四
小さな村での生活は、今まで史蓮が生きてきた世界とはまったく違い、優しく穏やかに過ぎていった。
史蓮は、自分の素性を思うと、幽玄と一緒にいることが許されない気がしていた。
翌朝、傷の痛みはほとんどなく、頭もすっきりとしていた。
こんなにすっきりと目覚められたのも、薬湯に安眠作用のある薬草も調合してあったのかもしれない。
「起きましたね」
彼女が起きたことに気付いた幽玄が、薬草の入った籠を手にやってくる。
「気分はどうですか?痛みは?」
「平気です、久しぶりにすっきりと起きれました。」
「それはよかった、…食事にしましょうか?」
いたわるような、やんわりとした笑みを向けて、史蓮を起こすのを手を差し伸べて手伝う幽玄。
心が和む。
昨日の夜のこと、幽玄は本当に気にしていないようだ。
それが、ありがたかった。
「ねぇ、幽玄先生」
寝台より降りた史蓮は、幽玄を見上げる。
「お礼に、今日は先生のお手伝いさせてください」
今日一日、恩返しをしてこっそりここをでよう。
そのことを考えると、胸がきゅっと掴まれたように痛くなる。
「それはありがたいですね」
史蓮の申し出に、幽玄は嬉しそうに答えた。
小さな幽玄の庵には村人たちが毎日のように尋ねてくる。
病や怪我はもちろんのこと、相談や茶飲み話。
それだけで、幽玄がどれほどこの村の人々に慕われているのかがわかる。
「史蓮さん、その薬草をこの器に入れて置いてください。それと、この薬を英琳ちゃんの膝に塗ってあげてください」
「はい」
薬草を調合しながら、幽玄は史蓮に指示を出す。
「えっと、これですね?」
言われた薬草を器に移し、軟膏を手に膝を擦りむいて泣いている幼い少女の視線にあわせてしゃがみこむ。
「英琳ちゃん、大丈夫よ。すぐに痛いの治してあげるからね、泣かないで」
「史蓮さんは、子供にすぐになつかれそうですね」
あやしながら薬を塗る史蓮の姿に、くすくすと幽玄は笑う。
「幽玄先生、その笑いって褒めているの?」
「褒めていますよ、…ただ、それは塗りすぎですね」
明らかに、傷の五倍はある面積に薬をつけて、なおも塗っている史蓮におかしそうに声を立てて笑う幽玄。
「…、そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
そういう史蓮も吹きだしてしまっている。
…できることなら、ずっとこうしていたい。
このまま、この村で幽玄先生の手伝いがしたい。
…自分の本来の生業を思うと、胸が重くなる。
どんなに楽しくても、望みを持っても、心に引っかかる暗殺者という烙印。
わたしは、人を殺すことを仕事としてきた人間なのだ。
「…史蓮さん?」
心配そうに顔を覗き込まれて、史蓮ははっと我に返る。
「どうかされたのですか?」
「…ううん、なんでもない。」
ふっきるように、頭を振ると幽玄を見上げる
「先生、次は?」
日は、すっかりと落ちていた。
「史蓮さん、お疲れ様でしたね。」
ニコニコしながら幽玄は史蓮の向かいに腰を下ろす。
「でも、あなたのおかげで、いつも以上に仕事をこなせましたし楽しく過ごせました。ありがとう」
「わたしも、幽玄先生のお手伝い、楽しかったです」
幽玄の為にお茶を煎れる史蓮に、幽玄は呟くように口にする。
「史蓮さんさえよかったら、ずっとここにいてほしいのですが…」
その言葉に、史蓮は小さく胸が痛む。
今夜、ここを去ろうというのに…。
これ以上、わたしに優しくしないで。
そう思う反面、許されるなら、その申し出を受けたい自分。
「…先生、お茶をどうぞ」
聞こえなかった振りをして、湯飲みを幽玄の前に置く。
幽玄は特に何も言わなかった。
ただ、何かを考えているようだった。
史蓮はそのまま、奥へ行くと匕首と黒衣を手にする。
戸口に向かおうと、振り返った史蓮の目の前に、幽玄が立っていた。
「…っ」
今のは気配さえも感じさせなかった。
「史蓮さん、少しいいでしょうか?」
「…なんですか?」
「…ここに、とどまろうという気は…ありませんか?」
「……。」
まっすぐな視線に耐え切れず、史蓮はうつむいて視線をそらす。
「…わたしには、……先生と一緒にいることが許されない…。」
言葉に詰まりながら、史蓮が呟く。
「どういうことです?」
「…先生、お願い。やさしくしないで。…わたしは人に優しくされる価値はないの」
「史蓮さん…」
「わたしは…人を殺すことしかできない人間なのだから……っ」
もう、とまらなかった。
涙が込み上げてくる。
「わたしは、黒虎の暗殺者だから…っ」
「黒虎……」
幽玄の声に驚きの色が感じられた。
黒虎といえば誰もが知る暗殺集団。
無理もない、と史蓮はきゅっと唇をかみ締める。
「わたしは、今までに多くの人を手にかけてきました。…わたしには、……先生のような人と一緒にいることなんてできない…」
「史蓮さん…」
突然、史蓮は幽玄に抱きしめられた。
「…かまいませんよ。あなたが黒虎の一員でも」
慈しむように史蓮の髪をなでる。
「先生…」
顔をあげた史蓮の目の前にあったのは、限りない優しさに満ちた幽玄の眼差し。
「それに、あなたは自分の行ってきたことを悔いているのでしょう?…何事も、やり直せない、ということはないはずですよ。」
「……」
その言葉に、史蓮はじっと幽玄を見上げる。
「……私の友人の話ですが…。」
そう、幽玄が切り出したときだった。
「先生、史蓮ちゃん、いるかい?」
劉おばさんが夕食のおかずを持ってやってきたのだ。
「は、はい」
いきなりのことで、慌てて離れる二人。
おばさんは不思議そうに幽玄と史蓮を交互に見やっていたが、あらあら、と笑い出した。
「若い人の邪魔をしちゃったわねぇ、ごめんなさいね」
何かを勘違いしたのか笑いながらおばさんは戸口に向かう。
「ちょ、ちょっと劉さん?!」
勘違いされてる、とあわてて後を追う幽玄。
「いいのよいいのよ、先生もとうとうお嫁を迎える気になったのねぇ…」
「だから、勘違いされてないですか?劉さん?!」
遠くなる、おばさんと幽玄の声。
史蓮はしばらく立ち尽くしていたが、意を決したように匕首と黒衣を抱えた。
そうして、幽玄の庵を出て行った。