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第33話 ~本当のお前~

 風祭涼子が去った後、俺は秋本を連れて近くにあった公園へと向かった。

 正直な話をすると、暑かったし疲労もあったのでいち早く家に帰りたかったよ。でも風祭と別れてから秋本は、心ここにあらずといった状態で、立ち姿にも力がなかった。歩くのもどこかふらふらしていたし。

 普段の秋本を知っている俺からすれば、別人と思えるほどの状態なのに放っておくことができなかったのだ。


「そこに座ってろ」


 秋本に座るように指示し、近くに設置されていた自動販売機に向かう。

 普段の癖から炭酸を買おうとしたが、ここに来るまでにそれなりに汗をかいていたこと。長時間秋本の傍にいることになるかもしれない。この前うちに来たときは炭酸を飲んでいたが、陸上をやっていたなら本当はあまり炭酸が得意ではないのかもしれない。

 そんなことを思った俺は、スポーツドリンクを2本買って秋本のところに戻った。


「ほら」

「……ありがと」


 秋本はスポーツドリンクを渡すと一応反応はしたものの、両手で持つだけで飲もうとはしない。俺はそんな彼女にこれといって言葉をかけないで彼女の真横に座った。

 別にこいつの隣に座りたかったわけではない。荷物があるからそこに座るしかなかったんだ。

 地面にってのは論外だし、離れたところに座るまたは立つのは秋本を放置することになるためできないからだ。

 いや……正直に言おう。

 今の秋本に何て声を掛けていいのか分からない。俺はこいつの過去も知らないし、迂闊に適当なことを言っていい雰囲気でもないのだ。


「…………」

「…………」

「………………あのさ」


 数分おきにスポーツドリンクをひとくちふたくち飲みながら、しばらく無言の時間を過ごしていると、スポーツドリンクを持ったまま身動きしなかった秋本が話しかけてきた。その声にはいつもの元気はなく、ひどく弱々しい。


「その……ごめんね。おごってもらったり……あたしの問題に巻き込んじゃって。そのさ、別にあたし平気だから……だから」

「別に休憩してるだけだから気にすんな」


 気が付くと、秋本が言い終わる前にそう口にしていた。

 ぶっきらぼうな言い草だったのだが、秋本は何で俺が帰ろうとしないのか分かったのか、ほんの少しだけ笑みを浮かべてスポーツドリンクのキャップを回す。


「桐谷って……意外と優しいんだね」

「……あっそ」


 意外とはなんだ。

 とツッコミそうになったが、言ってしまうとこいつは空元気で普段のやりとりをしようとするかもしれない。

 今のこいつに普段のようなやりとりをさせるのは酷だろう。

 そう考えた俺は、秋本の方を見ないで素っ気無い返事をあえて返した。

 そんな俺の心境を理解しているのか面白がっているのか、秋本はくすくすと手を口に当てて笑う。その後、スポーツドリンクをひとくち飲んで口を潤した。


「あのさ……何も言わなくていいからあたしの話聞いてくれる?」

「…………」

「……いいよ勝手に話すから。まったく、今のところくらい返事してもいいじゃん」


 お前が何も言わないでいいって言っただろ。それなのに俺が悪いみたいにするな。そんで子供みたいに拗ねるな。

 なんてことは、ほんの少しだけであるが元気になったようなので言わないでおく。


「さっきの話で分かっただろうけど、あたしさ……中学まで陸上やってたんだ」

「…………」

「何も言わなくていいって言ったけど、少しくらい反応してほしいんだけど。相づちくらいでいいからさ。今のままじゃひとりでブツブツ言ってるみたいだし」

「……で?」


 こいつ、元気のないフリをしてるだけなんじゃないだろうか? と疑問を思ったが、口に出さないで話を進める俺は偉いだろう。

 いや、実際のところ偉くはないだろうが、こうでも思わないとこいつの相手はやっていられない気分になる。


「うわー……興味なさげ。まぁいいんだけどね」


 いいならいちいち人をイラだたせるような言動を取るなよ……落ち着け、落ち着くんだ俺。


「話の続きだけど……あたしこう見えても結構足速かったんだ」


 でしょうね。

 そうじゃないと全国で1番速い人物にライバル視されないだろうし。


「中学2年のときはさっきの子にも勝ってさ……全国で1番になったこともあるんだよ。中1のときはあの子に負けて2位だったけど。まぁだから……あの子と3年の最後の大会で白黒つけようって約束してたんだけどね」


 なるほどなるほど……それって結構ってレベルじゃないよね!?

 普段はしないその謙虚さ、この場においてはいらねぇよ。かえって腹が立つから。でも今の聞いてひとつ納得できたわ。

 正直な話、風祭涼子って人物が何であそこまで怒ったのかよく分からなかった。

 けど全国1位を争ったほどのライバル同士で、決着をつけようって約束があったのなら理解できる。

 だがその一方で、なんでこいつが陸上をやめたのかが理解できない。こいつは適当な性格をしているが、たまに真面目なところがある。

 全国大会に出場するってことは才能も必要だろうが、よほどの天才でもない限り、かなり練習する必要があるだろう。

 秋本も練習に励んだ努力型のはずだ。先ほど風祭が誰よりも打ち込んでいた、と証言していたことだし。

 練習には誰よりも打ち込んでいたってことは走ることは嫌いじゃないはず。むしろどんなことよりも好きである可能性が高い。

 そんな人間が突然陸上をやめる理由となると……あれくらいしかないよな。

 あれが理由なら秋本が度々見せてきた反応にも繋がるし。だがそれを俺から確認しようとするのはいけないことだよな。

 下手をすれば傷口に塩を塗るってレベルで済まないかもしれない。

 秋本の言葉から内心で色々と推測していると、秋本は急に俯いた。

 だがすぐに俯いたわけではなく、視線を自分の足に落としただけということが分かった。分かった理由は、秋本が自分の右足を手で撫でていたからだ。


「でもさ……3年に上がるちょっと前くらいだったかな。練習のし過ぎで……やっちゃったんだよね。それで……医者に前みたいには走れないって言われちゃってさ」


 秋本は話を聞いている俺を気遣っているのか、笑いながら普段のようにふざけの入った口調で言った。

 だが、ところどころに震えが入っているのを俺は聞き逃さなかった。

 秋本は無茶をして話しているのではないか、と思ってすぐ、別の可能性が頭に浮かぶ。

 秋本は自分から話を聞いてほしいと言ってきたが、昔を思い出しているため精神的にきついはずだ。声に震えがあったのは、これが理由だろう。

 いつものようなふざけの入った口調に笑った顔は、千夏先輩のように外面用の仮面なのではないだろうか。

 打ち込んでいたものを急にできなくなり、前のようには戻らないと宣告されれば誰だって心が不安定になる。

 不安定さを他人に感じさせないため、自分の心を騙すためにこいつは……《ふざける秋本恵那》という仮面を被っているのではないのだろうか。

 いや、もしかしたらその仮面がないと人と上手く話すことができないのではないか……


「正直……あのときは今まで生きてきて1番へこんだよ。前みたいに走れないってことは、もう速くなれないって意味なわけだしさ。そのときはもう走りたくない! って思ってたかもしんない」

「……でもお前って、予想だけど今でも走ってるよな? 走ってないならそんな引き締まった身体してないだろうし」

「うん……走ってるよ。前みたいには走れないけど…………走ることはやっぱり好きだから」


 初めてだ。

 秋本から嘘ではないと断言できるほどの真面目な口調を聞いたのは。

 本当に走ることが好きなんだな。俺は疲れるし、汗をかくからあまり好きじゃないんだが。特に長距離は嫌いとさえ思う。学校行事恒例のマラソン大会なんてなくなればいいのに、と何度思ったことか。


「……さっきさ……へこんだって言ったじゃんあたし」

「ああ」

「実を言うとね……前みたいに走れないって分かったとき、ホッとしたあたしもいたんだ」


 秋本は、顔をこちらから逸らしながら自嘲気味に笑う。

 おそらくまだ続きがあると思った俺は、秋本に返事はせずに黙って耳を傾けた。


「ちょっと話が逸れちゃうかもしんないけど……小学1年くらいかそれより少し下くらいのときにさ、かけっこで1番になったんだ」

「…………」

「人の言うことをちゃんと聞く善い子ってわけでもなかったから褒められたりしたこと少なかったんだけど……そのときお父さんたちに褒められて。それがとっても嬉しくて……それから走ることが好きになった」


 それは分からなくもない。

 俺はいつも真ん中くらいの順位だったから秋本とは違ってくるが、テストで100点を取って親に褒められたときは嬉しかった。

 いつも忙しそうにしていた俺の両親。あまり家に居なかったし、居たとしても仕事のことを考えたりすることが多く、難しい顔をすることが多かった。

 だけど俺が100点のテストを見せたりしたときは、笑顔で褒めてくれたのを今でもはっきり覚えている。他人よりも親と一緒にいる時間がなかったからかもしれないが。

 話が変な方向に行ってしまったが、秋本がそのときに感じた喜びというのは俺の出した例と同質のものだろう。


「思い返せば……暇さえあれば走ってた気がする。それが功を奏したのか、小学校のときは女子では1番速かったんだ。もちろん運動会ではずっと1番だった」


 そのときのことを思い出しているのか、秋本は空を見上げている。

 ひとくちスポーツドリンクを飲み、口の中を潤した秋本は、やや俯きながら再度口を開いた。


「あのときが1番楽しく走ってたと思う。……中学に上がったあたしは、そのときは走ることが好きだったから迷うことなく陸上部に入ったんだ」

「だろうな」

「……そこでさ、はっきりと理解させられちゃったんだ。他人よりも自分が遥かに速いってことを」


 小学校のときは、同学年としか走る機会がないと言っていい。学校によっては違ってくるかもしれないが、秋本の場合は言い方からして同学年としか走らなかったのだろう。

 中学の部活動、特に陸上などで人数が多い場合は、学校からの出場枠が限られたりするだろうから代表選手を決めるだろう。

 きっと秋本は、いま言ったとおり入部したばかりの時期ですでに2、3年生より速かったのだろう。

 顧問はきっと喜んだのだろうが、その一方で秋本を妬んだ人間がいたはずだ。


「今となってはそのときの先輩の気持ち分かるんだけど……そのときのあたしは記録の良い人間が代表ってのがルールなんだからって思ってて。先輩が突っかかってきたら反抗しちゃったんだよね」

「そっちに変な真面目さが出たのか……」

「うんまぁそれもあるんだけど……その突っかかってきた先輩ってさ、あまり真剣に練習してなかった人だったんだよ。だから真面目に練習もしてないくせに! って気持ちもあって……」


 あぁ……そういう先輩だと反抗したくなる気持ちも分かる。

 というか、そもそも普段から真面目に練習に打ち込んでる人に普通は反抗したりはしないか。こいつほど真面目に部活に取り組んでいた奴ならたとえ結果が出なかったとしても、努力している人間を馬鹿にするような真似はしないだろうし。


「まあそれは……そのときの部長がその先輩に『文句があるのなら真面目に取り組んでから言いなさい』みたいなこと言ってくれてさ。割とすぐに解決したんだけどね」

「良い部長さんだな」

「うん……いつも真面目で陸上に誰よりも真剣に取り組んでてさ。あたしのほうが足速かったんだけど、部長の陸上に対する姿勢とか見てて……いつか自分も部長みたいな人になりたいって憧れた」


 ……言ってはいけないだろうが、ぶっちゃけ信じられない。

 俺の知る秋本恵那は、適当で不真面目なやつだ。ごくたま~に真面目な部分があったりするが、とにかくこいつが真面目でストイックな人間に憧れるなんて――いや、昔のこいつは今と違ったからおかしくないのか。

 はぁ……この場において今のようなことを考えてはいけないはず、と分かっているのにな。

 どうもこいつと話していると意思が保てない。しっかり意識しとかないとポロッと善からぬことを言いかねないから気をつけないと。


「……って部長の話をしたいんじゃなかった。えっとね」

「別に慌てなくていい。ゆっくり自分のペースで話せ」

「あ、うん……ありがと。……それでそういう流れで1年のときから大会に出たんだ。自分のことに集中しないと、って状況なのにさ。緊張してるあたしに部長が親身になって色々とアドバイスとかしてくれて……そのおかげもあって、あたしはミスすることもなくてその大会で優勝して上の大会に進んだの」


 さらっと言われたが、その部長はかなり人間ができているよな。

 もし俺が部長の立場なら、ぽっとで1年が自分より速いことに良い思いはしない。顔に出すような真似はしないとしても、自分から親身にというのはできそうにない。

 ……陸上に関わっていれば変わるのかもしれないか。

 凡人が才能の塊に出会ったとき、おそらく取る行動はふたつ。

 ひとつは、才能に嫉妬してのやつあたり。これは秋本の話に出てきた先輩が取った行動と言える。

 ふたつめは、自分の経験で役に立てることがあるなら教え、才能がより早く開花するように導くこと。

 部長さんが凡人というわけではない可能性もあるのだが、部長さんと秋本に圧倒的な差があったとしたなら。いや、秋本は自分の方が速かったと言ったのだから差があったんだ。ならば部長がこちらの行動を取った可能性は充分にある。

 才能のある人間に「あなたのおかげで良い結果を出せました」と言われたならば、平凡な人間は大抵喜びを感じるものだろうから。


「それでさっきの子と出会って……同い年ってこともあってお互いライバル視するようになってさ。今まで以上に練習に励むようになったんだ」

「そうか……」

「でも……さらに練習に打ち込むようになった理由はそれだけじゃないんだ。良い記録を出すと注目されるよね?」


 それは当然だろう。

 1年生で全国大会にまで進むスプリンターを注目しないのは、むしろおかしいだろうし。それにライバルまでいれば、陸上関連の記者が食いつかないわけがない。

 となると、秋本にかかる世間からの重圧はかなりのものだった可能性が大だよな。


「最初はさ……学校の友達とか先輩に『次も頑張れよ』みたいなことを言われても、応援してくれてる。よーし、次も頑張ろう。……ってくらいにしか思ってなかった」

「……そうか」

「でもさ……2年生になって、全国で1番になってからは……」


 突然秋本の声が、震えのある弱々しい声に変わった。

 俺には想像できない恐怖を感じているようで、両手で身体を抱くようにして身体を縮こまらせる。

 その姿を見て「もういい」と言いそうになったが、それよりも早く秋本が口を開いた。


「周りの期待のこもった視線が……次も頑張れ、良い結果を出せって言葉がさ。……さらに良い結果を出さないと、あたしはみんなに見限られるんじゃないかって怖くなった」


 実際は秋本が良い結果を出さなくても、誰も秋本を見限ったりはしなかっただろう。

 だが期待する側と期待される側では、何気なく言ったことへの受け取りも違う。秋本が言ったようなことを感じても無理はない。

 優しさが時に人を傷つけるように、期待や無意識に言った何気ない言葉が無自覚に人を傷つけてしまうことだってあるのだから。


「怖くて怖くて堪らなくて……でも誰にも言えなくて! ……だから……だからあたしは走るしかなかった。胸にあった恐怖を消すには練習に打ち込むしかなかった」


 感情を全て吐き出すように叫んだかと思えば、今にも泣きそうになってしまう。これが本当の秋本の姿なのかもしれない。

 感情が抑えられないほどの恐怖というのは、いったいどんなものだろうか。

 何かに本気で打ち込んだこともなければ、結果を要求されるような期待をされたこともない。そんな俺に秋本の感じた恐怖を理解することはできないだろう。むしろ理解すべきではない。同じ経験がなければ真に理解してやることはできないのだから。

 だが……経験したいとは思わない。

 経験したいなんて思うやつは、心がおかしいと思う。重圧なんて感じずに過ごしたいと思うのが人の性のはずだ。

 何より……そんな言葉を口にすれば、目の前にいるこいつに対しての嫌がらせに他ならない。


「……お母さんだけは、そんなあたしに何となく気づいてくれてたみたいで。あたしのこと心配して……無理しないで休んだらって言ってくれたんだ。でもあたし……



 お母さんには関係ないでしょ。あたしのことはあたしが1番よく分かってるんだから放っておいてよ!



「……みたいなこと言っちゃって……さ」


 秋本は我慢の限界が来たようで、目から涙が溢れ出す。

 それでも秋本は話を打ち切ろうとはしないせず、溢れ出す涙を手でぬぐいながら口を動かし続ける。

 そんな彼女に対して俺が出来たことは、そっと視線を自分の足元に落として、泣いている顔を見ないようだけだ。


「その後すぐ……それまでの無茶な練習が原因で……足やちゃって。……どんなに……リハビリしても前みたいには走れなく……なって」

「…………」

「走れ……なくなったこともきつかっ……たけど。これでみんなの……重圧から解放されるって……思ってる自分がいて。…………そんな……自分が嫌で」

「…………」

「でも……ひどいこと言ったのに…………。お母さんは……今までと何も変わらず接してくれて。……あたしが……お母さんの言うこと聞いて……休んでたら、こんなことにならなかった……かもしれないのに」


 後悔先に立たず……まさにそのとおりだ。

 未来に何があるのか知っているのは、いるとは思っていないがいたとしても神様くらいだrぷ。

 もし神様がいたとしたなら、自分勝手とは思いはするが……昔のこいつにくらい先に教えてやってくれてもよかったんじゃないか?


「お母さんに申し訳なくて堪らなかった……だけどそのときは、言葉にできなくて。友達や……先生にも心配かけて…………あの子との約束も破って。……そんなことばかり部屋に閉じこもってる間……ずっと……ずっとぐるぐる頭を巡ってさ」

「…………」

「………………でもね……どれくらい経ったかは分からないけど。ある日突然さ……今までのことが嘘みたいに陸上とか自分の足のこととかに……何も思わなくなったんだ」


 それは……違うんじゃないか。

 お前の心が耐え切れなくって感じられなくなったか、お前の心を守るために無意識に何も思えなくなったんじゃないのか。


「その後……すぐに陸上部をやめた」

「…………」

「そっからはバカみたいに元気が出て……今まで陸上に打ち込んでしてなかったオシャレとかしたり、友達と遊びに行ったりしたんだ。……なんで今までしなかったんだろうって思うくらい楽しかった」

「………………」

「……でも、心の隅っこにはいつも陸上に打ち込んでた頃のあたしがいて。今のあたしはあたしじゃないって言ってる気がしてた。ううん……してたってのは違う。あれから1年以上経つっていうのに……今でも昔のあたしが今のあたしを否定してる気がする……」


 力なくうなだれながら秋本は自身の頭を両手で掴んだ。そして、手入れの行き届いている髪を力強く握りしめる。まるで今の自分を否定するかのように。


「もう……自分が誰なのか分かんない! あたしは誰なの、誰なのさ! こんなのあたしじゃない……そもそもあたしって誰なの? あたしは……あたしは…………こんなことばかり考える自分が嫌い。……もう嫌……考えたくなんかない。…………いっそのこと……記憶なんて無くなればいいのに」


 頭を掻きむしりながら感情を吐き出した秋本は……今にも消えそうなほど小さくてか弱く見える。

 こんな秋本を俺は見たことがない。いや……きっと俺だけでなく誠も下手をすれば彼女の両親さえも知らないのではないだろうか。

 過去の自分に戻りたくても戻れなくて……戻れたとしても戻りたくなくて。そんな自分が嫌いで……でもどうすることもできなくて。

 そんな風に悩む秋本に俺は声をかけることはしなかった。ただ黙ってスポーツドリンクを飲みながら秋本の隣に座り続けた。言葉を掛けるにしても……秋本の心が心として機能していないのでは何の意味もない。そう思ったからだ。

 無言のまま時間は流れ……次第に日が傾き始める。

 地面に映った影が伸び始めてきた頃……俯いていた秋本がゆっくり顔を上げた。


「……ごめん……長々と話しちゃって。その…………聞いてくれてありがとね」


 何が……ありがとうなんだ。俺はお前に何をした?

 俺はただ聞いている意思表示をしていただけで、励ましたりとか慰めたりとかはまだしてないはずだ。


「今まで……ここまで全部話したことは誰にもなかったけど、話してみると結構すっきりするもんだね」


 背伸びをしている秋本は、はたから見れば清々しい感じにも見える。

 でも俺には……弱い自分を懸命に隠そうとしているように見えた。そうにしか見えなかった。

 さっきまであんなにも胸の内に溜めていた感情を表に出していたのに、こんなにすぐ切り替えができるわけがない。だから俺は

 こいつが今でも泣きそうなのに、こちらに心配をかけたりしたくないから清々しい表情の仮面を被っている気がしてならないんだ。


「いやー……泣いちゃったりして恥ずかしい限りだよ。泣いた姿なんて子供のときくらいしか見られたことないのに」

「…………」

「ちょっとー何も言わなくていいって言ったし、内容的にも暗かったけどさ。少しくらい慰めの言葉なり、励ましの言葉なりかけてくれてもいいんじゃ……」


 秋本は言葉を発するのをやめた。俺が突然立ち上がったからだ。

 正直何て言葉をかけるか決まったからじゃない。考える時間がほしくて空になったペットボトルを捨てることでその時間を稼ごうとしたのだ。

 秋本の隣に座りなおし、秋本の方を見る。

 秋本の顔は、普段「どったの?」と言うときのような顔をしているが、今の俺には何も言わないでほしいとも何か言ってほしいとも言っているように見えた。


「桐谷? ……あっ、まさか慰めてくれんの? そっかぁ……ついに桐谷があたしにデレてくれるのかぁ」

「……そうやって気を遣わなくていい」

「……え?」

「お前のそのふざけた感じって、心配されたくないから被ってる仮面みたいなもんだろ。俺は……お前の仮面の下を知ったわけだから仮面を外してくれていい」


 俺の言葉に秋本は、驚きの表情を浮かべる。

 だかそれはすぐに悲しみが混じったような笑みへと変わり、彼女はペットボトルをさすり始めた。


「……さっき言ったでしょ。自分が誰なのか分からないって。……外したくても外れないんだよ。あの子が言ったとおり、昔のあたしが死んだからかもね。ほんとあたしって……誰なのかな?」


 誰なのか……か。


「お前は……秋本恵那だよ」


 考える前に口が動いていた。

 秋本も驚いているようだが、俺も何も考えないでさらっと言った自分に驚いている。だが口に出してしまった以上は、最後まで言うしかない。

 今から考えながら言うとかかなり難しいぞ。いったい何やってくれてんだよ俺……


「そのなんだ……俺は話を聞いたけど、聞いただけで昔のお前を見てないし、よく知らない。あの子や昔からの知り合いは違うかもしれないけど。俺にとっては、今のいつも適当なこと言ってふざける変態であるお前が秋本恵那なんだ」

「なんだろう……肯定されてるようで否定されてるようにも聞こえるからあまり嬉しくない」

「そのへんツッコむな。正直俺も自分がなに言ってるか、何を言いたいのかよく分かってない……」


 正直に言うと、秋本は「ちゃんと考えてから言いなよ」と言わんばかりにくすくすと笑う。


「えっとだな……俺はお前みたいに何かに打ち込んだことない。だからお前からしたら知ったような口を聞くなって思うかもしれないけど、その……自分が誰とかあんまごちゃごちゃ考えんなよ」


 妹以外の女の子に慰めや励ましの言葉なんてほとんど言ったことがなかったため、どうにも恥ずかしくなってしまい秋本から顔を背ける。

 言った内容からして怒るかな、とチラりと秋本を窺うとこちらの次の言葉を待っているようだった。

 俺は秋本の方を見ないようにし、頭をかきながら再度口を開いた。


「……はっきりと自分が分かってるやつなんてほとんどいないだろうしさ。それに……過去があるから今があるわけだろ?」


 記憶喪失とかだと話が変わってくるが、秋本はかけっこで1番になって褒められたこととか、陸上部に入って憧れを抱く先輩に出会ったとか、そんなことを話していた。秋本には今に至るまでの過去がきちんとある。


「お前は昔の自分は死んだって言ったけど……親に褒められたのが嬉しくて走るのが好きになった小さなお前がいて、陸上やってたお前がいて、無理して後悔と絶望を経験したお前がいたから今のお前が居るんだ」


 秋本の顔を再度窺うと、ただこちらを黙って見つめていた。

 場違いだと分かっているのだが、今のこいつは普段と雰囲気が違うため、見つめられると心が落ち着かなくなる。

 それに今言ったことを思い出してみると、足を痛めて閉じこもってたあたりの秋本という意味合いの不必要なことまで言ってしまっている。

 長々と話していると、関係ないことや余計なことを言ってしまいかねないのでそろそろ終わらせよう。


「まぁ……ごちゃごちゃと偉そうなこと言ったが、俺が言いたいことはそんなことじゃなくてだな。簡潔に言うと……その、あれだ。お前は今のままでいいってことだ。お前が昔みたいに真面目に陸上に打ち込む秋本恵那でも、今の適当でふざけてばかりの秋本恵那でも、俺は見限ったりしないからさ」


 とは言ったものの、度が過ぎることをされたら見限る可能性もありえるのだが。

 警察も動くほどの変態な行動とかは、さすがに生徒会に入って忍耐力やら環境適応能力が上がった俺でも許容できない。


「だからさ、元気出せ……なっ!?」


 最後に励ましの言葉をかけようとしたとき、秋本に視線を向けると泣いていた。

 俺、いま何か泣かせるようなこと言った? 言ってないよね? ぶっきらぼうな言い方だったかもしれないけど、泣かせるようなひどいことは言ってないよね?

 なんて考えてないで何かしら言わないと――


「あ、秋本。そ、その俺なんか泣かせるようなこと言ったか?」


 ――俺のバカ! こういうとき直接聞くのはダメでしょ!

 なんて思ってももう遅いんだよな。こいつとの関係が崩れたらどうしよう……って、そもそも俺とこいつの関係ってなんだ?

 ……良く言えば同じ所属の仲間とか同級生とかか。悪く言えばセクハラめいたこともしてくる加害者に被害者とかになるだろうか。

 後悔先に立たずって思ったけど、大した問題はないんじゃないだろうか?

 むしろ絡んでこなくなって俺的には喜ばしい――って俺のバカ野郎! こんなこと考えてる場合じゃないだろ!


「その、えっと……とにかく悪かった!」

「……桐谷……妹いるくせに女心分からないんだね。今の……場合、女心じゃないかもしんないけど」

「……つまり?」

「別に……傷ついて泣いたってわけじゃないって、こと。人ってのは……嬉しいときも泣くんだよ」


 え、あっ、うん。確かに人は嬉しいときも泣くね。テレビで大会に優勝したチームの人の中に結構泣いてる人いるし。


「……嬉しかったの?」

「当たり前じゃん。だって……今のあたしでいいって言ってくれたのあんたが初めてだもん」

「…………マジで? 誠は?」

「あんたが初めて全部打ち明けた相手だって……さっき言ったでしょ」


 ままままマジですか。いや、たしかに秋本の言うとおりなんだけど。

 でもさ、こいつと誠って親友って感じだし、ある程度話してるって思っちゃうでしょ。

 あの誠のことだから、ある程度の事情を知っただけでも俺よりも格段に秋本を喜ばすこと言いそうって思っちゃうでしょ。

 などと、ひとりごちゃごちゃ考えているうちに秋本は泣き止んだようで、俺に話しかけてきた。


「あのさ、長く話しちゃったけどさっきのことくらい……ちゃんと覚えておくべきでしょ。そんなだと女の子から嫌われるよ」

「す、すいません」


 本当はちゃんと覚えていたけど、流れからしてここは逆らうべきではないはずだ。ようやくゴールが見えてきたのだから。

 それに日陰にいるとはいえ、真夏は日陰でもそれなりに暑い。このままではせっかく買ったものが傷んでしまう。……すでに傷んでるかもしれないが。

 とにかく会話が延長されるようなことは避けなければ。


「それと……」

「はい」

「……今日のことは秘密だからね。何度も泣いちゃったし……」

「忘れろとは言わないんだな?」

「……言うわけないじゃん。……何か距離が縮まった気がするし、ふたりだけの秘密ができたんだし」

「あのさ、面と向かってはっきりと言ってくれないか? なんて言ったかさっぱり分からなかったし」

「忘れられたなら『桐谷の頭はスッカスカ』ってバカにしてやろう、って言ったの」


 おいてめぇ……今日はある程度のことは許してやるが、それ以上言うならさすがにキレるぞ。


「さてと……そろそろ帰ろっか。あたしはまだいいけど、そっちは買い物の途中だし」

「そうだな……」


 そう思うんならもうちょっと早く切り出してほしかったんだが。と言うのをやめた俺は、人を気遣える良い子だろう。

 こんな風に思わないと、ふとしたことで普段のように冷たいこと言いそうになるんだよな。さすがに今日言うのは避けたほうがいいだろうし。関係ないかもしれないけど、習慣って怖いね。


「さっきも言ったけど秘密だかんね」

「分かってるって」

「本当に?」

「はぁ……そもそもお前のこと話す相手なんていないに等しいだろ」

「まあね。桐谷の話し相手ってあたしらくらいだし」


 いやいや生徒会の他にもいるよ!

 亜衣とか由理香とか……美咲とか…………親とか。

 ……秋本。俺の内心が分かったみたいに肩に手をポンと置くのやめてくれない? さっきまでボロボロだったやつに慰められるのってかなり精神的にくるからさ。


「まぁ時間が解決してくれるよ……多分」


 ほんとお前は人を苛立たせるやつだな。俺から離れ始めてから余計なこと言うなよ。

 けどまあ……少しは元気になったみたいだな。

 やっぱこいつは明るくないと。そうじゃないとこっちの調子も崩れるし。


「あっ……!」


 秋本は、何かを思い出したような声を上げた後、俺の方に振り返る。


「きり……真央! またね~!」


 にっこりと微笑みながら別れの挨拶を言った秋本は、踵を返して歩き始める。

 俺は、秋本の後姿が見えなくなるまでその場に立ち続けていた。


「……ったく」


 見惚れるくらいの笑顔で、急に名前呼ぶなよ。思わずドキッてしちゃっただろうが。

 ま、まぁ……前みたいに変なあだ名で呼ばれるよりはマシだから、下の名前で呼んでいいけどさ。


「……にしても」


 なんだかあいつの本当の笑顔を見た気がするなぁ。

 今まで見てきたあいつの笑顔って、適当で変態のあいつの笑顔だったし。……あいつが普段ふざけてる理由を知ったから、違って見えるようになったのかもしれないけど。


「……普段からあんななら可愛いんだけどな」


 ……って、俺は何を考えてるんだ。

 秋本が可愛い? いったい何を考えてやがる俺は。

 そりゃあいつは、見た目は可愛い。けど変態だ。しかも生徒会のメンツの中でトップの。

 でも今日……普段してることの理由が分かってしまった。

 …………。

 ………………。

 ……………………。


「……よし、忘れよう」


 別にいま考えなければならないことじゃないし。

 それに、急いで帰らないと買ったものが傷んでしまう。傷んでしまわなくても、妹に「買い物にいつまで掛かってんだ!」って説教くらうだろうから俺の心が痛むんだけどね。


「……なんて考えてないで帰るか」




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