1.新学期
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象にまつわる物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
「……僕はお父さんが大好きです。将来はお父さんのようにみんなに頼られる人になりたいです。5年1組、黄泉坂結弦。」
小学生のとき、授業参観で作文を読み上げると親父は声を上げて泣き出した。少し恥ずかしかったけど、嬉しかったことを覚えている。
作文に書いたのは本当のことだ。『両親への感謝の気持ち』というテーマだった。結弦には母親がいない。結弦が生まれてすぐに亡くなったそうだ。覚えてもいない。
結弦の家は居酒屋『閻魔堂』を営んでいる。だが、飲みに来る客より親父に相談しに来る客の方が多かった。だいたい商店街の人達だ。親父は客の悩みに手助けしたりアドバイスしたり。皆、親父に感謝して帰っていく。相談事は些細なもめごとがほとんどだったが、毎日のように相談があると子供心にも大人の世界はくだらない、そう思うようになった。
ひねた子供だったと今では思う。
そんなトラブルを親父は何でもないことのように捌いていく。子供の結弦にとって父親はあこがれのヒーローだった。別に悪と戦うわけではない。小学生も高学年になればそんなわかりやすい悪の組織などいないことはわかっている。だが、世の中に悪意は満ち溢れている。親父はそんな漠然とした敵と戦っているのだと思った。
親父みたいになりたい。いつか自分もああいう存在になりたいとずっと思っていた。小さい頃から親父の後をよちよちついて回っていた。その頃からすっと憧れていたのだ。けど悩みも尽きない。どうしたらあんなふうになれる?
*
4月、穏やかな春の日差しが降り注いでいる。
結弦は中学2年生に進級した。新学期最初の登校日、いつものようにひかりと一緒に学校に向かう結弦は宵が原商店街の出口で山元康太に会った。
「おはよう! 康太」
「おはよう、結弦! どうだ? 春休みの間に覚醒したか?」
「しねえよ。どうやらオレの前世は一般人らしい」
同級生の康太は見ての通りの中二病患者だ。自分を闇の一族の生まれ変わりだと思い込んでいる。影響を受けやすい康太のことだ。マンガかアニメかで見たのだろうが、結弦には出典が思い当たらない。
「相変わらずだね、康太は。闇の炎に抱かれてよく眠れた?」
「ほっとけよ、ひかり!」
「あははは……」
一緒にいたひかりの冷やかしに康太がむくれる。
結弦にとって康太とひかりは同じ商店街で育った幼馴染だ。明るくて優等生のひかりと能力を運動にほぼ全振りした康太はいい仲間だった。
「康太の病気はともかくとして、ゆーくんの前世が一般人ってのは私もないと思うな……」
「だろだろ……」
「おいやめろ。それ以上……」
「「だって、お父さん、魔王様じゃん!!」」
結弦は顔をしかめた。
結弦の家である居酒屋『閻魔堂』は父親が店主なのだが、店の一等席で酔っ払っているだけで、ほとんど何もしていない。実際のところ住み込みで働いているひかりの両親、黒鉄夫妻が店を切り盛りしている。夫の源治さんは腕のいい板前で品書きにないものでもなんでも作る。しかもとてもうまい。こんな流行らない居酒屋にいるような人ではないと結弦は思っている。親父とは古い付き合いらしい。妻の満代さんは源治さんより一回り若くてきれいなひとだ。とても優しい。細身の体で店の中を駆け回って酔っ払いどもを上手にあしらっている。この店にお似合いのガラの悪い客どもも満代さんの言うことは素直に聞く。満代さんがいなかったらこの店は立ち行かなかっただろう。従業員というより家族みたいなものだ。満代さんは結弦の母親代わりでもある。
母親がいない結弦はいつも父親の後をついて回った。店にもついていった。店にいれば同い年のひかりがいた。店では源治さんと満代さんが面倒を見てくれた。ひかりの10歳上の兄、明兄ちゃんもいた。結弦とひかりはこの店で一緒に育った。だから結弦は寂しいと思ったことはなかった。
店ではほとんど働かない父親だが、宵が原商店街では商店会の会長を務めている。それなりに役には立っているらしく商店街の人たちが毎日のように相談に来る。父はいつもの席で焼酎の一升瓶を抱えて話を聞いている。
「よし、わかった。明をよこすから話をまとめさせろ」
「助かるよ、魔王」
『魔王』というのは父親のあだ名だ。愛飲する焼酎の銘柄からつけられた。誰も本名では呼ばない。結弦はこのあだ名が好きではなかった。なぜなら……
「よう、王子! 相変わらず難しい本読んでんのか?」
「宿題やってるだけだって。それより王子はやめてよ」
「何言ってるんだ。魔王の倅なら王子だろ! がはははっ!」
結弦は酔っ払いには何を言っても無駄だということを悟った。居酒屋店主の息子に何が『王子』だと思う。だが、ほとんど抵抗しない結弦に客たちの間でその呼び名は定着してしまった。そのうち源治まで『王子』と呼ぶようになった。満代は『王子』とは呼ばないが、いつまでたっても結弦を子ども扱いする。もう、いい加減『ゆーくん』って年じゃない。自分も中学生になったのだから。
結弦にはそれが少し不満だった。
*
「そういえばさ。新しい先生が来るんだって。新任の女の先生らしいよ」
登校の途中で思い出したようにひかりが言った。
「その先生、美人?」
若い女の先生と聞いて康太が喰いついた。
「そこまでは知らないよ。でも、閻魔堂で噂になってたくらいだからそうなんじゃない? まあ、康太には残念なことだけど」
「なんで俺には残念なんだよ」
「女の先生だったら康太、はしゃいじゃって怒られてばかりになるじゃない。あーあ、康太かわいそう……」
康太に限ったことではないだろう。結弦たち男子にとって同級生女子は口喧しくて見下してくるちょっと煙たい存在なのだ。兄弟同然に育ったひかりでさえ、たった数カ月早く生まれただけでお姉さんぶってきてときどき鬱陶しい。その点、年上の女の人は自分たちのことをやり込めたりしてこない。結弦も普通に期待してしまう。
「ゆーくんも美人の先生がきてうれしいんだ?」
顔に出ていたのだろうか。飛んできた火の粉を結弦は慌てて打ち消す。
「そ、そんなことないよ。会ったこともない人だし、だいたいオレらの担任になるかわからないだろ」
「まあ、そりゃそうだ。俺は蛮族との決戦に備えなきゃならないからな。それまでに暗殺剣のスキルレベルをあと5つは上げておきたい。そんな暇ねぇんだよ」
「頑張れよ。/頑張ってね」
結弦とひかりは康太の妄想を華麗にスルーする。
新任の先生の話はすぐに忘れた。そんなことは自分たちと関わるようになってから喜べばいいことだ。そして、それはなぜか実現した。
*
「初めまして十文字千衣です。この4月から先生になりました。担当教科は英語です。それからこのクラスの副担任を務めます。皆さんと一緒に頑張っていきたいと思います。よろしくお願いします」
千衣先生の第一印象はおっぱいだった。そのくらいインパクトが強かった。小柄な体を包む白のブラウスと黒のスーツのボタンがはちきれそうだ。成熟した体に似合わぬ少女のような顔立ちが目を引き付ける。ショートカットの髪が笑顔によく似合う。噂と違って美人というよりかわいらしい先生だった。
二年三組の最初のHRの時間。担任の福島彩里先生に続いて教室に入ってきた先生を見て教室中が盛り上がった。福島先生は担任の挨拶の後、副担任として千衣先生を紹介した。新任の若い女の先生だということで生徒たちが盛り上がる。
「はい! 先生、彼氏はいますか?」
「いいえ、いません」
女子生徒の質問にとんでもないというように首を振って否定する千衣先生。ごまかしではなく本当にいないようだ。その初々しいしぐさに教室の雰囲気が柔らかくなった。
「先生、出身は?」
「休みの日は何しているの?」
「先生の趣味は?」
まるでお見合いかというように千衣先生のパーソナリティについての質問が殺到する。それに一つ一つ真面目に応える先生を見て、生徒たちは皆、先生のことが好きになった。
「はい! 千衣先生、何カップですか?」
浮かれた康太が手を上げセクハラまがいの質問をする。
「あっ……ええと……Gです……」
おおっ!
教室中にどよめきが広がる。
「じゃあ、千衣先生じゃなくてG先生だ!」
ばこっ!
うまいこと言ったふうにどや顔する康太の頭を後ろにいた福島先生がファイルではたいた。
「山元、今の君の発言は私に対する侮辱と捉えてよいのだな?」
福島先生は去年に引き続き担任なので、皆よく知っている。二十代後半のすらっとした長身の美人だが、きりっとした表情がきれいというよりかっこいい感じだ。少女歌劇団の男役みたいで特に女子生徒に人気がある。そして千衣先生と比べなくても……スレンダーだ。
慌てる康太にもう一撃くらわせて座らせると千衣先生にも注意した。
「十文字先生もそんな質問には答えなくていいですから。これから大人になったとき、このようなセクハラがまかり通ると思い違いをしていたら生徒のためにもなりません」
「はい。すみません……」
結弦たちと十文字千衣の出会いはこうしてどたばたとお説教で終わった。
*
部下の報告を聞き帝釈天は顔をしかめた。使えないやつらばかりだ。天部の長を務める帝釈天としては頭が痛い。下級神の言い訳など聞き飽きている。今日は四天王の長である多聞天がつまらぬ報告をしてきた。
「つまりは奪われた地獄奪還のために兵を出せということか」
「はい。地獄が落とされたとはいえ冥府には閻魔の張った結界がまだ生きております。十字教の奴らも命令はおろか立ち入ることすらできておりません」
「なら問題ないではないか。今問題とすべきはこの天界だ。小競り合い程度でではあるが、十二神将も出ずっぱりだ。むしろ押されているではないか。地獄に援軍を送る余裕などない」
「しかし、今のうちなら守りも固くなく内応も期待できます。これが完全に地獄が十字教の連中に奪われてしまってからでは手も足も出なくなります。結界とて無限ではありません」
今日の多聞天はいつになく執拗だった。いい加減立場というものを教えてやらねばなるまい。
「貴様、先程何と言った? 十字教の連中は冥府に立ち入ることもできていない。そう言ったであろう。ならば、地獄は落ちてなどいないのだ。閻魔が命惜しさに職場放棄しただけのこと。貴様は極楽天界を守ることだけ考えておればよいのだ」
ここ日本の地は長らく仏の支配する土地である。土着の神々は調伏されて極楽教の神に姿を変えこの国独自の信仰となり定着していた。帝釈天たち天部の神々も元々はアジア由来の神であったが、今は仏に臣従している。この土地の神々より長く仕えている分、極楽教界での位階は上だ。
しかし、500年ほど前から十字教の勢力がこの地にも侵攻してきた。奴らの信奉する唯一神は貪欲だ。先住の神々を調伏して取り込んだりしない。己以外はすべて悪。敗れれば闇に落とされる。負けるわけにはいかないのだ。
そんな信仰の奪い合いに天界が追われている隙に地獄を落とされたのだ。
極楽教では地獄は終着点ではない。死の入り口で裁きの場だ。功徳を積んだものは極楽への門が開かれる。罪のあるものは地獄の苦役で浄化され転生する。日本の地では天界である極楽浄土は信仰が厚い。だが、地獄はそれに劣らぬくらい定着している。この地に住まうもので地獄と閻魔を知らぬ者はいないだろう。そこに選択の余地はない。その分、安定していたはずだった。帝釈天もすっかり油断していた。まさか武力で奪われるとは。間違っても口にはできないが、閻魔が……あの鬼神が破れるとは夢にも思わなかった。
十字教勢はよりにもよって悪魔を使い、勇者という異能者の一党を雇い入れて地獄を落としたのだ。恥知らずにもほどがある。地上で流行っているげえむとやらの影響だろう。
勇者と呼ばれる異能者が強力な力を持つようになっていた。最近の話だ。そういう新たな信仰が生まれつつある。
頭痛にこめかみを押さえる帝釈天に向かい多聞天が報告を続ける。
「勇者は閻魔を破った後、地上に戻り既に死亡しております。一族の者も半数は死亡しており、これ以上の影響は出ないものと思われます」
「馬鹿か、貴様は。悪魔どもが地獄を諦め天界戦にまで出てきたらどうするつもりだ。地獄などどうでもよい。閻魔に責任を取れせればよいだけだ。下手に援軍を送って取り返せなかったら儂の責任になるだろうが。今は天界の勢力争いに注力すべきなのだ」
帝釈天は多聞天を叱り飛ばす。
天界の四方にはそれぞれを治める軍神がいる。北方多聞天、東方持国天、南方増長天、西方広目天で四天王の長として多聞天がいる。だが、多聞天には別の顔がある。単独では毘沙門天と呼ばれる。夜叉、羅刹を眷属とし、天界の暴れ者だったが、仏に調伏されて天界の守護神となった。毘沙門天として暴れまわっていた頃はそれなりに面白いやつよ思ったものだが、四天王に収まってからの多聞天はつまらぬ。
「ですが、現在の戦力を考えると閻魔に地獄の奪還はとても不可能かと……」
「そんなことはわかっている。だから知恵を出せと言っておるのだ。お前らの頭に詰まっているのはクソなのか? こんなことが仏部の方々に知られてみろ。儂一人の責任では済まされないのだぞ。お前ら全員堕天は免れないと思え!」
「おやおや、荒れておいでだねぇ」
多聞天を追い返した帝釈天をからかうように艶めかしい声がした。
「吉祥天……貴様に何か考えがあるというのか?」
「考えというかね……最近、面白いものを拾ったんでね。そいつで遊んでみようかと思ってるだけさね」
「何を企んでいる?」
吉祥天は天部の厄介者だ。幸運などという当たり前の命運の担当ということになっているが結局はふらふら遊びまわっているだけだ。ときには弁財天と名を変え宝船にも乗る。つまりは仕事もせずただその場その場を面白おかしく遊んでいるだけの神だ。帝釈天としては持て余している。
そんな帝釈天の思いなど気にもせず、吉祥天は煙管を吹かしながら気楽に言う。
「まあ、地獄のことは地獄の者にやらせればいいって話さね」
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
本作は作者初めてのファンタジー作品です。舞台は現代社会。ですが、忍び寄る影、何かを企む天界。結弦少年を取り巻く環境は動き出します。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。