第35話 見慣れない天井
懐かしいにおいだった。
アスカは父のひざの上に抱かれて泣いていた。
あの時、幼い日の自分は、なぜか悔しくて仕方がなかった。
「……ば、なぜ喧嘩した?」
「かおりがいじめられたからです。お父さん」
幼い日のリョウマが毅然とした態度で返答した。
頭のうえから父がやさしい声をかけてきた。
「かおり、なぜいじめられていたのかな?」
幼い日のアスカは声をひくつかせながら、
「だって……、みんなあたしのこと、生体チップなしでいるのなんて、死んでいるのとおなじだから、ゾンビ、だって……」と言った。
父がほくそ笑むように、口元をゆがめたのがわかった。
「気にすることはない。おまえたちは神に選ばれし民なのだ。だから、そんなつまらぬ物をからだの中に埋め込むことは許されてないのだよ」
「でも、お父さん、生体チップがないと、人生を全部記録してもらえないし、病気になってもすぐに発見もできないんですよ」
リョウマが依然として表情を崩さないまま抗議した。
「まぁな。このご時世、生体認証チップが埋め込まれてないと、少々生きるのに不便かもしれない。だけどおまえたちは特別なのだから、それくらいは我慢しなさい」
「どう特別なの?」
すこし感情がおさまってきたアスカが訊いた。
「おまえたちは、純粋な日本人の血をひく純血種族の末裔なのだ。自分勝手に、チップを埋め込んだり、DNA治療やSIPS細胞移植を受けて良いからだではないのだ」
「日本人の純血だったら、なにがあるんです?」
父はなぜか口元に満足そうな笑みをためこんで、晴れやかに言った。
「世界を救う救世主になれるんだよ。国家元首より金メダリストよりも、もっとすごいことなのだよ」
「あたし、そういうの嫌い。なりたくない。ふつうがいい」
アスカがぼそっと呟いた。あまり強く抗議したら、父の機嫌を損ねるとわかった上での、ぎりぎりの抗議だった。それは自分でもわかっていた。アスカ、という子供はむかしから、ずっとそうだった。
「父さん、ぼくは世界を救ってみたいです」
リョウマがはつらつとした声で父に宣言した。頭のうえの父の顔は見えなかったが、アスカには父が顔をほころばせているのを感じた。
「そうか、よく言った。我が一族の名前を世界中に知らしめてくれ」
父にしてはめずらしく声が弾んでいる。機嫌がいいのだろう。
「でも、いまは、名前とか歳とかどうでもいいって、たえちゃんが言ってたよ」
「名前なんてどうでもいい?。どういうことだ」
この時のアスカはあまりまだ賢く立ち回れていなかった。たった一言でたちまち父の気分を損ねてしまった。
リョウマが妹の失態を手助けするように、あわててことばを挟んだ。
「生体認証チップが埋め込まれた人は、産まれた時からの個人データがすべてわかるから、名前や顔をしらなくてもいい、って聞きました」
「すべてがニューロピュータに蓄積されているからな」
「それわるいこと?」
アスカはわざと間の抜けた質問で父の意見を促した。父の機嫌をすこしでもよくしたいという子供なりの配慮でもあった。
「かおり、考えてごらん。産まれてから、見たものすべては網膜デバイスで、聞いたり考えたことはニューロン・ストリーマで、遺伝子情報は生体チップで、経験したことはニューロピュータにすべて記録されているんだよ」
「もし、おまえが成長して、誰かに恋したとしても、その瞬間ですらデータとして記録されて残るんだ」
「ですが、お父さん。そのおかげで、犯罪はなくなったし、病気になる人もほとんどいなくなったって……」
「あぁ、それは良いことだと思うよ」
「でも、あたしはそれを誰かほかの人に見られたら嫌だ」
父は口元をゆるめ、諭すように言った。
「かおり、それは心配しなくていいんだよ。国際法で誰も……、そうだね、自分ですら見られないようになっている。大統領だって見られないんだ」
「じゃあ、なんで病気だってわかるの?」
「AIの審査官がチェックしていて、病気になりそうなら医療機関に知らせ、悪いことを考える人がいたら、警察に通報するんだ。人がみているわけではない」
「でも、ぼくたちにはそれがない……」
「だから選ばれた人間なのだよ」
父はリョウマのことばを遮るように力強く言った。
「おまえたちは、いずれ世界を救う99・9(スリー・ナイン)となる。それは、この25世紀に、管理されずに生きていい特権が与えられることなのだよ」
幼いアスカにはそれがどうして解決方法になるのかわからなかったが、進むべき道を示されて、兄の顔が晴れやかに上気していくのがわかった。希望を宿した兄の目をみて、アスカはほっとした。これでいいのだ。
父の示した、この道をまっとうすれば、それですべてがうまくいくはずだ……。
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見慣れない天井……。
アスカはぼんやりと上を見あげながらそう思った。いや、慣れ親しんだ天井など、はるか昔の記憶にしかない。
ここはどこの天井だろうか、と頭を巡らせた。
国連軍本部から供給された自分用の部屋……、月基地での狭苦しい部屋の二段ベッド……、騒がしかったロンドン寄宿舎のシェアルーム……。それとも、あの男……父に与えられた装飾過多で、悪趣味な配色の子供部屋?。
アスカは寝そべったままぐるりとあたりを見渡した。だだっ広い部屋の中央に自分だけが横たわるベッドがあり、まわりでなにやら聞きなれない音が絶えずしていた。
彼女はふと、自分のまわりで、息を殺しながらも各々の役割を粛々とこなしている、見慣れない機械や看護ロボットたちの存在に気づいた。
『これ、なによ?』
一瞬、すこし怖気がしたが、すぐに合点した。
「ここ、あの時の病室……」
地球に到着したその足で、まっさきに向かった場所。あの時、ここには、あの男、ヤマトタケルが寝ていた。そして、ブライト司令官、メイ、ミライ、レイ、そして……。
アスカは漠とした、寂寥感がせきあげてくるのを感じた。
『そうだ……。兄さん……』
突然、アスカの頭の中にフラッシュバックが走った。
あのポッカリと口を開けたコックピットの入り口。外からのぞかせる内部は、そこはかとなく暗く、その奥にははるか深淵が広がっているように見えた。だが、実際には緑色のぬめるような質感の粘着物が、内部にはびこっていた。その一部はまるでなにかの器官のように脈打ち、そのあいだに張り巡らされていた細い糸状の部分には、青いシグナルが明滅しながら無尽に走っていた。まるで神経回路か血管のようにしか見えなかった。
そしてその真ん中にある一番大きな臓器は……
そう……、兄だった。
あの顔、あの目、あの姿……。
もう兄、いや人と呼べそうもないものに変わっているのを、自分は垣間見た。
あの時、あれは兄ではない、と何度も否定したが、わずかに残った面影は、兄を感じさせた。ほかの人がもし否定してくれたとしても、双子である自分だけはわかっていた。
あれは兄だったものだ。
アスカの心に自分でも理解できない不安が襲ってきた。
自分はこんな時、いままでどうしてきたのだろうか?。
あんな兄を、あんな残酷な行いをおこなった兄を、怒りにまかせて罵倒しただろうか。
兄の心の弱さをなじって、自業自得だと、兄を卑下しただろうか。
あんな兄をもった哀れな妹として、自己憐憫の姿をさらしただろうか。
それとも、無謀な出撃をさせたブライトやリンたちを問いただし、厳しく責めたてていただろうか。
今、自分が演じるべき、アスカはどんな感情につき動かされるべきなのだろうか……。
ふと、アスカは自分の目から大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちはじめているのに気づいた。流れ落ちる涙をどうしても止められなかった。
アスカはわかった。
あたしは、兄を、最愛の兄を亡くした妹なのだ。
いまはどんな役も演じなくてもいい。
アスカは枕に顔をうずめると、声を押し殺して泣いた。




