幽霊部員みたいなものですから」
「ふうん……で、黄泉坂君はなにをやってるの?」
結弦は土の山となんだかわからない袋と篩を持って格闘しているところだった。
「体育祭のとき、正門とゲートの周りに仕切り代わりに花のプランターを並べるんです。今日はその準備に土を作っています」
「へえ、見ててもいい?」
「いいですけど、そこだと土が飛んで汚れちゃいますよ。もっとこっちに来てください」
千衣は言われる通り結弦の後ろに移動した。
結弦はそのまま黙々と作業に集中している。
土の山に肥料と石灰だろうか、を少し混ぜ、篩を通して新しい山を作っていく。
「肥料って何種類もあるんだね」
「植物の栄養で必要なのは窒素、リン、カリなんです。混ぜたものも売ってますけど高いから。それに窒素が多すぎると花の色が悪くなるのでうちでは調整して混ぜて作ってます」
「へえ、そうなんだ」
どうやら押し付けられて嫌々やっているわけではなさそうだ。
「土はすぐ塊になるのでほぐしてやらないとちゃんと根が張らないんです。だから面倒でもこうやって篩にかけるんです」
そのとき、千衣は小さくなってきた土の山の中に白い小石のようなものを見つけた。
「あら、これなぁに?」
「あっ、先生、それは……」
摘まみ上げた白く丸い石が手の中でにょろりと動いた。
「きゃあ!」
千衣は小石のようなものを放り出し、悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか?」
「う……うん。大丈夫。びっくりしたぁ」
「……それで、先生……その……あの……」
「あっ、ごめんなさい」
顔を真っ赤にして言いにくそうにする結弦の言葉に千衣は我に返る。虫に驚いた千衣は結弦にしがみついていた。スーツで隠しきれない胸が結弦の左腕に押し付けられていた。胸の谷間でロザリオがキラリと光る。
「あ……いや……。服汚れませんでしたか?」
「え……ううん。大丈夫。叩けば落ちるから」
慌てて離れる千衣。恥ずかしさと申し訳なさに顔が熱くなる。
中学二年生男子としても気恥ずかしいのだろう。結弦が急に立ち上がる。今まで黙々と作業していたのが嘘のように口数が多くなる。
「それはコガネムシの幼虫です。屋外だから除虫剤撒いててもどうしても入ってくるんです。コガネムシの幼虫は草花の根を喰って枯らしちゃうんでかわいそうですけど……」
千衣の投げ捨てた幼虫を確認した結弦はそう説明すると靴の踵で踏みつぶした。そして軽く手を合わせた。
「全うできなかった今生に代わり良き転生を。」
園芸部員にとって害敵であろう虫の命にも敬意を払う結弦に千衣は好感を持った。
「黄泉坂君は優しいんだね」
「別に……普通です。ただ、うちは親父が命を粗末にするなってうるさいんで……」
結弦の家は飲食関係の商売をしていたはずだ。人が生きていくためには必ず他の生命を奪わなければならない。身体を維持するための食材とするだけでなく、人生に潤いをもたらす花を守るために害虫を殺すことも必要悪である。人が勝手に害虫と呼んでいるだけで彼等にも彼等の生き方がある。それは敬虔な十字教徒の家に育った千衣としては共感できるものであった。
「たとえ小さくても生き物の命に敬意を払える人って先生好きよ、黄泉坂君」
作業を再開していた結弦の動きが止まった。
「やっほー、黄泉坂! プランター持ってきてやったよ」
突然、棒読みで結弦に声を掛けながら校舎の陰から女子生徒が現われた。プランターを載せた台車を押している。
「蛭子先輩、ありがとうございます。というより力仕事終わるまで待っていたでしょう?」
「わはは、ばれたか」
園芸部の先輩らしい。他一名しかいないという部長が彼女だろう。千衣をちらりと見て結弦に尋ねる。
「誰?」
「新任の十文字です。よろしくね」
「そう、よろしく」
蛭子雅美は目を合わさずにそう答えた。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
第2話は、新任の千衣先生が狙われます。千衣先生と個人的に係わった結弦少年はどう動くのでしょうか?
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。