始まる世界
私は過去に男の人に乱暴されたとか、満員電車の中で痴漢に遭遇したとか、そういった経験はしたことがない。これまでの人生の中で男の人に出会った回数が少なかったというわけでもない。小中学校は共学だったから異性と一緒に生活するなんて当たり前のことだった。
決して男性恐怖症というわけでもない。自分から話しかけることはないが、話しかけられたらそれなりの受け答えは出来ると自負している。
だというのに、私が目で追うようになった相手は女の子だった。私も女なのに、どうして同性の人間を見てしまうのか、私には理解できなかった。もちろん、小中学校まではそんなことはなかった。友達と呼べる相手が数えるほどしかいなかったからかもしれないけれど。
女子高に入学して、私はどういうわけかある女の子を意識するようになった。周りに男子がいないから、ただの気の迷いであるということも想定できるけれど。
しかし、女子高に入学して、私は女子の陰険な部分を知るようになったというのも確かなことだった。
「おっと、ごめんね~」
廊下を歩いていると、わざとらしく肩をぶつけられた。廊下に落ちるテキストとノートを拾い集め、お辞儀をしてその場から立ち去る。何度も経験しているからあんまり嫌な気分にはならない。
「ほんと、影薄いよね~」
「前髪長いし、幽霊みたい」
「極力お近づきになりたくないタイプだね」
背中からかけられる言葉は、私を非難する類のものだった。それすらも慣れっこだった。幽霊みたいだとか、なんだとか、自分でもそう思っているのだから悪口にもならない。
教室に戻り、自分の席につく。私の席は一番後ろの窓際。私の幽霊化に一層の拍車をかける位置である。
最後のHRが始まるまでの時間を、本を読んで潰す。それは毎日の日課だ。というより授業の空き時間は殆どこうして過ごしている。ああ、影が薄いというのも納得できる。客観的に見たら本当に私は一人だった。
前髪は長いし、背は低いし、声は小さいし、暗いし。良いところなんて一つもない。お近づきになろうと思う人は相当なお人好しか本当に優しい人だ。
「おうおう真澄さんや。今日も読書に精を出しているのかね?」
ふざけた調子で話しかけてきたのは、私の唯一の知り合いともいえるクラスメイトの園美木乃香さん。園美さんはクラスの中心人物みたいな人で、文化祭や体育祭の時は皆を引っ張ってくれるような存在だ。それに私とは比べ物にならないほど活発で背も高くて美人ときた。日陰者の私と関わっているなんて何かの間違いだと誰もが言う。私もそう思う。
園美さんは優しい人だ。彼女の交友関係は広いが、彼女が最も輝く場所は、華やかな今時の女の子って感じのグループである。彼女はそこでならスターみたいな存在だ。お洒落だし美人だし、学校内では彼女に勝てる人間なんていないと言われるほど。
だから、彼女が私に構うことにメリットなんて何もない。そう、園美さんは優しい人だ。クラスの中心人物だから、誰にでも優しい。私が特別なのではない。誰にでも分け隔てなく接することが出来るというのはある意味才能だ。
「あたしってばあれだよ、本って結構苦手なんだよね。苦手科目も国語だし」
「でも、模試ではとても良い点数を出しています」
苦手というのは他に比べて出来ないということ。確かに、模試の成績を(何故か)見せ合いっこしたとき、国語だけ点数が悪かった。しかし、他に比べての話だ。私からしたら贅沢言うなというレベルである。
「国語の成績上げたいな~。ねえねえ、真澄は国語の成績いいからさ、いつか二人で勉強会やろうよ!」
社交辞令のお誘いに、私はいいですよ、と頷こうとした時、
「木乃香~、こっちきなよ~。そんなところで何してんの~」
という、華やかグループからのお誘いがかかった。
「えぇ~……」
園美さんは私を気遣ってか、少し残念そうな顔をした。
「行ってあげてください。私は構いませんから」
私に構う必要なんてないのだ。園美さんは自分の最も輝ける世界にいるべきだ。園美さんが私と関わるという事実は彼女にとってマイナスしかない。いや、逆にプラスなのかもしれない。誰にでも優しく接することが出来るという心の広さを示すことが出来るのだから。
「……じゃあ約束、ちゃんと守ってよ。ちゃんと聞くからね!」
何をそんなに慌てているのか、理解できなかった。
理解できないまま、園美さんは自分のグループに戻っていった。
私こと志乃真澄はとある女子高に通う二年生で、図書委員を務めさせてもらっている。他の図書委員の方々はあまり真面目ではないので、仕事は基本的に私に背負わされる。単純作業は嫌いではないので文句はない。
少し嬉しい事に、今日は仕事がなかった。だから私は図書館の閉館時間までカウンターで本を読んで過ごすことにした。授業が終わってから一時間後に図書館も閉まるので、それまで自分の好きなように過ごせるというのは便利だ。
今日も私はカウンターで本を読んでいると、普段はこの時間帯に人はあまり来ないというのに、なんと来客が来てしまった。
「やっほー、真澄」
「あの、図書館ではお静かに……」
「おっと失敬」
いつもの大きな声で園美さんが入ってきたので、私は咄嗟にそう言ってしまった。
なぜ園美さんが来たのだろう。今日は何か用があるのだろうか。
園美さんは時々図書館にやってくる。本が苦手なはずなのに、私にお勧めの本を聞いて来たりただの雑談をしに来たりする。
構う必要なんてないのに。だから……私は勘違いしてしまう。園美さんは私に特別接して来ているわけではない。彼女は誰にでも優しいのだから。
朝の教室で私に最初に挨拶をしてくれた、それだけで何か勘違いをしてしまうくらいなのだ。その後に園美さんが仲のいいグループに入っていくのを見ると、やりきれない気持ちになる。だって、その中で彼女は笑っているのだから。私には見せたこともない様な、とても眩しい笑顔で。作り物じゃない笑顔で。
「今日は、なにかご用ですか?」
心臓が飛び出してしまいそうなくらい、私はどきどきしていた。こんな気持ちになったのは、この高校に入って、園美さんと出会って、初めて経験する気持ちだ。
けれどそれは実らない。私は園美さんにふさわしくない。月とすっぽん以上の差があるのは明白だった。
それでも園美さんはちょくちょく理由をつけてここにやってくる。クラスで孤立している私を、クラス委員として放っておけないのだろう。けれど私はなるべくしてこの立ち位置になったのだ。誰のせいでもない。
クラス委員として気に病む必要なんて、どこにもないのだ。
「ちょっと、さっきの会話もう忘れちゃったの!?」
再び図書館内での大声。誰もいないから問題ないかもしれないが。
「さっきの?」
まさか勉強会の話だろうか。
「本気だったんですか?」
だとしたらなんてお人好しなのだろうか。そこまでして私をクラスに馴染ませたいというのだろうか。
だったらやめてほしい。私は今の立場で満足している。それに、こうやって接してくれるから、何かを期待してしまう。それがいけないことだっていうことは分かっているのに。倫理的にも、彼女にとっても。私は本当に、何もない人間だから。
その優しさが、辛いのだ。もうそろそろ、優しさで構うのはやめてほしい。そうすれば私は、私のこの気持ちは、気の迷いだったということで済むのだから。
「本気も本気! 真澄ってちょいちょいそういうところあるよね~。もっと信用してよ~」
その優しさが……何よりも辛い。私の心を抉る。
「優しいですね、園美さん。こんな私にも積極的に声をかけてきてくれて」
「そりゃそうだよ。だって私は――」
「クラス委員ですものね。でも安心してください、園美さんが気に病む必要はないんです。私はこうしている方が性に合っていますから」
言いたくないことがすらすらと口からこぼれる。だけどここで拒絶しておかなければ私は盛大な勘違いをしてしまいそうだから。
「ちょっと、何言ってるの……?」
「園美さんが話しかけてくれるのはとても嬉しかったです。だって、クラスで一番輝いている人ですから。やっぱり、心も優しかったです。こんな私を気味悪がらずに話しかけてくれた。でももういいんです。園美さんは園美さんが楽しく輝ける場所に戻ってください。私なんかに構っているより、そっちの方がよっぽど有意義ですよ」
園美さんの絶句した顔が私の視界に入る。そして、その顔はみるみる内に怒りの表情に変わっていった。
「つまり、真澄は……あたしが真澄に構うのは、クラス委員として放っておけなかったからとか、ただの気遣いだって、そう思っていたって、こと?」
「はい。私と園美さんは、もう完全に住む世界が――」
「バカ!」
恐らく、私は園美さんの一番大きな声を聞いたと思う。
園美さんは怒っていた。柳眉を逆立てて、真剣に怒っていた。
「そんなわけないじゃん! なんでそんな風にいつも真澄は人の好意を悪い方へ悪い方へ持って行こうとするの? あたしは真澄と一緒にいたいからここにいるんだよ? クラス委員とか、そんなの関係ないよ!」
絶句するのは、こちらの番だった。園美さんは立ち上がって、私を見下ろしてそう言った。
だけど、こちらだって負けるわけにはいかなかった。園美さんは自分の日常に帰るべきなのだから。彼女は飛び立てる力がある。私はただの足枷にしかならない。
「私は邪魔でしかないんです。園美さんは羽ばたけるのに、私はあなたの翼を折ることしかできない。私は何も持っていません。私は園美さんにとっての害悪以外の何物でもないんです」
「いや! 真澄を捨てて行かなければ飛べないなら、あたしはずっと地上で、真澄と一緒にいる!」
「そんなこと言わないでください。私はあなたに飛び立ってほしいんです。あなたの幸せを願っているんです。だって、だって私は――」
「なら一緒に行こうよ。真澄がいないなんて、考えられないよ。あたしは――」
「あなたの事が好きなんですから」
「真澄の事が好きなんだもん!」
重なる声。無人の図書館に入り込む斜陽。部活の金属音。
静かで、時計の針の音ですら鼓膜が破れてしまいそうになる。
それだけ、私と園美さんの間の沈黙は静かだった。他の何の音も許されない程。
「え? え!?」
最初に口を開いたのは園美さんだった。顔が赤いのは夕暮れのせいだけではないだろう。たぶんそれは私も同じ。
「うそ……やだ、何言ってるんだろ、あたし」
「えっと、うそ、なんですか?」
「そんなわけないじゃん! 好きだよ、真澄のこと!」
「クラスメイトとしてですか? 友達としてですか?」
「よく分かんないけど……好き、真澄の事が好き! えっと、あれだ! 抱きしめたり、したい。あと、時々真澄と……キスするのも、妄想したことあるし……って! 何言わせてるのよ!」
「か、勝手にカミングアウトしたんじゃないんですか?」
そこで怒るのは理不尽というものだろう。
それにしても、ああ、なんだかほっとした自分がいるのだ。私の気持ちは、やっぱり嘘じゃなかったのだ。間違って、いなかった……。
本当に好きなんだ、園美さんの事が。優しくしてくれたからじゃない。園美さんは、たくさんの可能性を持っているから。その可能性を、その先を、隣で見ることが出来たらいいなって、そう思うようになっていたんだ。
感慨にふけっている時、ふと前髪を触られたような気がしたのでそちらに視線を合わせた。
視界が開けている。目の前には園美さんの顔が間近にあった。
「……!?」
「ほら、前髪分けた方が、真澄のかわいい顔が良く見えるよ?」
どうして私は前髪を伸ばし始めたのだろうか。たぶん、何も見ないようにしたからだと思う。こんなにも輝かしい世界に比べて、自分があまりにも矮小すぎたから、何も見ないようにしたのだと思う。
「でもあたしとしては今のままの方が良い」
「?」
園美さんのしっとりとして柔らかい手が、私の手と重なった。カウンターを挟んで向き合う私と園美さん。けれど園美さんが体を乗り出しているのでかなり近い。
潤んだ瞳が、その視線が、私の瞳に注がれる。
「真澄の可愛い顔を見られるのは、あたしの特権だからね」
静かな声で、艶やかな唇で、そう言った。
「真澄は、あたしの事好き?」
そんなの、答えは決まっていた。
この想いは秘めたままにしておこうと思ったのに、この想いは誰にも伝えないままお墓に行こうと思っていたのに。
「好きです。私は……園美さんの事が、大好きです」
人生というものは何が起こるかわからない。
今日、この日、私は自分の想いを打ち明けた。まったく違う世界を生きる私たちだけれど、園美さんはこういった。
「世界は同じだよ。見方が違うだけで、本質は同じもの。だから、気にしなくても良いよ」
私たちは世界をいろいろな角度から見ることが出来る。私があまりにも悪い方向から見ていただけで、本質は変わらないようだ。確かに、一理あると思う。
光は『波』でもあるし『粒子』でもある。見方によって形は変わる。けれど『光』であることに変わりはない。
「そういえば、勉強会どうしよう」
告白大会が終わると、結局そっちの話に戻ってしまった。私は基本的に用事なんてないのでいつでもいい。
「ま、ゆっくり行こうか。恋人さん」
無邪気に笑って、園美さんが私に抱き着いてきた。
ちょっと緊張したけど、私も抱きしめ返した。
園美さんの体は温かくて、柔らかくて、良い匂いがした。