26.主よ!
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
Domine, Jesu Christe, Rex gloriae,
主よ、栄光の王よ、
libera animas omniurn fidelium defunctorum
地獄の苦しみと深淵から、
de poenis inferni, et de prof undo lacu:
全ての死せる信者の魂を
libera cas de ore leonis,
地獄の罰と深淵からお救いください
ne absorbeat eas tartarus, ne cadant in obscurum,
彼らの魂を獅子の口からお救いください
sed signifer sanctus Michael
そして、あなたの旗手である聖ミカエルが、
repraesentet eas in lucem sanctam,
かつてアブラハムと彼の子孫に約束したように
quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.
聖なる光へと彼らを導いてください
(レクイエム:Domine Jesu「主、イエスよ」)
「主、唯一神に仇なす蛮族の邪神を打ち滅ぼせ! かかれーーーーっ!」
「「「うおおおおぉぉぉぉーーーーっ!!!」」」
ミカエルの檄に1万の軍勢が応える。
これ以上四の五の言っても始まらない。戦は始まったのだ。
*
1万というのは……すごかった。
軍勢というより津波だった。オレに対する殺意が一つの塊となって押し寄せてくる。正直怖い。
「主様、ベルゼブブ軍10万を退けたあなた様ならたかだか一万などたいした敵ではありますまい」
「そうは言ってもだな、ハエ五郎……オレは怖いぞ」
こんなこと他の奴らには言えない。オレを信じてここまでついてきてくれたものたちに弱音を吐くところなど見せられない。
毘沙門天も仁王もたとえ敵わないほどの敵に対しても怯むことはないだろう。命を絶たれるその瞬間まで勝利を目指して抗うだろう。
だが、オレは戦神ではない。一人前ですらない。だから怖いものは怖いのだ。
オレだってこれまでケンカをしたことはある。戦だって数度経験した。だが、それは軍勢同士の衝突だった。大将首として狙われたことはある。殺意を向けられたことだって。
しかしそれは戦闘の中での戦いの一幕にすぎない。本当の戦いは目の前の敵にしか殺意は向かない。向けられないのだ。そんな余裕はない。
だが、ここでは1万もの数の殺意がオレ一人に向けられている。そんな経験したことはない。足がすくむ。手が震える。
「主様、殺意の色が見えますか?」
「色だと?」
こんなときにハエ五郎は何を言い出すのだ。
「オーラと言い換えてもいいでしょう。随分と薄いと思われませんか?」
そんなこと言われても目の前に見えるのは真っ黒な殺意の壁にしか見えない。
「重なっているからそう見えるだけです。所詮数の力です。そうではなく。個々の殺意がわかりますか?」
「あ……ああ……」
言われて見れば1万も重なってみれば透明であっても先は見通せまい。だが、一枚一枚で見れば……黒く濁った半透明の靄でしかない。
「こんな薄い殺意など……ふっ」
「なあ、ハエ五郎。殺意ってこんなに薄いものなのか?」
身近に殺意など見たことがないのでわからないが……
「所詮、借り物の殺意ということでございましょう」
「借り物?」
「奴ら、天使どもが主様に殺意を持っているわけではありません。誰かの殺意を植え付けられただけのものなのです」
「だが、天使の殺意とはすなわち信仰心ではないのか?」
「主様、天使どもは信仰を受ける側なのです。しかも唯一神の眷属として。奴らは機械的に唯一神に従属しているにすぎません。信仰心などありはすまい」
「では、この殺意は……?」
「派兵を命じた奴、天使の頂点に立つ者どもでしょうが、主様に面子を潰されたと恨みに思っているやつ、その者の逆恨みのコピーにすぎません。だから1万集めてようやっと一人分……一人の殺意ならご経験もございましょう」
「ああ、そうだな!」
ハエ五郎、ルシフェルだったころのお前ならもっと濃く、粘っこい殺意を向けてきたぞ!
お前との死闘を潜り抜けたオレだからわかる。
この闇は温すぎると
*
衝突した。そう思った瞬間、前線が弾け飛んだ。
前衛の千が崩されるのはあっという間だった。一瞬で戦力の1/10が消滅したのだ。
ミカエルは戦慄した。
自分たちは勘違いをしていたのではないか。
戦力の逐次投入などせずに全軍を率いてぶつかるべきだった。
今更だ……
ミカエルは考える。
今、自分にできることをやるしかないのだ。何ができる……
!?
敵の密度に差があるように感じる。
消えたマラコーダからの情報では、敵の主力は代替わりしたばかりの若き閻魔及びその側近とのことだった。なら全員が強いわけではないのか。
また、マラコーダはこうも言っていた。若き閻魔は未熟で最善が選べない。部下を切り捨てることができない。部下を守れなければそれは必ずや彼の疵となろうと。
本来、天使は悪魔など相手にするべきではない。他の熾天使たちなら歯牙にもかけないだろう。だが、唯一神の旗手として戦場に立つミカエルは情報を疎かにしない。
ならばできることがあるはずだ。
「兵を両翼に集中させろ。中央は牽制に努め損耗を抑えることを優先するのだ!」
*
流れが変わった。
初手で圧倒し、踏みにじろうとする圧力が弱まった。代わりに手数を繰り出し足止めしようとしてくる。無視してもよいのだが、地味に痛い。押してくるなら打ち倒せばよいが、いなそうとしてくる相手を倒すのは存外難しい。敵に受ける気がないのだ。
蛭子先輩は宣言した通り天使の攻撃をぬるりぬるりと避けている。そちらは心配しなくても大丈夫そうだ。だが……
「痛っ……痛いってば……こんにゃろーっ!」
ひかりの地味な悲鳴が聞こえる。圧倒できない苛立ちなのか。
「主様、少々まずい展開になってきました」
焦りを交えたハエ五郎の声に気が付いた。敵は弱いところを突いてきた。死人でありながら天界に臨み枯渇しかけた法気をお守りでかろうじて支えている……つまりはひかりだ。
「させるかーーーーーーーっ!」
焔魔刀を一閃させるも避けるに特化した敵は1割も削れなかった。大振りになった隙を突かれて四肢に天使がまとわりつく。
やばい
ダメージを負うような攻撃ではない。だが、思うように動けない。
見ただけでわかる。ひかりの存在が刻一刻と薄くなっているのが
畜生っ!
オレはまた守れないのか……
いつも俺の側にいてくれた大切な存在を
「主様、時が来たようでございます」
ハエ五郎が言う。
「もとより銀蠅の寿命は数週間。主様のお力でここまで生き永らえて参りました。もう十分でございます」
まて、何を言っているのだ、ハエ五郎。
「いずれ尽きる命なら主様のお役に立ちとうございます」
何を言っている、ハエ五郎。お前は十字教天界への道案内役だぞ。まだその使命を果たしていないじゃないか
「主様が臣の命と大切なものを秤にかけるようなことはして欲しくはございません」
ハエ五郎、オレはお前に命じたはずだ。お前の命はオレのものなのだろう?
「主様のおっしゃる通りです。私は自ら命を捨てるようなことは致しません。ただ寿命なのです」
ダメだ、ハエ五郎。ここで死んだら、天界に捉われる。地獄に戻れなくなるんだぞ!
「さらばです。願わくば、主様が理想の世界を創られんことを……」
ハエ五郎は耳の中から飛び立つと天高く舞い上がった。
「行くなっ、ハエ五郎――――――っ!!!」
オレの呼びかけにハエ五郎は振り返りもしなかった。
*
敵陣の中央から放たれた光をミカエルは見た。
それは異質な光であった。よく知っている光であった。
それは禍々しくも清廉であり眩くも目が離せない光であった。
光は言葉を放つ
ああ……やはり……やはりお主であったか……
*
主から十分に距離を取っったところでハエ五郎は敵陣を見据えた。
これだけの距離を隔てても目が合った気がした。
これ以上待たせるとひかり殿がもたないでしょうね。
「ミカエル殿、しばらく見ないうちにずいぶんと鈍ったのではございませんか? たかだかハエ一匹潰すのにこれほどの軍勢に守られているなどとは……」
びゅうううっ!
降魔の矢がハエ五郎の傍らをすり抜けた。
1kmは離れていようにこの正確さ、この威力。やはり侮れませんね。
仇敵の健在に笑みが零れる。
「やはり鈍っておられる。以前なら一撃で心臓を貫かれたでしょうものを……私のことをお忘れでしょうか? 頭も鈍られたか? ボケるには早いと思いますよ。私ですよ、私。あなたのルシフェルでございますよ」
旧名を名乗るとき、ハエ五郎は一瞬だけ顔を顰めた。黒歴史なのだ。忘れたいのだ。だが、それだって主様のためなら使いこなそう。今の自分はハエ五郎。閻魔大王黄泉坂結弦様の家臣なのだ。
「お久しゅうございますなぁ。慢心されているとは聞いておりましたが、ここまで落ちぶれられるとはそれも一種の才能でございますか? さすがはミカエル様、落ちぶれ具合も伊達ではない。ほら、ハエ一匹仕留められぬようでは唯一神の旗手の名が泣きますよ。ほ~れほれっ!」
怒りに顔を染めた旧友が目に留まる。
だけど、私の狙いはあなたではないのですがね。
心の中でハエ五郎は謝った。だが、もちろん態度には出さない。
*
「皆の者、敵は奴だっ! 堕天使ルシフェルを打ち取れっ!」
ルシフェルの狙いなどわかっていた。だが、それもどうでもいい。
面子だと? クソくらえだ。元々、我らの犯した失態であろう。自分のケツは自分で拭くものだ。天使はうんこなどしないがなっ!
ミカエルは自慢の旗槍を翳し、光を追ってぶっ飛んだ。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
力では勝る結弦たち。しかし、歴戦の勇将ミカエル率いる天使軍も簡単には引き下がりません。飛び出したハエ五郎にはいったいどのような秘策があるのでしょうか。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




