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23

 こそこそと人目を避け、何とか店の奥へと辿りつく。

 装飾のない木目の扉の前で、ルーヴァベルトは深く息を吐いた。騒がしい店内を、気配を殺し見つからぬようにすり抜けるというのは、想像以上に気を使ったらしい。どっと肩が重くなった気がした。


 気を取り直し、二度、軽くノックする。中から返答があったのを確認し、金のドアノブを押した。



「失礼します」一礼し足を踏み入れた室内。顔を上げ、ソファに座る人物を見て、げ、と蛙が潰れたような声を上げる。


 応接の間としても使われる主の部屋は、手前にソファが、奥に仕事用の机が置かれている。ソファの間には細かい装飾が施されたローテーブルが置かれており、その上には、ティーカップが三客。


 一つは、店の主。

 一つは、並んで座る、マダム・フルール。

 最後の一つ、は。



「お、来たか」



 明るい声が、甘く宙へ放られた。ソファに腰掛けるのは、つんと立った黒髪に眼鏡の男。口元にはにんまりとした…見覚えのある、笑み。



「なんっ…」



 叫びそうになり、慌てて両手で口を押えた。ぎろりとフルールに睨まれたためである。

 何でお前がここに…思いを込めて睨めつけた相手は、どこ吹く風で茶を啜っていた。「これはネゴーンの茶葉ですか」など雑談に勤しんでいる。

 髪の色を変えているが、すぐにわかった。この男は、今、ルーヴァベルトが気に入らない野郎第一位から第五位くらいまでを一人で占めている相手―――ランだ。

 これ見よがしな軍服を脱ぎ、今は簡素な服に身を包んでいる。屋敷の時のように尊大な態度ではないものの、滲み出る気配が自信に溢れていて、あからさまに貴族感が出ていた。

 変装のつもりか、眼鏡をかけているのも気に入らない。兄のエヴァラントとは違い、細いフレームの洒落た品である。黒髪と相まって、女好きしそうな色気があったが、生憎ルーヴァベルトの趣味ではなかった。

 口元を抑えたまま鼻で息を吸い込む。肩を落とすように吐き出すと、気合を入れ直し、背筋を正した。



「来客中とは知らず、失礼致しました」



 再度頭を下げると、冷えた碧眼をすうと細めたフルールが、長い爪先で顎を撫ぜた。隣の店主は膝の上で欠伸をする黒猫の顎を擽っていた。ランは面白そうにルーヴァベルトの様子を伺っている。



「ベル」と、フルールが呼んだ。



「あんたはもう来なくていいよ」


「え」



 抑揚無く言い放たれた言葉に、目を見開く。まん丸になった猫目に、派手な化粧を施した横顔が映った。彼女は、ルーヴァベルトを見もせず、手にした煙管の吸い口を唇に寄せる。

 赤い唇から、白い煙が、細くくゆる。



「おめでとう」


「は?」


「結婚するんだろ」



 そこの御仁と、と顎でランを指した。向かいに座る男は、にっこりと微笑みを返す。



「おめでとう、ベル」



 ゆったりした口調で店主も続けた。にこにこと柔い笑みでルーヴァベルトを見やる。膝の上で黒猫が、長い尻尾を軽く揺らしていた。



(そういう…ことか…)



 見開き、乾いた瞳を、ゆっくりと瞬かせた。赤茶の視線をランへ向ける。男は素直に視線を返してきた。眼鏡の奥で、彼の瞳がどんな感情を自分に向けているのかわからない。

 ただ一つ、今、ルーヴァベルトの腸が、猛烈に煮えくり返っていることだけは、確かだ。

 くっと唇を噛んだ。そうしなければ、目の前の男へ殴り掛かってしまう気がして。



(落ち着け)



 自分へ言い聞かせる。頭へ昇った血が、燃える様に熱かった。

 今夜ここへ来たのは、仕事を辞めさせて貰う説明をする為だ。どこまで事情を説明したものか、と思っていたところなので、考えようによっては、あの男が代りに説明してくれたならよかったのかもしれない。



 が―――それでは、ルーヴァベルト自身の、筋が通らなかった。



 初めて…それなりに長く務めた職場だった。何も知らなかった時分に、様々な世界を教えてくれたのも、この店だ。思い入れは深く、店とそれを形作る人たちへ敬意もある。

 だからこそ、自分自身で、終わりをつけたかったのに。



「…ッ」



 これはルーヴァベルト自身の、勝手な道理だ。

 けれど、彼女の背筋をぴんと通す、大事な一本筋。

 そこへ、思いもよらず横槍を入れられた気がして、酷く腹が立った。



「あんたの尻拭いは、旦那が手配してくれるとさ」



 露骨な怒りを纏う少女へ、淡々とフルールが告げた。「急に抜ける穴は、当面、別の人間を手配してくれるそうだ」

 前屈みに座るランは、女の視線に小さく頷く。口元には笑みが張り付いている。それを、胡散臭げに眉を潜めたが、それ以上何も言わなかった。代わりに、金の髪を飾る飾りが、しゃらりと鳴いた。



「心配せずとも大丈夫だよ」



 主は、相変わらず猫の背を撫ぜつつ、ルーヴァベルトに微笑んだ。



「まぁ、どうにでもなるだろうから」


「穴埋めもしてくれて、心付けも払うってんだから、どうにでもするだろうさ」



 剣のある言葉は、ルーヴァベルトの胸に、ちくりと刺さる。まるで細く長い針のように。

 吐き捨てた派手な横顔を見やり、ランを見やり、何もない宙を…見つめた。



(心付け、を)



 あの男は、払ったのだ。

 金、を。



 ぞわり、と背筋を冷たいものが撫ぜた。太腿の裏から、背中から、後頭部から、気持ち悪さに肌が泡立つ。



 わかっていた。


 けれど、今、明確に理解する。


 自分はこの男に、金で買われたのだ、と。







 腹の底が、身体の芯が、すうと冷えていくのを感じた。


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