19.悟り
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
「もっと早く!」
「はいっ!」
一夜、休んだオレは昨日の戦闘を克服するべく鍛錬に励んでいた。傷は毘沙門天に癒してもらった。問題はない。
「もっと鋭く!」
「はいっ!」
必死に焔魔刀を振り下ろす。このまま阿修羅に向かっても昨日と同じことになるだろう。それではだめだ。オレには足りないものばかりだ。それでも何かを掴まなければならない。
「もっと集中して!」
「はいっ!」
焔魔刀を振り下ろす。
……だめだ。何もつかめる気がしない。それは稽古をつけている毘沙門天も同じだったのだろう。
「閻魔がぬるい育て方をしていたはずはないのですが……」
ここでの閻魔とは親父のことを言っているのだろう。つまりオレがダメだということだ。
オレが店の手伝いをしていたとき親父はいつも話していた。地獄を知らなかった頃のオレはただのおとぎ話だと思っていた。知ってからでも与太話か自慢話かと思って真面目に聞いていなかった。だがそうではなかった。ルシフェルとの戦いでは親父の教えが役に立った。オレが曲がりなりにも閻魔大王としての職責を果たしていられるのは教えられたからだ。親父はぬるい育て方などしていなかった。
思い出せ。親父は何を言っていた? オレに何を教えてくれた?
あの日、親父は包丁を研いでいた。いつもの乱暴な扱いではなく、丁寧に細心の注意を払って研いでいた。やがて研ぎ澄まされた刃に納得したように頷いた。
「切れない包丁ほど危ないものはない。切れないということは余計な力がいる。無駄な力とは制御できていないということだ。扱いきれない力はいつか己を傷つける」
そう言うと親父は鶏のもも肉をまな板の上に置いた。鶏肉は柔らかくてぐにゃぐにゃして切りにくい。親父は滑らせるように包丁を引いた。どこにも力など入っていない。なのに鶏肉はもともとそうであったかのようにバラバラになった。
「すごい……」
感嘆の声を上げるオレに向かって親父は言った。
「研ぎ澄ませた刃はこんなものだ」
竹串についてもそうだった。
一束百円のどこにでも売っている竹串は親父が小刀でひと撫でするだけで簡単に鶏肉を貫いた。削ったようには見えなかった。それどころか切りくずの一つも飛んでいない。だが、間違いなく尖っていた。
「鋭さというものはそういうものだ。目に見えないほど鋭く尖った竹串は鉄板すら貫くのだ」
そのときは親父のすごさに圧倒されて意味などわかっていなかった。だが、毘沙門天も言っていたじゃないか、もっと鋭くと。もっと集中しろと
「主様、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
黙って考え込むオレにハエ五郎が遠慮がちに問いかけてきた。
「なんだ? ハエ五郎」
「阿修羅王は倒さなければならないのでしょうか?」
「はぁ!?」
うかつにもオレは気の抜けた声を上げてしまった。
「阿修羅王は極楽天界戦力の主軸です。十字教天界とせめぎ合っている今、阿修羅王を失うことは極楽教界にとって損失のはずです。主様、あなたは何を望みここまで来たのですか。阿修羅を倒すためですか? 目的を忘れないでください」
ハエ五郎の言いたいことはわかる。阿修羅は同じ極楽教界の主力戦力だ。唯一神と話し合いたいというオレの目的とは関係ない。しかし、そうではないのだ。今の阿修羅をオレは認められない。
「意味はあるのだ。ハエ五郎、お前はオレの戦いを見届けてくれ」
*
「お主、悩んでおるな」
髭もじゃの男が言った。
その通りだ。オレは今、悩んでいる。
無駄な争いを終わらせたいこと。無責任なやつらに使い潰されるのはごめんだということ。そのために仲間を傷つけたくないこと。自分の力が及ばないこと。気持ちばかり先走って何もかもうまくいかないこと……
結局、一人洞窟に籠って座禅などを組んでいる。それも見様見真似だ。こんなことで何とかなるとは思えない。それでも他にできることなどないのだ。
毘沙門天も同意してくれた。
「大王様も気持ちを落ち着ける時間が必要でしょう」
問題はオレの実力不足なのだ。気持ちを整理しても解決するとは思えない。それでも何もしないではいられない。
で、座禅だ。
いつの間にか向き合うように座っていた男を見た。
痩せた男だった。顔の下半分を覆う髭で年の頃が読めない。蓬髪というのだろうか、汚れた髪は伸び放題であちこち絡っている。着ている道衣は、もとは赤かったのだろう。薄よごれ、あちらこちらが擦り切れている。はっきりいってみすぼらしい。
だが、軽んずることはできなかった。
ぎょろりと見開いた目は射すくめるような力があった。
「あ、あなたは……」
「愚者である!」
切り付けるような言葉であった。
愚者……目の前の男、禅僧なのだろう、は愚者には見えない。悟りを開いたかのような堂々とした威風を感じる。
「愚者とは何でしょうか?」
愚者というなら目の前の高僧よりオレのことだろう。
「愚か者のことである!」
それならますますオレのことだ。
「愚かとは何でしょうか?」
「己を知らぬことである!」
「己とはなんでしょう?」
「器である!」
「器とは何でしょう?」
「入れ物である!」
だんだん訳が分からなくなってきた。
「何を入れるのでしょうか?」
「凡てである!」
「凡てとは何でしょうか?」
「無である!」
訳が分からん。これでは禅問答だ。いや、禅問答なのか。だが、嫌ではなかった。オレの悩みに答えを導くように思えた。間違いなく近づいている。
「ならば己とは無なのでしょうか?」
「うむ、だが、それが難しい」
禅僧の表情が緩んだ。
「無とは何でしょう?」
「無いことである!」
「虚無とは違いますか?」
「違う!」
「では有とは違いましょうか?」
「……無は有ではない!」
「では有を減らしていき、極限まで減らしたものは無ではないのですか?」
「無は無いことである!」
「人間とは何でしょうか?」
「煩悩である!」
「煩悩を無くすことはできますか?」
「悟ることである!」
「煩悩を減らすことはできますか?」
「功徳を積むことである!」
「減らしても無にはならないのですよね?」
「うむ。こざかしい小僧め。功徳を積むことは意味がないと申すのであろう」
禅僧はにやりと笑った。
「そこまでは……人間誰もが悟れるほど己を知るわけではありませんから。でもオレはそれでいいと思います」
「うむ」
「皆が自分のできる範囲で責任を取ればいいと思っています」
「それでは悟りなど開けぬぞ」
「悟りを開いた方が導けばよいのでは?」
「喝――っ!」
やはりなれ合ってはくれない。
問答をしていて自然にわかった。この高僧の名を。
禅宗の開祖にして悟者。座禅により大悟に至った聖人だ。
もちろんオレは悟りを開こうなどとは考えていない。オレが何をすればよいのかそのヒントが欲しい。それはオレがやるべき、オレがやらなければならないことだ。
「愚僧をこき使おうと申すか」
「貴方は、貴方の弟子たちは既に衆生を立派に導き救っております。達磨大師様」
禅僧は否定しなかった。
「大師様、有を減らすとは何でしょうか?」
「減じることである!」
「無で有を裁くことはできますか?」
「無は無である!」
「有を倒すには有であることが必要なのですね」
「有とは存在である!」
「存在とは何でしょうか?」
「在ることである!」
「存在には密度があります!」
「確かに存在とは量であり密度である」
「なら密度があれば有を優れますか?」
「……お主にできるか?」
大師は否定しなかった。
オレは立ち上がり洞窟の出口に向かった。
できるかできないかではない。やるしかないのだ。
阿修羅の法力にオレは敵わない。なら密度で優るしかないのだ。
オレの法力はたいしたことがない。だが、密度を上げることはできるはずなのだ。密度とは面積当たりの力である。オレの力を刀に載せる。刀の刃全面に法力を載せたのでは鈍すぎる。
のっぺりと全面に載せた法力ではぼんやりしている。
それを磨く。磨き磨き磨いて研ぎ澄ませる。
そうした刃に載せた法力は鋭い。
刀の刃筋は固体金属としての辺を持つ。本来、辺とは線である。線は点と点を結ぶ座標の連なりであり、幅を持たない。つまり有であり無である。
単なる無であれば有に及ぼす力は宿らない。有を凌ぐのは有なのである。ただしそれは量ではない。力で圧倒することを意味しない。
オレは焔魔刀を抜いて正眼に構える。そして刃に法力を載せる。
通常ならば法力を載せた刃は硬くなる。並の金属なら凹んでしまうところを凌ぎきる。一点に集中した力を凌いだ刃は、襲い掛かる力を跳ね返す。
だが、跳ね返すために消費する力がかからねばどうであろう。正しくは消費する力が限りなくゼロに近ければ……
正眼に構えた焔魔刀の刃に載せた法力を半分に絞る。普通なら力を抑えた分、密度は下がる。迎え撃つ力が下がれば押し負ける。支えきれなかった刃がオレの体を断ち切るだろう。
だが、それは総量の話だ。オレは焔魔刀に加えた刃の法力を絞る。量ではなく。面を絞る。半分に絞る。加える力が半分になったとしても与える面積が半分になれば密度は変わらない。
鍛造で鍛え上げられた鋼の一分子にまで意識をいき渡らせる。1mmの半分の半分の半分の半分の半分。およそ百万分の一の幅まで絞り込む。
法力で強化した数nmの刃は敵の剣すら抵抗もなく切り裂くであろう。
強化した焔魔刀を振るう。
眼前の岩が抵抗もなく四散した。
「…………」
着物を着崩し、諸肌脱ぎになったひかりが目の前にいた。もう少しでいけないところが見えてしまいそうだ。
「イヤっ!? ゆーくん、見ないで……」
オレと目が合ったひかりは顔を真っ赤にして着物を羽織りなおして後ろを向いてしまう。
「言った通りだろ。天岩戸に籠った天照大神を呼び出すには天宇受賣命が踊ればよいと」
阿形こと明兄が当然のように言う。
天宇受賣命って……明兄、後で説教な。妹にストリップダンスさせるなんてなんて兄だ。
「ひかりがやるって決めたのです。大王様が食事もとらずに一週間も籠っていたので、それは心配していたのです。それはわかってやってください」
一週間も経っていたとは……でも、妹に破廉恥させる言い訳にはならないからな。
ともかくオレは次の戦いへの準備を整えたのだった。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
力不足に悩む結弦の前に達磨大師が現れます。禅宗の開祖との問答で結弦は何かを掴んだようです。新しく得た力でどのように阿修羅王に立ち向かうのでしょうか。
天岩戸を模した小話が今回のオチでした。おっぱい星人の結弦君にひかりちゃんのお色気は通じたのでしょうか?
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




