ダンジョンマスター
目を覚ますと、視界の先にはオオカミが居た。
だらだらと口から涎を垂らして、俺を見下ろしている。それが俺の顔面を汚すものだから気持ち悪い。それに加えて頭が割れそうに痛む。
激痛でなおさら状況を理解できないまま、これから食われるのかな、なんてぼんやりと思っていると、ふと視線を外した先には何やら見覚えのあるものが落ちていた。
あれは……俺の腕だ。左腕。あのクズどもに斬られたものだろう。痛みで意識は朧気だったが覚えている。
でもおかしい。俺の左腕はしっかりと繋がっていて、こうしてちゃんと動かせるし、感覚も残っている。奇妙だ。俺は幻覚でも見ているのか?
混乱しながら、俺の上で馬乗りになっているオオカミとにらめっこをしていると、視界の端から誰かが近づいてくる気配がした。
「目が覚めたかい?」
声の聞こえた方へ顔を向けると、そこには面妖な男が立っていた。頭には動物の頭蓋骨を模したかぶり物をしていて、瞳だけが怪しく俺を見据えている。仄暗いローブを羽織って、まるで闇から溶け出してきたかのような風貌だ。
「……だれだ?」
「ふむ、意識ははっきりしているか……自分の名前は言えるかい?」
「ジェフ、だ。というか、俺の上にいるこれはなんだ?」
「見たところ、身体にも異常はなさそうだし、これは成功したと見て問題なさそうだね。いやあ、良かった良かった」
この男、俺の質問に答える気がないのか。さっきからまともな答えが返ってこない。内心、苛立っていると男はおもむろに、落ちていた俺の腕を拾い上げた。
「ガウル、彼を放してやってくれ。ほら、これおやつに食べても良いから」
ぽい、と拾い上げた俺の左腕を宙に放ると、俺の上にいたオオカミはそれをめがけて跳躍した。俺の目に映ったオオカミと思しき獣は、明らかに動物の体躯とはかけ離れていて大きすぎる。人間並の巨躯をしていて、所謂あれはオオカミ人間――ウェアウルフというやつか?
滅多に見ない魔獣だが、どうしてそんなものがここに居るのか。そもそも、俺が今居る場所はどこなのか。何もかも分からないままだ。
取りあえず、上体を起こして正体不明の男と対面する。男も俺の傍まで来て屈み込んだ。
「それ、俺の腕じゃないのか」
「何か文句でも? 良いじゃないか。左腕が2本もあっても邪魔なだけだろう」
「それは、そうだが」
そこまで言って、不自然さに眉を潜める。なぜ俺に左腕があるのだろう。確かにあの時、斬られたはずだ。その証拠に、そこにいるウェアウルフは俺の元左腕に囓り付いている。
「待ってくれ、意味が分からない。さっきから頭痛も治まらないし、変なオオカミに食われ掛けるし。そもそも此処はどこで、あんたはなんだ?」
怒濤の質問攻めに男は逡巡してから、やがて一つずつ答え始めた。
「君の頭痛は失血のせいだね。血を流しすぎたんだ。しばらく休めば回復するだろう。それと、あそこに居るのはガウルと言って、見ての通りウェアウルフだ。私が許可していないから君を食べようとしてああしていた訳ではないだろうけど、腹は空いていたんだろう。一応、瀕死の君をここに連れてきてくれた命の恩人だから、感謝くらいはしておいても良いんじゃあないかな」
男の口ぶりからすると、俺があの冒険者どもに嬲られた事実は変わりがないみたいだ。記憶も痛みもはっきりと覚えている。
「君が今居るここは、私が作ったダンジョンの最下層。そして、私がここのダンジョンマスターだ」
「……は?」
思ってもみない返答に、間抜けな声が漏れた。
会いたかった人物が俺の目の前に居る。予想外の出来事に、理解が追いつかない。
「あんたがダンジョンマスター?」
「そうだよ」
「だったら……聞きたいことがある。亜獣化症の治療法についてだ。俺の――」
「君の妹が亜獣化症とやらに罹っているんだろう? 知っているよ、聞いていたもの。君が死にかけたのも、あの侵入者たちがどこへ向かって、何をしようとしているのかも。すべて」
自称ダンジョンマスターの返答に、はっとした。
そうだ、俺はミルの元に行かなければならない。こんなところで呑気に話し込んでいる場合ではないんだ。
「あんたには色々聞きたいことがある。でも、今はそんな暇はない。妹が殺されるかもしれないんだ。急がないと」
起き上がろうとした途端、目眩がして倒れ込んだ。血を流しすぎたからか。
自由の利かない自分の身体に焦りを感じていると、俺の傍にいたダンジョンマスターが可笑しそうに笑い出す。
「君、馬鹿だねえ。今居る場所がどれだけ深いと思っているんだ? 地下15階だよ。地上まで辿り着くにはどう急いでも1日かかる。そうでなくても、ダンジョン内には魔物やトラップを仕掛けてあるから、運が悪ければ死んでしまうね」
それを聞いて、言葉に詰まる。
どうあっても今の俺の体調を見るにそんな強行は無理だ。下位のスケルトンにだって勝てるかわからない。そんな状態ではミルの元に辿り着く前に死んでしまう。
打つ手がない状況を見かねてか。焦燥する俺にダンジョンマスターはこんなことを告げてきた。
「ここで君が取る一番賢い選択は、私の話を黙って聞くことだ」
「あんたの話を聞いて、俺がここから出られる保証は?」
「それは君の交渉次第だねえ。少なくとも、私からの信用は得られるだろう」
俺一人の力では到底地上に出ることなんて出来ない。経った今それを痛感したばかりだ。縋るのが、この奇妙な男しか居ないというのはなんとも嫌な話だが、この際文句は言っていられない。
「で、話っていうのはなんだ」
「君には私の計画に協力して貰う」
「……それじゃあ、俺がその計画とやらに協力する代わりに、今すぐ地上に出ることは可能なのか?」
「お安いご用だね」
「決まりだな、契約成立だ」
「へ?」
即決した俺に、ダンジョンマスターは間抜けな声を上げた。
少し戸惑った様子に目もくれないで身体の調子を確認する。さっきはいきなり起き上がろうとしたから上手くいかなかったが、ゆっくりと身体に負担を掛けなければ動けそうだ。
「詳細も聞かないで、そんな即決しても良いのかい?」
「構わない。俺にとって、一番大事なのはミルだけだ。あの子の為ならなんだってやる」
「……後でなかったことにしてくれ、なんて言われても遅いからね」
「わかっている」
立ち上がって伸びをする。多少ふらつきはするが、なんとか歩けそうだ。
「それじゃあ、今から転移の魔法で地上まで送るよ」
「ああ」
「……と、言いたいところだけど。そんなふらふらで、今にも倒れそうな君を一人で送り出すのは私も忍びない。なので、ここはオトモにそこのガウルを連れて行ってくれ」
こっちおいで、とダンジョンマスターが声を掛ける。すると俺の千切れた腕を食い終えて、丸まって寝ていたウェアウルフが傍に寄ってきた。
改めて真っ正面から見据えると、かなり大きな体躯をしている。目測で2メートルはありそうだ。閉じている口から覗く牙や爪が凶暴な獣であることを示している。
こんな奴と一緒に行かなければいけないのか。そもそも俺の身の安全は保証されるのか? 確かに歩くのも億劫だが、リスクの方が大きい気がする。
「なんでしょう、ボス」
「休んでいるところ申し訳ないけれど、ジェフの付き添いで一緒に地上まで行ってきてくれないかい? 彼、まだ本調子ではないみたいなんだ。君がいれば滅多な事も起きないだろうし、頼むよ」
面倒くさそうにウェアウルフ――ガウルは頭を掻く。
一連のやり取りを見て、俺は内心驚愕した。
喋る魔物なんて、見たことも聞いたこともない。人間の言語を理解する魔物が居ることさえイレギュラーだというのに。
「……わかりました。ボスの頼みなら引き受けましょう」
「さっすがガウル君、頼りになるよ」
「っ、あまり褒めないでください。毛がぞわぞわする」
ガウルはぶるぶると身震いして――けれど、尻尾をぶんぶんと振っているあたり嬉しいらしい。見た目に似合わずわかりやすい奴みたいだ。
「よろしく頼む」
「ああ、お前はさっきの腕の奴か。旨かったよ、お前の左腕。久方ぶりに新鮮な生肉を食えた」
「そうか……良かったな」
色々と突っ込み所もあるし、他にも問い質したい事は山ほどある。けれど、それらはミルの無事を確認してからでも遅くない。
そうして俺は、奇妙な魔物ガウルと共に地上へ戻る事となった。