第六話 仙人の導き
冀州は十四州の中でもトップクラスの人口と経済力を誇るところだ。都と他の州の交易の用地にあり、常に栄えていた。
冀州の中心を少し離れたところに鉅鹿という都市がある。山に囲まれた場所にあり、人々は農業と林業で生活していた。
鉅鹿には三人の兄弟がいた。長兄は張角、次男三男はそれぞれ張宝、張梁といった。両親に先立たれ、叔父の張博に育てられていた。
張角は昔から人の心をつかむのがうまい。口を開けば周りの人は張角の言うとおりに動いていた。
そんな能力がありながら張角には全くもって野心がなかった。弟と叔父で平和に暮らしていられればそれで良いと考えていた。張角はまだ、自分が歴史を動かすなど考えたこともなかった。
「兄上、薬草取りの時間です」
畑を耕していた張角のもとに張宝がやってきた。
「もうそんな時間か」
張角は息をついて、手に持っていた鍬を置いた。
張角は自分の家の裏に聳え立つ山に目をつけた。あの山の中であれば色々な山菜が取れる、そう考えた張角は農業を弟たちに任せ、自分は「薬草取り」に出ることにした。薬草は予想を遥かに超える儲けを出し、今や張家になくてはならない収入元であった。
張角は朝陽もまだ昇らぬ頃から山に籠る。朝の方が薬草をよりよい状態で摘みやすい。
こんな時間から山に入るので人に出会うことはまずない。張角は一人山の中で草を詰んでいくのだ。
張角はいつものようにしゃがみこみ、ほんと照らしあわせる。薬草に似た毒草もあるため、慣れた張角でも選出の作業は慎重である。
「とれる、とれない、とれる、とれる…」
張角は一つ一つを細かく確認しながら籠に入れていく。夢中になって採っているうちに山奥まで分け入ってしまった。
ふう、と一息をついて元来た道をたどっていく。何年もこの仕事をやっていれば奥まで来るなどざらである。飽くまで冷静にどんどん戻っていった。
しかし。そこにあったのは小さな祠であった。
「こんなところがあったのか…?」
怪しがりてよりてみるに祠の石光たり。
張角は不思議に思いながらも花を一輪供えることにした。道教の信者である張角はこんな怪奇現象に逢おうとも信仰の対象であればそれを拝む。
信心深い張角だからこそ、この後の出来事も全て受け入れられたのかもしれない。
「ちょ…よ…、張…く…、ちょ…角よ…」
張角の目の前に一人の仙人が降り立った。黄色い服に身を包んだ老人である。
「貴方は…?」
張角は多少驚きながらもすぐにいつもの調子に戻った。
「我が名は南華老仙…この世に太平の教えを説く者…しかし、腐敗した民の心に我が声は届かぬ…張角よ…我が教えを受け、その教えで世を救え…」
南華老仙を名乗る仙人は三巻の本を張角に出した。
「これは我が教え…我が術を記した『太平要術』…これを使って世に徳を示すのだ…其方に悪しき心が芽生えれば其の術は忽ちに其方を呪うだろう…」
そこまで言うと南華老仙は姿を消した。そこには「太平要術」の書が残されるばかりであった。
家に帰った張角はあったことを全て家族に教えた。張家全員で道教を信仰するため、疑う者はいない。
張角はこうして世の中を救う「大賢良師」となった。
張角はすぐに南華老仙の言うとおり、世の中を「太平要術」で救う活動に出た。後に「太平道」と呼ばれるようになるこの宗教団体は日に日に信者が増えていった。
「兄う…大賢良師様、御目通りを願う者が」
毎日この連続だ。
「妻の病を」、「子の病を」。貧しい中で少しでも助けにすがりつこうとする農民によって、信者は何時しか全国七十万を有するようになった。
「兄上!」
張角のもとに悲報が飛び込んだ。
「叔父上が…叔父上が…!」
「!」
張角と張宝は張梁より知らせを受けた。
叔父、張博が役人に殺された。
張角らはその場に泣き崩れた。幼き頃より世話になった叔父の死は大賢良師となって何十万もの信徒を有する張角の心を打ち砕いた。
知らせの内容はこうであった。日に日に勢力を増す太平道を危険視した鉅鹿の役人が張博を謀反の罪で起訴、ろくに調べもせずに死刑まで持って行ったという。
「ああ…叔父上…叔父上…」
張角は人目もはばからず号泣した。
「兄上。もうこんな腐った世の中にいつまでも付き従う道理はございません」
いきなり張宝が言った。
「世が腐っているのなら我々が作り変えればいい。この七十万の信徒で新しい世の中を作るべきです!」
張宝は言葉にどんどん熱を宿していった。
コクリ。
張角は頷いた。
「蒼天已死(蒼天(後漢)已に死す)
黄天当立(黄天(太平道)当に立つべし)
年在甲子(年は甲子に在りて)
天下大吉(天下大吉)」
これが天下に大きな乱れをもたらす、「黄巾の乱」の始まりであった──。
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