禁断の質問と招いてもいない客
抱きつかれてしまった気まずさをごまかすように、俺は逃げるように帰り始めた。じゃあ、という挨拶は、我ながら小さかったと思う。慌てるように帰ると、待って、とこれまた小さな声で呼び止められた。
「…あの…時間が空いてる時でいいので、お部屋に行かせてもらっても、いいですか?」
「…え、と…」
俺が思わず反応に困っていると、彼女は少し間を置いて、真っ赤になって首を横に振った。
「ち、違います!変な意味じゃなくて…いえ、し、下心が全くないわけでは!いえ、あのっ」
「落ち着いて」
女の子からそんな生々しい話をどもられながらされても困る、俺がどうどうと落ち着かせると、彼女の呼吸は少し落ち着いた。
「向日葵さんと、お話ししたいんです」
「向日葵と?」
「はい」
そう言って頷いた彼女の真剣なまなざしは、とてもじゃないが俺を自惚れさせる気など微塵もなかった。きっと真面目な話なのだろう、俺は笑顔で承諾した。
「いつでもいいよ、基本暇だから」
「本当ですか!?」
まさか、すぐにだなんて誰が思おう。いつでもいいって言った俺が悪いさ。あー悪いさ。
「…ただいま」
「…お、お邪魔します」
彼女(そういや名前聞いてない)と俺が部屋に帰ってくると、向日葵はまるで安い昼ドラのようなリアクションを取っていた。顔面蒼白になりながら、皿という皿を割った。そこそこ高かった皿もあったのが、俺は怒る気もなかった。俺が言葉を探していると、向日葵は俺に涙目でつかみかかってきた。
「なんだぁ!?乗り換え宣言か、その次は私をたたき出すのか!?みかん箱に入れて川に流す気満々か、環境破壊!環境破壊!!」
「どっからつっこんでいいか分かんねぇよ!お前はとりあえず、話を聞くというスキルを習得しろ!」
「―っ、あっ、痛っ!!」
「割った皿の上、踏むからだ馬鹿!」
新発見、花からも血が出るんだ。ちょっと緑色を期待していた俺の頭も、そうとう毒されてきたかもしれない。俺が治療して包帯を巻いていると、少しは機嫌を直したのか、向日葵は彼女をじっと見ていた。
「…何の用だ」
最初から喧嘩腰だが、俺は止めはせず、水だけ置いて、さっさと外で時間を潰す準備をした。女は女同士、花は花同士、積もる話もあるだろう。向日葵は口こそ悪いが、手は出したりしない。そこだけは数少ない安心できる点だ。俺が靴をはきはじめると、彼女がぽつりぽつり、話し始めた。
「その…いつも何を飲んで、食べてらっしゃるんですか?」
「水!たまに土もくれるぞ」
「人前では?」
「ん-、水飲んでる。部屋の中だけだ。ヤナに言われたからな」
「我慢できない時は?」
「ないな、あまり外に出ないし」
「ここに一人で、何してるんですか?」
「ほとんど寝てるぞ。最近は隣の美貴さんが遊んでくれたり、料理作ったりするけどな」
よかった、割と平和に話してるようだ。俺がちょっと安心して、ドアに手をかけようとしたその時だった。
「いつ、枯れるんでしょうか」
「え?」
「私たち、いつまでこうしていられるんでしょうか」
ドアにあてた手が、汗で滑り落ちた。心臓が、かつて感じたことがないほど早く、早く、鳴っていた。早く出て行かなければ、早く、早く。
聞きたくない、聞きたくないと思っているのに、なぜだろう、足が、動かない。
「私…花のくせに、花を育てたことあるんです。人に頂いて。そしたら、びっくりするくらい、早く枯れました。急に恐くなりました。私もいつかこうなるのかなって。いつまで、お父さんとお母さんと一緒に、いられるのかなって。せっかく、あんなに、可愛がってくれてるのに…」
がたん!!
「ヤナ!?」
「ヤナさん!」
「…はは、ははは…」
俺は何年修行しても、役者にはなれないだろう。聞きたくない、が、動けない俺が取った選択は、わざとこけて、話を中断させることだった。が、上手くこけられず、結局本当に転んでしまった。しかもど派手に。傘立てが無残にも壊れてしまった。
「大丈夫か!?待ってろ、今、ナース服持ってくるから!」
「他に持ってくるものないのか」
向日葵と一緒に駆けつけてきてくれた彼女が、俺の表情を見て、すっと立ち上がった。その笑顔に、鈍い俺でも気づいた。彼女は、俺のちっぽけな恐怖に気づいたのだろう。
「すいません、私そろそろ帰りますね」
「ああ、駅まで」
送る、と言いかけると向日葵に噛まれ、俺は降参するように右手を挙げた。
「…送ろうか。向日葵と一緒に」
「いいえ、大丈夫です」
「-おい、待て!」
意外にも向日葵は彼女を追いかけ、驚くことに、水入りペットボトルを渡していた。
「…や…ヤナが渡せって言ったんだ」
「…ありがとう…じゃあ。向日葵さん」
「待て、お前の名前、まだ聞いてないぞ」
すると彼女は少し困ったように顔を上げて、しかし、すぐに笑顔で口を開いた。
「菖蒲です」
向日葵がせがむので、俺は携帯で菖蒲を調べてやった。出てきた画像をじろじろ見るなり、向日葵は花で笑った。
「ふふ、勝ったな!」
「何勝ちだよ」
もういいだろう、と俺が膝から下ろすと、向日葵はあっと叫んだ。
「ヤナ-!だっこタイム、延長30分!」
「カラオケ屋かよ」
俺は台所へ向かい、らしくもなく、夕飯の皿洗いを始めた。いつもは一週間くらい平気で溜めるのに。何かやってないと、落ち着かなかったからだ。俺が焦るように皿を洗っていると、ふと、向日葵が後ろから抱きついてきた。
「…なんだよ」
そんなに優しく抱きしめるな、まるで全部見透かしたみたいに。
「どうした」
そんなに悲しい顔をするな、まるで、今すぐ枯れてしまうみたいに。俺が慣れない笑顔を浮かべると、なぜか向日葵は余計に不安そうにした。だからもう、無理に笑うのは止めた。しかしだからといって、『それ』を聞く勇気は俺にはない。
「今日、一緒に寝ていいか?」
「いいよ」
「すごい下着もらった!」
「やっぱり駄目だ!」
「ええ!?」
俺は思っていたより、ずっとこいつに依存している。それがただの情なのか、それとももっと厄介な情なのか、考えることは出来なかった。ただただこいつの笑顔と明るい声に、救われていた。
眠れない夜だろうが、一緒に寝た奴の寝相が最悪だろうが、朝は来る。大学もある。俺が立ち上がると、これでもかとふわふわのエプロンを着た向日葵が、もじもじと何かを差し出してきた。
「はいあなた、お弁当」
「…おお」
あなただの、弁当、というかそもそも調理したこと自体につっこみたかったが、俺はぐっと我慢した。これは俺を元気づかせたい為だろう。例え胃が元気でなくなろうと、さすがの俺も拒むことは出来なかった。
さぁ昼飯の時間です。俺が気合いを入れてせーのっと蓋を開けると、中身は普通だった。飯の上の桃に見違えるほどのでかいハートも、やたらラブリーなおかずたちもこの際目を閉じよう。うん、見た目は美味そうだ。しかし見た目だけ安心してはいけない。問題は味だ。
「…」
美味い。しかし、まだ油断は許さない。この後の腹痛を想像すると、食欲が失せてもよさそうだが、食べ盛りの俺の胃は、けなげに全部平らげた。
俺がごちそうさん、と手を合わせると、そういえばいた真緖が、ため息をついていた。彼の手はパン一個、あまり大食いのやつではないとはいえ、これは少なすぎる。
「腹でも痛いのか?」
いやそれは未来の俺だが。しかし真緖は、答えない。そういえば今日は随分静かだ。
「おい」
俺が少し声を大きくさせて呼ぶと、今ようやく声が聞こえたように、慌てたように笑っていた。
「あ、ああ、悪い。何だっけ」
「いや別に…どうしたんだよ。昼飯、それだけか?具合悪いのかよ」
「あー、うん。ちょっと節約中でさぁ、あとバイトも増やしたし」
「ふーん」
俺はこの時、どうせまた懲りずに彼女を作って、これまた懲りずに指輪でも買ってやるんだろう、と、その程度にしか思ってなかった。そうとしか、思えなかった。それくらい俺の想像力は貧困で、真緖の抱えてる悩みは、俺の予想斜め上を遙かにいきすぎて一周半近く超えていた。
「ただいま…」
「あ、お帰りお兄ちゃん」
「…あ、あなた、お帰りなさい」
「…」
ばたん!!
俺が思わず扉を閉めようとしたが、すごい勢いで向こうから阻止された。
「お・か・え・り、お兄ちゃん!」
「うるせぇよ、お兄ちゃん言うな気持ち悪いんだよ!」
「あなた、兄弟喧嘩は駄目よ」
「お前もうるせぇよ!つうか何だよそのしゃべり方!」
最初に言っておくが、俺は決して妬いてるわけではない。ただ向日葵が、俺の弟に妙なことを言わないように見張りたいだけだ。だから凝視している俺を、弟がにやにやしながら見つめ返していようが、絶対に視線を反らさない。
「いやー、最近実家に帰ってこないと思ったら、こんなに可愛い彼女が出来てたとはなぁ。よかったじゃん兄貴、今までもてなかった分が一気に回ってきたかもな」
「ああ、ああ、ありがとよ」
もう彼女発言を否定するのも面倒臭い、俺は弟をにらみつけたが、あいかわらずにやにや笑ってやがる。性格は真緖と似ている気がするが、血が繋がっている分、一億倍鬱陶しい。髪はモデルみたいな頭だし、確実に女の子にプレゼントされただろう指輪をこれ見よがしにつけている。なるほど、相変わらずお盛んらしい。
ふと向日葵を何気なく見ると、彼女は余計なことどころか、一言もしゃべらず、もじもじと大人しく座っていた。服は元々持っていたのか、わざわざ美貴さんに借りたのか知らないが、見たことないふんわりした真っ白いワンピースを着ていた。
「いやー、本当に可愛いなー、向日葵ちゃん。兄貴のどこが好きなの?」
「や、優しいところです」
「へ-、兄貴がね。どうやって口説かれての?」
「捨てられそうになった私を優しく」
「-もう、いいか?」
なんだかいい加減恥ずかしくなってきた、いつの間にか距離が近づいている弟を向日葵から離した。
「俺、バイト行ってくるから。お前、帰れ」
「あ、そうだ。兄貴、バイト、確か喫茶店だろ?俺つれてって、飯でも食わせてくれよ」
「断る。なんで職場に家族連れてくんだよ、恥ずかしい」
「じゃないと、兄貴が女の子と暮らしてるって母ちゃんに言うぞ?」
母親を持ち出してくるとは卑怯な奴だ、奴は自慢のバイクを駐車場に停めてくると先に出ていった。何がバイクだ、これだから実家は。
向日葵も絶対ついてくると思ったが、彼女は意外にも留守番を望んだ。助かる展開だが、俺がさすがに不審がっていると、彼女が俺にそっと耳打ちした。
「ど、どうだったヤナ」
「何が」
「旦那様のご家族には、ふわっと純白ワンピースに、お嬢様言葉だと、雑誌に書いてあった!どうだ、結婚は近そうか!?」
「安心しろ、永久的に遠いわ!」
「あはは、丸聞こえだよ、向日葵ちゃん」
「~!ふにゃあああああ!!」
弟に本音を聞かれてショックだったのか、向日葵は真っ赤な顔で部屋の中へ逃げ走るなり、押し入れの中に入ってしまった。俺が振り返ると、弟はバイクの鍵を手の中で転がしながら、笑っていた。
「行こうぜ」
「お前が仕切るなよ」
何がおかしいのか、バイト先に行く道がら、弟はずっと笑っていた。
「面白いなぁ、あの子」
「そうか?」
「兄貴にはあんな子がいいんじゃない?」
「…そうだな」
例えば向日葵が、見た目の期待を裏切らないような性格だったら、しゃべり方だったら、一緒にいられなかったかもしれない。そしてそこまで考えて、俺は向日葵との付き合いを完全に弟に対して肯定してしまったことに気づいた。なんだか悔しいほどに恥ずかしい、よくもこいつは自慢げに、やれ彼女が出来ただの、迫られたなど、自慢できるもんだ。
「ええ、ヤナ君の弟君!?」
「全然似てないね!」
「兄がいつもお世話になってます」
「「きゃー、可愛いー!!」」
うらやましくない、うらやましくない。俺は弟をなるべく見ないようにして、またらしくもなく皿洗いに没頭した。どうも俺は腹が立つと、水仕事に走るらしい。また気づきたくもない自分の嫌な点を発見してしまった。
俺が張り切り皿を洗っていると、いつの間にか隣に菊川さんがいて、手伝い始めてくれた。
「あの子、本当にヤナ君の弟さん?全く似てないけれど」
「ええ、残念ながら、実弟です」
「…そう」
すると菊川さんは皿を置き、手を拭くと、彼女と思いらしからぬすごい速さで、フロアまで行った。彼女が向かう先には、弟がいる。なんだか嫌な予感がして、俺も皿を置き、彼女を追った。
「いらっしゃいませ、そしてはじめまして。私、ヤナ君と大変仲良くさせていただいている、菊川と申します」
「…うわ、すっごい美人。もてるっしょ」
「いいえ、全くもてませんよ」
視線が痛い、視線が痛いよ菊川さん。何で来たんだ俺。俺がそっと逃げようとしたら、弟のとんでもない一言で足を止めた。
「よかったら、今度、俺とデート」
「-おい、ナンパすんな!命に関わるぞ!」
「うわ、何だよ兄貴!職場くらい落ち着けよ!」
「職場くらい落ち着かせろよ!」
実弟までバッドの被害になってはたまらない、まったく油断も隙もない奴だ。しかし、弟は救ったかもしれんが、今度は俺が危ないかもしれない。また更に嫌な予感がして振り返ると、菊川さんが、真っ白な肌を少しピンクに染めていた。今度は何の地雷を踏んだんだ俺は。
気になるが聞くわけにはいかない、俺がごまかすようにまた皿洗いを開始した。すると、また菊川さんが隣に立ってきた。
「…ありがとう」
「え?」
「守って、くれて」
彼女に見えない、泡の中の中で、俺は皿を割ってしまった。おかげで血がにじんだが、しつこいようだが深い泡の中の為、菊川さんは気づかない。
「嬉しかった」
「…どう、いたしまして」
誰か絆創膏を持ってきてくれ。いやこんなもんそのうち血が止まるから、先に誰かここから助けてくれ。あとついでに余裕があれば、タオルも持ってきてくれ。汗が、止まらない。