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第一章 「アウェイカー」

 第一章 「アウェイカー」


「みんなも知っての通り、今から二十年前に起きた第三次世界大戦は期間こそ数ヶ月であったものの、それまでの二度の大戦とは違う意味で大きな変革をもたらした」

 教科書を手に、二十代後半ぐらいの若い教師が言葉を並べていく。

 今から二十年前、二千四年に、世界は大きく変わった。教師が口にした通り、第三次世界大戦が世界を変えた。この戦争はほんの三ヶ月のうちに終結しているが、問題なのは期間ではない。

 戦争をした二つの勢力、もっと言えば一方の存在が大きな問題だった。

「私たち、力を持ったアウェイカーの存在が公に認識されることになったのが一番の変化だね」

 アウェイカーという呼称は、特殊能力に目覚めた者、という意味でつけられたらしい。

 第三次世界大戦以前にも超能力を持つ者は存在していた。ただ、表舞台に出ることは無かった。多くの者は自らの力を隠し、人の中に紛れて生きていた。

 もし、力を公衆の面前で使えば迫害されていただろう。自分たちとは異質なものを恐れる人間の心理だ。

 だが、大戦の中心となった勢力はアウェイカーだった。

「アウェイカーの国を創ると宣言した組織、VANヴァンと、世界との戦いだ」

 教科書に書かれている調査結果によれば、千九百七十年代後半から八十年代前半の間にアウェイカーの集団が組織を創ったとされている。

 つまり、八十年代から既に戦いの火種は生じていたことになる。火種が燃え上がるのは第三次世界大戦の開始と同時だ。二千四年に組織が蜂起するまで、アウェイカーたちは水面下で準備を進めていた。いや、第三次世界大戦というのは、本当は八十年代からすでに始まっていたのかもしれない。戦争としてはっきり表に表れたのは二千四年だったが。

「結果は、一般的に世界側の勝利とされているが、事実は少し違う」

 教師は教科書に視線を落とし、言葉を区切ってから視線を生徒たちに向ける。

 一般的には、いや、公的には世界側がアウェイカーたちに勝利したことになっている。だが、この学校、この国で使われているフォックスアイ出版の教科書にはやや異なる事実が記されていた。

 アウェイカーたちに対抗できる兵器は、大戦の時点では存在しなかった。たった一人のアウェイカーを倒すために、大勢の兵士と武器、戦略が必要だったのだ。

 当然、そんな状態で勝ち目などあるはずがない。しかし、VANが敗北しているのは事実だ。

「大戦で戦っていたのは、アウェイカー同士だったわけだが……」

 教師は言葉を区切り、視線を走らせる。窓際のやや後ろに座る一人の生徒へと。

 適当な形の黒髪に、やや薄いが、同じ黒の瞳を持つ生徒だ。一見すると線の細い印象を受けるが、均整の取れた身体をしている。そこまで二枚目という訳でもない、見た目だけならどこにでもいるようなただの男子生徒の一人だった。

 授業が退屈なのか、少し眠そうな目で、教科書に視線を落としている。

「ライト・ブリンガー、つまり、カソウ・ヒカルは大戦において世界側の味方をしたわけではない、というのが真実だ」

 第三次世界大戦を終わらせた英雄として、カソウ・ヒカルという人物が記されている。ライト・ブリンガーと言う、英雄らしい二つ名を付けられて。

 教科書に掲載されている写真の人物は、まだ年端も行かぬ少年だった。戦いが終わった直後の傷だらけの服と乱れた黒髪で、安堵と、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた少年を中心に、数人の仲間たちと共に写っている。ヴィクセンというジャーナリストが撮った、大戦直後のカソウ・ヒカルを写した唯一の写真だ。

 その写真に写る少年は、窓際の席に座っている一人の生徒と、瓜二つだった。

 多くの生徒が、密かに少年に目を向けている。彼自身も気付いている。

「……結果的に、世界側に付いて戦ったと見られてしまっただけだな」

 二十年前、当時まだ十六歳だったカソウ・ヒカルは、VANに敵対するアウェイカーたちレジスタンスと共に戦った。一般的には、このレジスタンスが世界側の勢力として戦ったことになっている。

 しかし、カソウ・ヒカルは世界側に付いて戦ったわけではない。ただ、VANと敵対していたに過ぎない。

「そして、彼は大戦で生き残ったアウェイカーたちと共にこの国、ユニオンを創り上げた」

 VANの長を倒し、戦いを終わらせたカソウ・ヒカルは国を興した。かつての敵味方、人種、アウェイカーであるかどうかも問わず、誰もが平等に過ごせる国を目指して。

 恐らく、アウェイカーが自分の力を隠さずに生きられる場所はこの国以外にはまだ存在しないだろう。アウェイカーとしての自分を隠すことなく、力を持たない者と共に暮らしている国は他に類を見ない。

 アウェイカーの存在が公に認知されてきたとは言え、彼らを恐れる人々がいなくなったわけではない。依然として、他国ではアウェイカーに対する偏見は強い。故に、アウェイカーとなった者たちはほとんどがこの国に流れてくる。そして同時に、この国に暮らしている、力を持たない者たちはアウェイカーに対する偏見が無い。あったとしても微々たるもので、理解を示しているからこそこの国に身を置いているようなものだ。

 この学校では、アウェイカーとそうでない者が同じように並んで授業を受けている。アウェイカーに対する正しい知識と、実際にアウェイカーである生徒に対しては力の使い方に関する指導も行われている。この国の人口の半数以上はアウェイカーであり、またアウェイカーが力に覚醒するのは十代が主だ。学校教育の中にアウェイカーに関する授業が多く入っているのは、そうした新たな世代に配慮してのものでもある。

 アウェイカーたちが主となって創り上げた国なのだから、配慮するのは当然なのだが。

「この国はまだ歴史が浅く、皆と同じぐらいの年齢と言っても過言ではない」

 二十年前に第三次世界大戦が終わり、一年と経たないうちに、カソウ・ヒカルは建国を宣言している。

 大戦を集結へと導いた英雄の言葉を、世界は聞き入れるしかなかった。でなければ、今度は英雄が世界の敵になっていたかもしれない。

 この国があるのは、英雄カソウ・ヒカルの存在が大きかった。

「であるから……」

 教師が片手に持った教科書のページをめくろうとした時、授業終了のチャイムが鳴った。

「おっと、今日はここまでだな」

 教科書に栞を挿んで、教師は授業を終わらせた。

 昼休みを告げるチャイムに、教室は賑やかな雰囲気に包まれていった。


 ゆっくり歩きながら、一人の少年が大きく溜め息を吐いた。授業では窓際に座っていたあの生徒だ。

「ようやく昼飯か……」

 背伸びをしながら呟いて、ユウキは校庭の隅にある木の陰に腰を下ろす。

「あぁ〜、いい天気だなぁ〜」

 ユウキの隣で、一人の男子生徒が芝生の上に大の字に寝転がる。

 適度な長さの山吹色の金髪が風に揺れた。整った顔立ちはどこか温かみに溢れていて、誰にでも好印象を与えそうだ。柔らかな表情が彼の雰囲気を一層丸くしている。

 ビニール袋からサンドイッチを取り出して、仰向けに寝転がったまま齧る。

 ユウキも持ってきた弁当を広げ、食べ始めた。

「なぁ、ユーキ」

 かけられた声に、ユウキは視線だけで答える。

 右腕を枕代わりに頭の下に置いて、少年はユウキを見上げていた。

「……まだ気にしてるのか?」

 先ほどの授業のことだろう。

 ユウキの容姿は、教科書に載っている英雄カソウ・ヒカルにそっくりだった。学校にいる生徒どころか、この国にいる者なら恐らくほぼ全ての人間がユウキを知っている。英雄の息子、カソウ・ユウキの存在を。

 似ているのは当然なのだ。父親がカソウ・ヒカルなのだから。

「やっぱり、あんまり良い気はしないよ……」

 ユウキは苦笑いを浮かべる。

「親父のことは嫌いじゃないけど、俺は親父とは違うから」

 英雄の息子という肩書きがユウキにはいつも付き纏う。

 ユウキが誰かの瞳に映る時、多くの場合、カソウ・ヒカルの息子として映ってしまう。世界を変えるきっかけを作り、誰もが共存できる国を興した人物の息子だ、と。

 確かに、カソウ・ヒカルは偉大な人物かもしれない。しかし、ユウキはヒカルではない。

「注目されるの、好きじゃないしさ」

 ユウキも、判っている。

 この国に住まう多くの人にとっては、カソウ・ヒカルは英雄だ。その英雄の子として見られるのは、当然だった。ユウキが望むと望まずとに関わらず、カソウ・ユウキにはヒカルの血が流れている。国を興した英雄の息子なのだから、注目が集まるのも無理はない。

「割り切るのも……難しいか」

 少年は言いかけて、苦笑した。

 まだ十七歳のユウキには、父親の持つ英雄という名が重荷だった。自分が英雄の息子であることに、胸を晴れない。

 第三次世界大戦の英雄カソウ・ユウキは、当時最強のアウェイカーだったVANの長を倒した。VANとの全面対決までに、ヒカルは何度もアウェイカーと戦っている。

 それは、何人ものアウェイカーを倒してきたという事実に他ならない。世界を変えるまでに、ヒカルは多くの人の命を奪って来たことになる。

 たとえ、多くの人がヒカルを、世界を救った英雄と呼んだとしても、死者が蘇るわけではない。

「それに親父だって――」

「ん〜……いい天気〜」

「ほんとだね〜」

 ユウキが言いかけたところで、目の前を二人の少女が通り過ぎた。

 二人は瓜二つだった。ぱっちりした大きな黒い瞳に、腰まで届くふわふわの髪が特徴的な可愛らしい少女だ。一人は赤いリボンを、もう一人は水色のヘアバンドを身に着けている以外には全くと言って良いほど姿に違いがない。

「何だ、今日はちょっと遅かったな?」

 寝転がったまま、少年は二人を見上げる。

「授業が長引いたのよぅ」

 二人は同時に、どこか困ったように眉根を寄せた。と言っても、本気で困っている様子はない。ただ少しだけ不満だった程度だろう。

「ユー君は寝転がらないの?」

 首を傾げる少女に、ユウキは小さく苦笑した。

「まだ飯食ってるからさ」

 ユウキの返事に納得したのか、少女は頷いて少年の隣に寝転がった。ふわふわの髪が大きく広がるように揺れる。

 二人の少女に挟まれるようにして、少年が寝転がる形になっていた。

「飯はもういいのかよ、レェン?」

 ユウキは小さく息をついて、寝転がる親友に言葉をかける。

「光合成するから大丈夫ー」

 レェン・トライフルは気持ち良さそうに目を細めながら答えてくる。

「ナツミもアキナも昼飯はどうしたんだよ?」

 レェンを間に挟んで日向ぼっこを楽しんでいる双子に、ユウキは苦笑した。

 二人はいつもこうだ。ユウキたちよりも一つ年下の双子は、昼休みになると必ずレェンの傍にやってくる。レェンが日光浴をしている隣が二人にとっては一番気持ち良く日向ぼっこができる場所らしい。

「もう食べたー」

「だいじょぶー」

 二人して、レェンに寄り添うように寝転がって答えてきた。

 ユウキはまた小さく苦笑しつつ、自分の食事を続けた。毎度のことでもある。もう慣れっこだ。

 日陰に時折吹くさわやかな風を浴びながら、ユウキは遠くへ視線を向けた。この場所から少しだけ遠くに見える校庭ではアウェイカーとそうでない者が入り混じって遊ぶ姿が見られる。

 他の国ではまず見られない光景だ。

 もちろん、アウェイカーも力を使っているわけではない。この国を創ったのがアウェイカーたちとは言え、何の規定も作らずに全ての人が安全に暮らせるようにはならない。アウェイカーには、自分が強い力を持っている自覚を持つことを促している。無闇に力を使わぬように。

 故に、アウェイカーが罪を犯した場合の罰則は厳しい。もっとも、アウェイカーたちの興した国でもあるためか、犯罪者はかなり少ない。

 他の国に比べたら、随分と平和な場所だった。

「俺は、親父じゃない……」

 口の中で、ユウキは言葉を転がした。

 おそらく、ほとんどの人は理解しているだろう。ヒカルとユウキは同一人物ではない。血は繋がっているし、性格が似ていると言われることもある。けれど、ユウキはヒカルとまったく同じ考え方はしないし、するつもりもない。

 父親が英雄だからと、ユウキに英雄であることを期待する者は確かにいる。

 かと言って、自分を貶めるような行動をしてまでイメージを変えたいとは思わない。ユウキにとっては微妙なしこりを胸に抱えているような感覚だ。

 ただ、ユウキの思いに理解を示してくれる者もいる。

 レェンやナツミ、アキナが数少ない理解者だった。ナツミやアキナは幼馴染でもあり、カソウ・ヒカルの一番の親友でもあるヤザキ・シュウの娘でもある。昔から知っている相手だから、というのもあるのだろう。

 何せ、ヤザキ・シュウと言えばこの国の政治の面でヒカルを支えている人物でもあるのだ。

 この国で知名度が高い人物は、ヒカルに次いで妻のセルファ、シュウと続いている。

 教科書などでは、ヒカルが覚醒した瞬間から彼を気遣い、共に戦う道を選んだと言われている。ヒカルにとって、かけがえのない友人であり、戦友でもある人物だ。

 今でもヤザキ家とは家族ぐるみでの付き合いがある。

 ただ、レェンは学校でできた数少ない友人だ。中学校ジュニア・ハイ・スクール時代に同じクラスだったところから知り合った。

 物事にあまり拘らず、サバサバした性格のレェンは、ユウキと相性が良かったのかもしれない。

 多くの生徒は、ユウキに対して一歩退いた態度を取ったり、ヒカルと比較しようとしたり、意識はするものの積極的には関わり難そうな雰囲気になる者が多い。しかし、レェンだけは特に何を気にするでもなく話ができた。

 日光浴が好きで、知り合った頃から昼休みには必ず外で寝転がっていた。彼の傍で陽光を浴びていると、いつもより心地良く感じるほどに。

 いつの間にか、レェンの左右はナツミとアキナの指定席になり、ユウキはすぐ傍に座って昼を過ごすのが日課になっていた。

「こうしてると、授業に出たくなくなるな……」

 心地良い風が頬を撫で、ユウキは苦笑しながら呟いた。

「いっそサボるか?」

「いや、無理だろ?」

 レェンの言葉に、ユウキは苦笑したまま答える。

 ユウキの視線の先にはこちらへ向かって走ってくる一人の女子生徒がいる。

 肩口くらいまでのセミロングの黒髪に、一房だけ三つ編みを左側に垂らした少女だ。快活そうな大きな瞳に、整った鼻筋と均整の取れた身体つきをしている。眦を僅かに吊り上げて、微妙に怒っているのが見て取れた。

「あぁ、ハルカが来たか。もう昼休みも終わりかぁ……」

 残念そうにレェンはため息をついた。

「また二人ともこんなところに!」

 少女、ハルカはレェンを見下ろすように立つと、どこか怒ったように言葉を吐き出す。

「……あ、寝とる」

 レェンがナツミとアキナを見て小さく呟いた。

「もう! 髪が汚れちゃうじゃない!」

 何故か怒りの矛先はレェンに向いていた。

「ユウキも二人を止めてよ!」

「いや、だって気づいたらもう目の前通り過ぎてたし……」

 三つ編みを揺らして振り返るハルカに、ユウキは苦笑した。

 ナツミとアキナが昼寝してしまうのを止める時間はなかった。それに、ユウキが止めたとしても二人は気にせず寝転がっていただろう。ユウキがあまり強く言わないというのもあるだろうが、基本的にナツミとアキナはマイペースだ。

「起こそうか?」

「私が連れてくわよ」

 レェンの提案を一蹴して、ハルカはナツミとアキナを丁寧に揺り起こした。

「うにゃ……お姉ちゃん?」

 目をこすりながら、ナツミが姉の姿を認める。

「うみゅ……」

 続いてアキナが目を覚まし、眠そうにハルカを見上げた。

「……ほ、ほら、午後の授業始まっちゃうわよ」

 双子の妹たちの可愛らしい仕草に少し目つきを緩めつつも、ハルカは二人を立たせて歩き出す。

「あなたたちも早く教室戻りなさいよっ!」

 背後のユウキたちに声をかける時はキツい口調になっていた。

 なんとも判り易い少女だ。幼い頃に母親を亡くし、父親であるヤザキ・シュウが忙しいのか家を空けがちなために、家事全般を彼女がこなしている。それもあるのだろう、彼女はかなり真面目な性格に育った。

 他人に厳しく、自分にも厳しいが、二人の妹にだけは甘い。

 ただ、どこか抜けている部分もあって。

 今もハルカは振り向いた際に足をもつれさせて転んでいた。

「今日はリンゴか……」

 ハルカのスカートの中を眺めて微笑ましそうに目を細めるレェンの隣で、ユウキは苦笑した。

「さてと、行こうぜ」

 立ち上がり、ユウキはレェンに手を差し伸べる。

 寝転がったままのレェンはユウキの手を取り、起き上がった。背中に付いた草や砂埃を手で払うレェンを待ってから、ユウキも教室へ向かって歩き出した。

「なんだ?」

 教室の近くまできたところで、ユウキは足を止めた。

 二人の男子生徒が廊下で言い争っている。ユウキたちがきた時点では既に罵声の応酬になっており、何が原因なのかは判らない。ただ、殴り合いに発展するのは確実そうに見えた。

 一人は十七歳にしては大柄な体格のいかにも体育会系な印象を与える少年で、もう一方は小柄な少年だ。

 二人ともユウキのクラスメイトで、大柄な方はディール、小柄な方がトーカスという名だった。一見すると、ディールの方が体格的には上だ。しかし、二人ともアウェイカーだった。

 実際にアウェイカー同士の喧嘩になれば、体格での有利不利など簡単にひっくり返る。

 だが、喧嘩の結末よりも、もっと大事なことがある。

「あいつら……!」

 ただの喧嘩ならばまだいい。

 問題なのは、アウェイカーとしての力を使うことだ。二人にとっての決着よりも、周りへの影響が心配だ。もちろん、普段から無益な力の使用は厳禁とされている。

 周りに被害が出る可能性が極めて高いから。教師であっても、アウェイカーでない者には手を出しにくい状況だろう。

 ユウキは、止めに入るべきか、一瞬悩んでしまった。

 自分には関係のない争いごとに首を突っ込むべきなのか、と。

「なんか騒がしいと思ったら……」

 不意に、誰かが隣を通り過ぎた。

 少し跳ねた癖っ毛の黒髪の青年と、長く艶やかな黒髪の女性の二人組みだ。

 すれ違う間際に見えたのは、青年の野性味のある顔立ちと、女性の凛とした表情だった。熱気を感じさせる目付きの青年が先ほどの声の主だ。女性の方は、鋭い切れ長の双眸が印象的な美しい人物だった。

 周りの生徒たちは二人の姿を見て、一斉に後退った。

「……邪魔ね、余所でやりなさい」

 歩く速度を緩めることなく、二人はまっすぐに廊下を歩いていく。

 喧嘩をしていた二人も、二人組みの姿を見て顔色を変えた。

 慌てて道を開ける二人の間で立ち止まり、青年はディールに、女性はトーカスに視線を向ける。

「喧嘩するのは勝手だけどな」

「他人に迷惑がかからないようにしなさい」

 青年は凄みを利かせて、女性は冷やかに言い放ち、去って行った。

 睨まれたディールとトーカスは呆然と立ち尽くし、騒動の終了と共に周りの生徒たちも教室の中へと戻って行く。

「いつ見ても、凄い影響力だな」

 レェンが小さく呟いた。

 青年はエンリュウ・ヒサメ、女性はハクライ・リョウという。二人ともユウキたちより一つ上、つまりハルカと同学年の先輩にあたる。

 同時に、リョウはこの学校の生徒会長で、ヒサメは副生徒会長だ。この学校にいる生徒で、二人を知らない生徒はいない。もちろん、二人が生徒会のトップだから影響力が強いわけではない。

 リョウとヒサメの両親も、第三次世界大戦でカソウ・ヒカルと肩を並べて戦ったアウェイカーだった。それも、レジスタンスのトップとしてヒカルに協力した人物だ。リョウとヒサメはアウェイカーとしての力量もかなり高い。この学校にいる生徒の中で、二人と手合わせして勝てる者は、同じく英雄の血を引くユウキぐらいだと言われている。

「授業、始まるぞ」

 ユウキはため息をついて、レェンと共に教室に入った。


 学校が終わると、ユウキは近くの道場へと向かう。リョウとヒサメの両親たちが師範を務める総合的な道場で、小さな子供から大人まで、様々な年齢の人々が心身を鍛えている場所だ。

 ユウキも、両親の薦めで厄介になっている。

 いつも夕方には、多くの人が道場でそれぞれ学びたい分野の武術を学んでいる。ただ、今日だけは道場の中が静まりかえっていた。修練の隊形ではなく、中央に広い空間を作り出すように、皆が壁際へ寄っていた。

「武器の扱い方にも慣れたようだな」

 竹刀を構えるユウキを見て、隻腕の男がどこか満足げに呟いた。

 刃のような切れ長の鋭い双眸に、整った目鼻立ちが凛々しい男だ。彼がリョウの父親であり、かつてレジスタンスのリーダーで四天王とまで言われたアウェイカー、ハクライ・ジンだった。主に、一刀流剣術方面での師範をしている。

 第三次世界大戦の最後の局面において負傷し、左腕を失ったらしい。だが、片腕であるにも関わらず、彼の腕前は衰えていない。

 今も、片腕でユウキの相手をしているのだから。

「メタアーツの使い方も悪くない」

 ユウキの剣術師範でもあるジンが薄く笑みを浮かべる。

 教え子の成長に満足しつつも、どこか挑戦的な表情が見え隠れしていた。

 ユウキは今、蒼い輝きに身を包んでいる。瞳も、蒼い光を帯びていた。時折、銀色の輝きが交じる、美しい蒼だ。

 アウェイカーが持つ力は、メタフィジカル・アーツと呼ばれる。形而上の技術、または極めて難解な技、と訳される名称は、アウェイカーの力の特異性を示す名称でもある。メタアーツと略される力は、アウェイカーの精神力を力場へ変換して周囲に展開、その人物固有の特殊能力を発揮するものだ。

 また、メタアーツを発揮する際、アウェイカーは保護領域プロテクション・フィールドを身に纏う。操る力に耐えられるよう、自身の能力への抵抗力や身体能力、反射神経、自然治癒力などを上昇させる効果がある。自分自身に対し、故意に攻撃でもしない限りは自らの力で自滅することはない。

 一種の自己防衛機能だ。原理的には、保護領域も力場も同じものと言われている。ただ、密度、つまり力の濃さや作用の方向性が違うという認識でほぼ間違いない。

 ユウキの身体を包む淡い光が保護領域だった。五感を強化する効果を持つ保護領域が最も強く影響するのが目だ。アウェイカーはその力を使う時、文字通り目の色が変わる。これは、視覚を拡張するために保護領域が目の内部、網膜や虹彩などの部位に強く作用しているためだ。

 アウェイカーとしての力を象徴するパーソナルカラーとでも言うべきだろうか。

 ユウキの場合なら、蒼と少量の銀、といったところだ。

「少し、試したくなった」

 呟いて、ジンは力を解放した。身体が金の光を帯び、瞳が同じ色に染まる。

 気配が濃く、強大なものに変わる。ジンの姿が巨大化したかのような存在感の肥大化に、ユウキは小さく息をのんだ。ジンの圧倒的なまでに強い存在感に、道場にいる誰もが動きを止めて注目する。

「今のお前の力、見せてみろ」

 静かなジンの言葉と共に、火花が散った。

 片手に持った竹刀の切っ先を床スレスレまで下げ、上体を前方へ倒して突撃してくる。

「師匠っ……?」

 ユウキは反射的に身を引いていた。力強く後方へと身体を飛ばし、右手に持った竹刀に左手を添えて防御の構えを取る。ユウキの身体が空中にある間に、ジンの右手に握られた竹刀が振り抜かれていた。鋭い踏み込みと、全身のバネを活かした無駄のない切り払い。

 竹刀同士がぶつかったとは思えぬほど大きな音が道場の中に響き渡る。

 稲妻のような鋭い一撃を、ユウキは辛うじて防いだ。

 自身の跳躍以上に後方に飛ばされながらも、ユウキはよろけることなく着地していた。身構える暇もなく、目の前にはジンの姿が迫っている。後方に引いた竹刀を、踏み込みの低姿勢から腰の捻りで加速させて右から水平に薙ぎ払う。

 ユウキは右足を軸に、左足を引いて身体を回転させる。腰を落としながら、ジンの左側面に回り込んで竹刀が振り抜かれる前にすれ違う。

 身体を反転させながら、ユウキは竹刀を薙いだ。ジンの竹刀が跳ね上がり、円を描くようにユウキの攻撃をいなす。ジンの保護領域から雷光が溢れ、迸る。

 ユウキは空いている左手で雷撃を受け止めた。蒼だった保護領域が、伸ばした左手だけ銀に変化する。白銀の光に包まれた左手で、ユウキはジンの雷撃を握り潰す。

 ジンのメタアーツは雷を操る力だ。身に纏う保護領域にもその力は宿り、ジンの身体を擬似的に雷と同化させる。雷に身を包んだジンの移動速度は、電流に限りなく近付くことができる。同時に、その速さはジンの剣術にも活かされていた。今は真剣ではないから比較的安全だが、彼が真剣を使って戦った時、斬れないものは無いと言っても過言ではないだろう。

 ユウキには他者のメタアーツを掻き消す力がある。ヒカルが第三次世界大戦を戦い抜くことができた理由の一つであり、ユウキが英雄の息子と言われる由縁の一つでもある力だ。

 ジンが繰り出す回し蹴りへ、ユウキもほぼ同じ動作で蹴りを返していた。右足を軸に腰を捻り、横合いから左脚の踵を叩き付ける。ユウキとジンの脚が交差し、衝撃音を響かせて弾き合う。

 着地と同時に腰を落とし、ユウキは駆け出していた。

 身体に右腕を巻き付けるように竹刀を後方へ引き、左手を前へ伸ばしてユウキはジンとの距離を詰める。

「ふむ……」

 ジンが僅かに笑みを浮かべた。

 直後、ジンの目が鋭く細められ、気配が研ぎ澄まされる。殺気の込められた視線に、ユウキはぞっとした。抜き身の刃を首筋に添えられたかのように、背筋に寒気が走る。ただ視線に射抜かれただけだというのに、全身の毛穴が開いたかのように、汗が滲み出る。

 ジンの間合いにあと一歩のところで急制動をかけ、ユウキは立ち止まっていた。ユウキ自身も視線を僅かに細め、ジンの動きに集中する。

 汗が頬を伝うのが判った。

 攻撃を躊躇ったのではなく、間合いに踏み込めなかった。あのままジンの間合いに踏み込んでしまったとしたら、強烈なカウンターを喰らっていたかもしれない。不用意に近付くのはまずい。

 だが、何より、殺気を帯びたジンが怖い。

「……終わりか?」

 静かなジンの口調に、ユウキは何も言い返すことができなかった。

 周りの人達も言葉を失ったまま、遠巻きにジンとユウキを見つめている。

 雷鳴が轟き、ジンの姿が掻き消える。その雷光とジンの殺気を追って、ユウキは反射的に振り返っていた。防御のために掲げたユウキの竹刀が、ジンの一撃で弾き飛ばされる。鋭く、素早い一撃ながら、込められた力はとてつもなく重い。

 手から離れた竹刀に意識を向ける隙も与えず、ジンの攻撃がユウキに迫る。竹刀を握るジンの手首をどうにか右手で弾き、水平の切り払いを凌ぐ。その直後に雷鳴と共に繰り出される回し蹴りを左手で受け止め押し戻す。

 次の瞬間には、ジンの竹刀がユウキの鼻先に突き付けられていた。

「技術、体力は水準以上。だが……」

 すっと細められた視線に、ユウキは小さく息を呑んだ。

 殺気を込めた攻撃の中に紛れた、殺気の無い鋭い一撃に、ユウキは気付かなかった。殺気に気をとられ過ぎたのだ。

 しかも、腕が伸び切っていない。実戦だったなら確実に仕留められていた。

「覇気が足りない」

 竹刀を下ろしながら告げるジンを見て、ユウキは息を吐いた。

「覇気、か……」

 言いたいことは何となく解る。

 要は、やる気、だ。

 先ほどまでの試合に対して、不真面目だったわけではない。真剣にジンと対峙していたつもりだ。ただ、勝ちたいと思っていたかと言えばそうでもない。

「……ヒカルには、昔からあったものだ」

「でも、俺は親父とは違う……」

 ユウキは反射的に言い返していた。

「解っているさ、そんなことは」

 小さく息を吐いて、ジンは言った。

「あいつとお前とでは置かれている状況も違う。あいつのようになれと言っている訳じゃない」

 ジンの言葉に、ユウキは俯いた。

 昔と今では状況が違う。ヒカルが戦うまでには色々なことがあったはずだ。しかし、今の世界はヒカルが戦ったことで創られた世界でもある。ヒカルにとって敵であったVANという組織はもう無いのだ。ユウキが敵と認識するような相手がいるわけでもない。

「ただ、いざという時にもこのままなら、何か大切なものを失うことになる。それだけは覚えておけ」

 前々から、ジンはそう感じていたらしかった。

 今はまだ、ユウキが命を懸けてまで戦う必要はない。ただ、かつて命を懸けて戦ったジンだからこそ、不安に思う部分があるに違いない。

 俯いていたユウキが顔を上げた時、ジンは背を向けて道場を出て行くところだった。

「ほらほら、ぼさっとしてないで再開、再開!」

 手を叩きながら、一人の女性が声を上げた。肩口くらいまでの黒髪に、快活そうな表情をしたスタイルの良い女性だった。

 ヒサメの母であり、この道場で格闘術の師範も務めているミズキだ。

 壁際に寄ってユウキとジンの試合を見ていた人々が訓練の隊形に戻って行く。

 ユウキは自分が取り落とした竹刀を拾い上げ、道場の端の方で床に腰を下ろして一息ついた。

「まぁ、あんま気にすんなよ」

「ヒサメ先輩……」

 かけられた声に、ユウキは顔を上げた。

「確かに、お前にゃやる気が足りないと思う時はあるけどな」

 隣に腰を下ろして、ヒサメは言った。

「みんな、俺に変わって欲しいのかな?」

 ユウキは小さく呟いた。

 やる気が足りないと言われるのは、今に始まったことではない。ユウキには、強くなるための明確な目的というものがなかった。護身術ぐらいは身につけて損はないと思っているが、世界一強くなりたいわけでもない。

 ヒサメには明確な目標がある。自分の両親を超えることがヒサメの目標だ。

 だが、ユウキは父ヒカルを超える強さを身につけたいと思ってはいない。強くなることに対して魅力は感じていないのだ。

 現状で十分、というのがユウキの考えだった。生活も、今のままで十分幸せだと思っている。英雄の息子と見られるのは窮屈であまり良い気持ちはしないが、気にしないで付き合ってくれる者もいるから。

「本気になったらどれほどのものか、興味はあるけれど」

 短い木刀を両手に携えたリョウが隣で呟いた。

「まぁ、今じゃ同年代で俺やリョウと張り合えるのはお前ぐらいだからな」

 ヒサメが小さく笑った。

「別に、俺は強くなりたいわけじゃないし」

 ユウキは苦笑する。

 今のままの穏やかな生活は嫌いではない。むしろ、このまま平和な世界になってくれたら良いと思う。ユウキが変わって欲しいと思うものがあるとするなら、他人の目だ。ユウキのことを、特別な存在として見ないようになってくれれば、気が楽だ。

「もったいねぇなぁ」

 ヒサメは苦笑し、立ち上がった。

 一つ年上ではあるが、リョウとヒサメも昔からの付き合いだ。お互いのことは他の人たちより知っているつもりだ。だから、ヒサメの言いたいことが解らない訳でもない。強くありたいと思っているリョウやヒサメにとっては、互角に戦える練習相手は多い方が良い。

 何せ、ユウキはこの道場で教えている武術をほぼ全て学んでいるのだ。リョウやヒサメのように剣術、武術と特化しているわけではないが、総合的にバランスが取れている。

「そろそろ帰る支度しなきゃ」

 ユウキはリョウとヒサメに言いながら立ち上がる。

「あぁ、もうこんな時間か」

 リョウは道場の壁に掛けられている時計を見て呟いた。

 ユウキは道場の端の方を歩いて出入り口へと向かう。

「あっ」

 途中、木刀がぶつかり合う乾いた音と小さな声が響いた。

 ユウキの顔目掛けて、短い木刀が一つ、飛んでくる。反射的に、ユウキは力を解放していた。感覚が一瞬で拡張され、向かってくる木刀の動きを捉える。跳ね上げた右手が柄を握り締め、受け止める。

 もし受け止めそこなっていたら、重傷とはいかないまでも、軽い怪我はしていたかもしれない。

 安全が確認されると直ぐ、ユウキは力を閉ざした。注目されていることに小さくため息を吐きながら。

「ご、ごめんなさい!」

 ユウキのもとへ走って来たのは、同年代の少女だった。

 やや赤みがかかった栗色の髪を首の後ろでまとめた、温和そうな瞳の少女だ。同年代の平均より少し小柄ぐらいで、スタイルは悪くない。

 マーガレット・リステイル。ユウキのクラスメイトだ。

「大丈夫?」

 ユウキはそう言って、受け止めた木刀をマーガレットに返した。

 恐らく、何かの拍子に弾き飛ばされたのだろう。握りが甘かったに違いない。

「うん、怪我とか、しなかった?」

「ああ、俺は大丈夫」

 自然な口調で気遣ってくれるマーガレットに、ユウキは軽い笑みを浮かべて答えた。

 彼女もまた、レェンと同じだった。さすがに男女の性別の違いもあって、良く話をするという訳ではない。ただ、他の人と違ってユウキをただのクラスメイトとして扱ってくれる。

 女子の中には、ユウキを特別視する者も多い。英雄の息子だから、王子様とでも思っているのかもしれない。ユウキの血筋を狙って言い寄ってくる者は少なからずいた。ユウキに異性と付き合う気がなければ、簡単に見抜けるものだ。最近では告白する者も減ってきたが、周囲のほとんどの女子が何らかの形でユウキを意識しているのは何となく解る。

 ただ、明らかに違うのがマーガレットだった。レェンと違うのは、マーガレットは誰に対しても気を遣うような人物というところだろう。

「気を付けなよ?」

 彼女はリョウに憧れて道場に入ったらしい。短刀二刀流を専門に学んでいるようだ。

「うん、ごめんね。ありがとう」

 ユウキに小さく微笑んで、マーガレットは元いた場所へと戻って行った。

 マーガレットはユウキに対して特に気負うことなく会話ができる。不思議なことに、マーガレットはそのことで他の誰かに悪く言われたりすることはない。仲間外れにされたりしているところは見たことがなかった。

 ユウキは道場の出入り口に辿り着いたのとほぼ同時に、女の子が視界に入った。

「あ、お兄ちゃん」

 ユウキの姿を見て、女の子が小さく声を上げる。

 背の中ほどまで届く綺麗な金髪を揺らして、小走りに近付いてくる。透き通るような白い肌に、薄手の青いワンピースを身につけた、華奢な印象を与える女の子だ。青い大きな瞳でユウキを見上げている。

「今行く」

 ユウキは答えて、端に置いておいた荷物を取ると、靴を履いて道場の外へ出た。

 シーナ・セルグニス。苗字は違うが、彼女はれっきとしたユウキの妹だ。

 ユウキの家族は夫婦別姓だった。ユウキは父方の苗字を持っているが、妹のシーナは母方の姓が付けられている。

 五歳年下の妹と並んで、ユウキは道場の敷地から出て家へと向かう。頭一つ分以上の身長差があれば、歩幅も違う。自然と、ユウキがシーナに合わせて歩いていた。

 数分のうちに、ユウキとシーナは自宅に辿り着いていた。

「ただいま」

「ただいまー」

 シーナと二人で家に入り、靴を脱ぐ。

「おかえりなさい、夕ご飯できてるわよ」

 奥の方から、優しい声が返ってくる。

 ダイニングと繋がっているリビングへと入ると、夕食の準備が進められていた。

 キッチンの方では、長い蜂蜜色の美しい金髪を揺らしながら、食事を装っている女性がいる。シーナのものに良く似たワンピースの上にエプロンを身に着けている。長い睫毛に彩られた青い瞳は優しげな光を湛え、すっと整った鼻梁に、柔らかそうな唇と、モデルのようなプロポーションを備えた綺麗な女性だ。とても二児の母とは思えない。

 彼女が、ユウキとシーナの母、セルファ・セルグニスだった。

「じゃ、夕飯かな」

 リビングのソファに座っていた男が立ちあがる。

 ユウキに良く似た顔立ちの男だった。だが、ユウキよりも大人びている。

「帰ってたんだ?」

「今日は何も無さそうだったからな。あの分だとシュウも帰ったんじゃないか?」

 手洗いとうがいを済ませたユウキの言葉に、父ヒカルはダイニングのテーブルに腰を下ろした。

「学校はどうだったの?」

 セルファがシチューの盛られた皿をテーブルに人数分並べながら問いかける。

「別に、いつも通りだったよ。リョウ先輩とヒサメ先輩が喧嘩してる二人を黙らせたぐらい」

 ユウキはまだ熱いシチューを口に運びながら答えた。

「うまー」

「まったく、ヒカルったら……」

 シチューに口をつけて幸せそうな顔をする夫を見て、セルファが僅かに頬を染めて微笑む。

「あ、お母さん、今度、ウルナちゃんうちに呼んでもいい?」

「ええ、いいわよ。夕ご飯も一緒に食べる?」

「聞いてみるね」

 妹と母の会話を聞きながら、ユウキは食事を続ける。

「ユウキ」

 ヒカルに名前を呼ばれて、ユウキは食事の手は休めず、視線だけで答えた。

「明日、空襲があるかもしれん」

 ヒカルの言葉に、ユウキは僅かに視線を細める。

 空襲とは言っても、いわゆる爆撃ではない。

「その時は、頼むぞ」

 恐らく、その時ヒカルはここにはいないのだろう。きっと、国の中枢で対策などを練らねばならないのだ。国のトップとして。

「ジンやショウには伝えてある。リョウとヒサメが手伝ってくれるはずだ」

「解った」

「この区画で死傷者は出すなよ」

 ヒカルの真剣な視線を受け止めて、ユウキは頷いた。

「いつも、出してないでしょ?」

 小さく軽口を叩いてみせる。

「ま、心配はしてないさ」

 口の端を僅かに持ち上げて、ヒカルが笑う。お前は俺の息子なんだから、とでも言いたげに。

「母さん、おかわり」

「あ、セルファ、俺にも頼む」

 空になった皿を差し出すユウキに続いて、ヒカルも皿を持ち上げる。

「はいはい」

 暖かな笑みを浮かべて、セルファは二人分の皿を受け取ってキッチンに向かう。

 息子のユウキの目から見ても、幸せそうな夫婦だ。一緒にいるだけでいつも幸せそうにしている。見ていて気恥ずかしくなることもたまにあるぐらいだ。

 ユウキには、こんな生活が続くだけで十分だった。

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