増え続ける花人口
自分に子どもが出来た途端デパートで泣き喚く子どもが鬱陶しくなくなったり、自分の奥さんが身重になった途端電車で妊婦さんに席を譲り始めたり、男の自己満足によるなんちゃっていい人化は割とよく聞く話だ。
かくいう俺も家に花がいるせいか、職場で働く花が妙に気になっている。粗相はしていないか、失礼はないか。教育係があまりにも熱心すぎると先輩から茶化されたが、俺の目は知らず知らず彼女を追っていた。
「お待たせしましたご注文をどうぞ」
少し、いやかなり愛想がない気がするが、彼女は淡々と業務をこなしていた。失敗もなく粗相もない。客が好き放題散らかすトイレ掃除だって嫌な顔一つしないし、とにかく気が利くのだ。彼女はあっという間に信用を築いていった。同じ花でもこうも違うものか、俺は感心させられるばかりだった。
「ヤナ君、三番テーブルのお客さんがご指名」
「ああ、ありが」
ヘルプか、と思ったが、ありえない単語に思わず菊を見た。
「ご指名?」
「そう、ご指名」
「ようヤナ、昨日ぶり!」
「…ご注文はAランチ大盛りですね、かしこまりました」
「それ一番高いやつじゃねぇかおい!」
やって来た真緖はハイテンションに、珍しそうに店内を物色している。友人が職場に来るというのは何だか妙に恥ずかしい。
「いらっしゃいませ、この野郎」
「その敬語が逆に腹立つな…いやー、一回来てみたかったんだよ。それにしてもお前んとこ、可愛いの多いな!いいなあ!俺もバイト接客にしようかなぁ」
ふと菊と目が合い、小さく笑ってくれたので、俺も軽く会釈した。すると真緖が分かりやすく、テーブルをばんばん叩いた。
「なぁ、あの人、すっげえ綺麗だな。紹介しろよ」
「お客様、お決まりですか」
俺が機嫌悪く睨み付けていたのをようやく気づいたらしく、真緖がわざとらしくメニューに目を落とした。そして見始めて数秒でとんでもないことを言い出した。
「…なぁ。ここ高いから、後で定食屋行こうぜ。休憩くらいあるだろう」
「お客様、何しにいらっしゃったんですか」
そして真緖は俺が昼休憩になるまで、ランチ時間で混んでる茶店でコーヒー一杯だけで乗り切った。こいつの心臓は鋼で出来てるらしい。
「あの綺麗な子、昼に誘えなかったのか?」
「この前入ったばっかりだし、休憩は一人ずつだよ。おい、さっさと決めろよ…あ、すいません、天丼」
「あ、おい!俺まだ決めてねぇだろ!」
結局真緖も天丼にし、がぶがぶ食べていた。ふと奴のポケットからライターが落ち、それはからからと店の裏まで転がっていった。
「あーーー!」
「俺が拾ってくる」
やれやれ、俺が慌てて店の裏へ出た。ライターを拾うと、そこには何か袋を掴んで懸命に丸まって食べてる女がいた。浮浪者か何かだと思ったがその香水には覚えがあった。
「…美貴さん?」
まさかと思って話しかけると、やっべと呟きながら彼女が振り返った。彼女の口周りには、土がついていた。
なんだか自分が人間かどうかも自信がなくなってきた。
「なぁ真緖。お前は人間だよな」
「…どうしたんだお前。頭でも打ったか」
頭でも打ちたい。今までのこと全部夢だったらいいのに。向日葵と出会う前くらいから、全部、全部。
ふと携帯を見ると、ある程度予想はしていたが、美貴さんからメールが届いていた。
『おごってやるから、今日、店に来て』
夜の街は、なんだか一歩歩くだけで金が取られそうで、俺の寿命は今にも尽きそうだった。真緖でも誘おうかと思ったが、あいつがいたら話が出来んだろう。
教えてもらった店に行くと、胸を強調させた美女がわんさか迎えてくれた。鼻血じゃなくて別のものが出そうだった。好きなものは足りないくらいがちょうどいいとはこのことだろう。
俺が美女に囲まれ困っていると、美貴さんが手を振ってくれていて、思わずほっとしてしまった。
煙草を吸い、酒を飲み、化粧をし、接客をしている。こうしていると誰が花だなんて思おう。指名していた客がようやく帰ったのか、俺のところに来てくれた。
「いやぁすまんすまん。今日はお前がいるからって言ったんだけど、あのオヤジうるせぇからさ」
「いや、いいっすよ。珍しいとこだから、見てて退屈しなかったし」
「そうか?なぁ、今のオヤジからいくらもらえたか聞きたい?」
「いいっす、真面目に働いてるのアホらしくなるから」
かかか、と笑った美貴が、少し覚悟をしたように大きく息をついた。
「すまんな。黙ってて」
「いいっすよ別に。言わなきゃいけない理由はないし…つうか煙草とか酒とか大丈夫なんですか?」
「人間だって体に悪いの知ってて吸ってんだろうが!」
「そうだけど、植物が摂取したら余計に悪いような気がするでしょうが!」
思わず植物、と口走ってしまい、謝る前に、あっと呟いてしまった。美貴さんは笑ってくれ、俺は頭を下げるしかなかった。
「すいません、つい」
「いやいいよ…こんな仕事してるからさ。もっと酷いこと言われてるし。私はまだ稼いでる方だからマシだけど、客が取れない子なんて、店側からも酷いこと言われてる」
色々聞きたいことはあったが、何を聞いても失礼になりそうで、俺は口を開けずにいた。すると彼女の方から話し始めてくれた。
「私もう十年くらい人間やってるんだよね」
「そんなに?」
「そう。気がついたら人間だった。戸籍も保障もないから、こんなとこしか働けなくてさ…大分人間の食べ物とか飲み物に慣れてきたつもりだけど、やっぱり今でも土と水が一番美味いね」
花でも、人でも、この人はこの人だな。なんだか変な話だが少しほっとして、俺が席を立った。
「じゃ、ごちそうさまでした」
「コーラだけだよ、いいのか?可愛い子、呼んで来てやろうか」
「いえ本当に」
早く帰らないと、などと数日前までの自分だったらとても言わなかっただろう言葉が出かけたその時だった。
「浮気者ぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」
店中の視線がその一点に集中した。嫌な予感がして振り返るとやっぱりというか何というか向日葵がいて、俺はもう倒れてしまいたかった。目にいっぱい涙を溜めて、呼吸を荒くでかい目で睨み付けていた。
「なんだなんだ、そんなに胸なしが嫌か!巨乳がそんなに偉いかこの野郎!」
「落ち着け、今度は何の影響だ。つうかお前どうやってここまで来たんだよ…ま、いいか。ほら、この前のお姉さんの店だよ」
「う」
向日葵が美貴さんと目が合うと、洋服の恩がある為か、渋々といった感じだがそれでも会釈した。彼女は気にしていないように、よう、と笑って手を振っていた。
「ごめんね。ヤナ君には指一本触れてないから大丈夫」
「当たり前だ!ヤナは私と結婚するんだ!」
「へぇ、知らなかった」
よし引きずって帰ろう、俺がそう決めて向日葵を掴もうとした時、ふと中年の男が俺の肩を抱いてきた。酒と煙草の匂いで目が霞みそうだった。
「なんだぁ、美貴ちゃんと可愛い子独り占めかぁ?おじさんにも分けろぉ」
なんだか物のような言い方が俺に気に入らなかったが、美貴さんの手前ぐっと我慢した。美貴さんが小さく、帰ってと呟いてくれ、俺は会釈して向日葵の手を引いた。
「すいません、もう帰りますんで」
「おい、待てって。おじさん、その子を指名するぞ」
「ひゃっ」
向日葵の手を強引におやじが引っ張り、彼女の目に一瞬で恐怖の涙が溜まった。体内の血という血が、一気に上昇していくのが分かった。
「そいつに触んじゃねぇ!!」
がっ!!
店長の控え室に俺と向日葵、そして美貴さんが呼ばれていた。殴り倒した客に怪我はなく、おまけに泥酔していた為俺に突き飛ばされたことも覚えてなかったが、そういう問題ではない。
「すいません…本当に。あの時間はかかるかもしれませんが、弁償とか詫びは必ず…だから、美貴さんにクビとかは」
店長はずっと下を向いたまま、美貴さんも一緒だった。詫びる言葉がこれ以上出ない俺の手を握ったまま、向日葵も泣きそうだった。俺が更に謝ろうとすると、店長が顔を上げた。その顔は笑っていた。
「い、今時飲み屋で絡まれた女の子を助けるって…くくくく…」
「て、店長、笑ったらっ…くはははは!!!」
「…は?」
二人ともどうも笑いをこらえて、こらえすぎて震えていたようだ。なんだか急に恥ずかしくなってきた、赤くなっただろう俺の隣で、向日葵は不思議そうにしていた。
「い、いやあすまんすまん」
涙目で笑っていたその人は、初老の、いかにも人がよさそうな人だった。
「いいんだよ。あの客、美貴ちゃんもみんなも嫌いだったし」
「「ねー」」
二人が仲良く首をかしげ合い、俺はようやく頭を上げた。どうも俺に気を使って仲良くしてるわけでもなさそうだ。美貴さんの店長への優しい視線には、ちゃんと名前がついた感情がありそうだったが、そこを追求するのはさすがに野暮というものだろう。
「けど、あれだねぇ。万が一あの客が賠償とか請求してきたら、一週間くらいはただ働きしてもらおうかな。彼女、高校生くらいだよね、さすがにまずいかな」
向日葵が少し慌てるように俺の背中に隠れ、俺も思わず彼女をもっと隠した。
「す、すいません、こいつは勘弁して下さい。俺でよかったら皿洗いでもなんでも」
「残念だなぁ…そうそう、嫉妬深い男は嫌われるぞ、ヤナ君」
「違っ」
しかし否定すればするだけ二人には面白いらしく、その夜は永遠と二人に笑われて終わった。
美貴さんは笑って見送ってくれたが、後日また改めて謝ろう。もう俺はあくびが出てきた時間なのに、彼女は、彼女たちはまだまだこれからなんだろう。大変な仕事だ。夜道のため手を引いて帰っていると、向日葵はもう今にも泣きそうだった。反省する気持ちはもっともだが、こいつがこんな顔をしてると落ち着かない。
「何か願い事は。お姫様」
かなり恥ずかしい台詞だったが言ってしまった手前、どうしようもなかった。すると向日葵は、目をうるませて俺にとびついた。
「怖かったから、一緒に寝ていいか?」
「いいよ」
それくらい、一晩くらいなら我慢できるから。だから頼むから。あまり心配させるなとまで言えないから、俺はしょせん俺なんだろう。
頭が痛い。首が痛い。腰が痛い。
「どうしたヤナ、ひでぇ面して。昨日はハッスルしたってか!なっはっは!」
「寝相が酷かったんだよ」
あいつ本当に花か、寝不足のため思わず呟いてしまった言葉はとんでもなく、後悔して振り返った先の真緖はすごい顔をしていた。
「不潔!!」
「不倫経験もある大学生に言われたくねぇよ!」
結局芋づる式に、俺が向日葵と同居していることがばれた。まぁ遅かれ早かればれていただろう、俺が真緖に嫌々報告していると、なぜか奴の悪友、樫田まで出て来た。樫田は真緖のサークル仲間の、真緖曰く『眼鏡外してしゃべらなければ素敵女子』だそうだ。
「拗ねてたよー、ヤナ君に彼女出来たのよっぽどショックだったんだね」
「だから彼女じゃないって。肉体関係もない」
「同棲してて何もないの?どこのラブコメだよ。つうかさ、ヤナ君、キャラ統一してよ。ホモじゃないんなら、あんまり真緖っちとラブラブしないでくれる?こっちの妄想が追いつかんよ」
「俺は樫田の話についていけないよ」
そういえば、と俺は顔を上げた。真緖と彼女は何のサークルに入ってるんだ。
「サークルって何してんだ?」
「パソ研の名前を借りた、エロゲー同好会」
真緖、眼鏡は置いといて、彼女から外すべきはしゃべりだけではないようだぞ。
真緖が帰ってこない為、特にやることもなく、ずっと樫田の話を聞いていた。彼女はいわるゆるオタクで腐女子という人種らしいが、俺にはどういうことかさっぱり分からなかった。が、変態で変わっているというのはよく分かった。
「ねぇ真緖っちから聞いたんだけどさ、ヤナ君の彼女、可愛いんだってね」
「いやだから彼女じゃ」
「ふんツンデレめ…ならさー、悪いんだけど、ちょっとこのセーラー服で、えろいポーズを」
「お前は頼むから大人しく普通のエロ本読んでろ!」
つうか女子が女子のエロイポーズを見て何が楽しいんだ、全く理解できん。女子をエロゲー同好会に入れるサークルもサークルだが。
結局制服を無理矢理渡され、樫田と別れると、校門には向日葵が待っていて、手をこれでもかと振っていた。正直恥ずかしかったが、俺は仕方なく小走りで近づいた。
「迎えに来てやったぞ!」
「ああ、ありがとありがと」
「ヤナ、また花に浮気か?さっきの眼鏡」
「だからお前なぁ」
時間が止まった、なんて比喩表現を使いたくなるほどに、脳が停止したかと思った。すると向こうから、なぜかふらふらしながら真緖が歩いてきた。
「あ、裏切り者がいる…お!向日葵ちゃん!元気―?」
「元気だぞ!」
「そっかそっか、よかった」
「おい…樫田さんの下の名前、なんだっけ」
「…あ?確かな…そうだ。百合ちゃん」
神様なんて信じたことなど人生で一度もないが神様。もしいたとしたら、教えて下さい。俺の周りに人に化けた花人口率を上げて、これは一体何の試練ですか。