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鼻息も荒く部屋に飛び込んできた妹の形相に、エヴァラントは「うっ」と悲鳴を上げかけた。寸でのところで口を塞ぎ堪えた代わりに、つんのめって尻餅をついた。
お構いなしに大股で近づくと、鬼の如き様子で、兄の胸倉を掴む。ぐいと引き上げると、息遣いを感じる近さで低く唸った。
「とんでもねぇ野郎に引っかかりやがって、このクソ兄貴が」
「ご、ごめんなさい」
何だかよくわからないが、とりあえず謝罪する。ルーヴァベルトの赤茶の双眸が完全に据わっていたからだ。こういう場合は逆らわないに限る。
「あーもう! 腹が立つ!」
叫びながらエヴァラントの身体をガクガクと揺らす妹が落ち着くのを、されるがままでじっと耐える。
朝食を終え、自室で出勤前の準備をしている最中だった。部屋に備え付けのドレッサーには、エヴァラント用にと真新しい服が用意されていた。好きに使えと言われ、遠慮せずに袖を通させて貰う。とろりとした肌触りの布地は、今まで着ていたものとは段違いに高級なものだろう。
その服も、そろそろ掴まれたところから服が裂けるのではと、ぼんやり考えた。今までの洗いすぎて生地の薄くなった貴族服だと、既にご臨終している力強さだ。
「勝手に職場に行って」
「心付けって何だ!」
「あんな告白ってあるか」
「そもそもドレスの趣味が悪い」
「いちいち距離詰めてくんな」
「下手な変装が腹立つ」
「眼鏡かけりゃいいと思いやがって!」
「つか、完全に囲い込みしたくせに、傍に居ろもくそもねぇだろうが!」
「顔と声がよくて金持ってりゃ、皆が皆てめぇに惚れるわけねぇだろ馬鹿」
「耳に棒突っ込んで脳みそチュウチュウ吸うたろか!」
眦を吊り上げ怒鳴り散らすルーヴァベルトは、既に髪が乱れて悪鬼のように見えた。よく怒る妹だが、今朝の怒りはいつもより激しい。
相当我慢ならない事があったのだな、と申し訳ない気持ちになった。
(俺のせいで…)
ごめんね、と心の内で呟く。音には出さない。出せはしない。
激しく頭が揺れて、気持ちが悪くなってきた。そろそろ朝食が口から戻りそうだ、と思った辺りで、急に掴まれた手が放される。崩れる様に床に転がったエヴァラントの前に仁王立ちしたルーヴァベルトは、乱れた髪をかきあげ、大きく伸びをした。
「あー、すっきりした」
足元に転がる兄など気にせず、身体をほぐし始めたルーヴァベルトを見上げ、口元に微笑みを浮かべた。
「それは…よかったね」
「うん、ありがと」
随分気が晴れたのだろう。打って変わって、へにゃりと表情を崩したルーヴァベルトは、どこか幼さの残る顔をエヴァラントへ向けた。
ああ、今日もうちの妹は世界一可愛いな、と顔が緩んだ。笑み一つで先程までの暴挙も全て許せるのだから、本当に自分は幸せものだ、と思う。
緩慢な動作で起き上がると、よろよろと机へ向かった。鞄に荷物を詰め込む途中でルーヴァベルトが飛び込んできたため、中断していた準備の続きをするためだ。
その後ろで、ルーヴァベルトはドレスの乱れを直していた。フリルやリボンが曲がっているところを必死で元に戻す。
今日は爽やかなペパーミントグリーンのドレスを身に纏っている妹は、まるで妖精のようだな、とほっこりとした気持ちになった。正直、昨日の濃紺のドレスの方が彼女らしくあったけれど、こういった少女らしい色合いも新鮮で良い。彼女の黒髪と健康的な肌色だと、少しドレスとちぐはぐな印象をうけるのも、贔屓目で気にならなかった。
多分、彼女自身は大層不満であろうが。
可愛いね、と声をかけたいが、止めておいた。また機嫌が悪くなることは、想像に易い。
気分よく鞄に荷物を詰め込みながら、ふと、机上に置かれた一冊の本へ目が止まる。
青緑色の革表紙の、分厚い古書。
はっとし、慌ててそれを鞄へ入れた。何となく気まずくて、ちらりと後ろを見やると、ルーヴァベルトの様子を伺おうとしたその視線に、妹のそれが重なった。
「げ」と思わず声が漏れる。
一連の流れに、彼女は嘆息した。拍子に、緩く結われた髪を飾る石が、しゃらりと音を立てた。
「もう、気にすんなよ、兄貴」
腕組みをし、肩を竦めて見せる。淡い色合いに可愛らしい印象のドレスでその恰好だと、より一層違和感があった。
ゆっくりと双眸を瞬かせたルーヴァベルトは、もう一度、繰り返した。
「もう気にすんな。私も、もう怒らない」
「でも」
「でも、じゃ、ない」
きゅっと眉根を寄せ、兄を睨めつける。有無を許さぬ気配に、頷くしかなかった。
ふと、ルーヴァベルトがエヴァラントの隣に立つ。鞄を覗き込んだかと思うと、中に納められた革表紙の古書を手に取った。まじまじと青緑を見つめた後、そっと表紙を捲った。
中には、古い文字…今は使われていない古代文字が、びっちりと並んでいた。ページをめくっていくと、所々に挿絵が入っている。しかし、どれも抽象的で、到底ルーヴァベルトには理解できるものではないだろう。
暫くして気が済んだのか、あっさりと本を兄へ渡した。
「全然読めないわ」
苦笑いで小首を傾げると、「でも」と続ける。
「兄貴には、宝なんだろ」
ひゅっ、とエヴァラントの喉が鳴った。分厚い眼鏡の奥で、俄かに双眸を見開く。胸が痛んだのは、後ろめたさの棘のせいだ。
言葉を口にしようとして開いた口を、結局噤む。
音にして零れそうになったのは、彼女には伝えないと決めた裏側。
決してルーヴァベルトに知られたくない、心の内。
じくり、と左眼が疼く。遠い過去の痛みは、今も時折生々しい。
それを覆い隠すように、面へ笑顔を作ってみせた。




