恐怖の来襲と最終恐怖の来襲
続・向日葵とのなんちゃって恋人生活。
向日葵と恋人になって早何日か経つか、これといって変わったことはない。朝起こされ、バイトもしくは大学に送り出され、強制的に恐怖の弁当を持たされ、夜になって帰ると裸エプロンかコスプレ(種類が増えてきた)姿に迎えられ、恐怖の晩餐を食べさせられ、一緒に入るとやかましい奴を風呂に入れないように必死に扉をガードしつつ入浴を済ませ、ぎゃあぎゃあ言いながらテレビを見て、面白い番組がなければ金がないので河原を散歩したりして時間を潰し、夜が更けたら一緒に寝たい寝たいやかましい向日葵を押さえつけて寝る。眠くて面倒でそのまま寝てしまうことも少なくない。
なんだか箇条書きにするとものすごくラブラブな同棲生活のようだが、肝心なところが抜けている。そう性生活だ。向日葵を押し倒してしまった夜以来、奴は俺にあまり執拗に迫らなくなってきたし、俺も元々襲う気もない。ついでに言うと口すら触れてない。仲の良すぎる兄妹といっても支障はない。
実際俺も向日葵のことをもう一周回って妹のように感じているんじゃないかと最近思うようになってきた。いくらヘタレで童貞とはいえ、いくらなんでも行動を起こさなさすぎる。品のない話ではあるが、一緒に寝ても勃ちもしないのだ。だからといって、離れる理由にはならない。俺も向日葵も。
童貞の負け惜しみと罵られようが、俺は肉体関係に重きを置いてない。したいものはしたくないんだから仕方ない。年頃の男として本気でどうかと思うが、まあ、やらなくても死にはしない。正常に生きてるし。
菊川さんの事件が無事落ち着きを戻し、俺の生活にもまた平和が戻ってきていた。
「やなああああだっこおおおお」
「はいはい、今度な」
「今!今がいいぞ!」
「はいはい」
-ぞくっ!
「…っあ?」
突然襲ってきた天啓のような寒気は。
「どした?ヤナ」
「いや、何か今、寒気が」
「寒いのかヤナ!よし裸で暖め合おう!」
「却下!!」
この平和な日々を思いがけない調子で打ち破るものだと、俺はまだこのとき知らなかった。
そして悪夢はやってきた。
「あらヤナ生きてたの?あの菊姉さんに好かれた挙げ句尻尾巻いて逃げてきて、優しいお姉さんに何もなかった風にふるまわれて、それで安心して恥ずかしくないわけ?恥ずかしくて死なないわけ?本当に理解が出来ないわ、全くこれだから庶民は駄目ね。ああそうそう、これ。今噂のスイーツで、2時間並んでも買えないって噂だけど、パパの力でたまたま手に入ったの。まあ私はこんなもの食べ飽きてるから、捨ててしまおうかと思ったけど、庶民の貴方のことを思い出してね。どうしてもって言うなら、あげてもいいわよ。その代わり、地面に這いつくばってお願いしますかすみ様って言わないと駄目よ、駄犬なんだからそれくらい簡単でしょう。まあ犬は一人で食べられないでしょうから、どうしてもって言うなら、一緒に食べていいけど」
「長い長い!デレるまでどんだけ時間がかかるんだよお前は!そんだけしゃべってよく疲れないな、関心するわ!要らないから帰れ!」
「な、なんですって!?」
「ヤナ様、受け取って差し上げて下さい。お嬢様が泣きそうになりながら2時間並ばれて買われたのです」
「庶民はそんなもん食ったら腹がびっくりするんで、それとお嬢様ごとお帰り下さい」
「ヤーナー!下のおっちゃんから五月蠅いって怒られたぞ!すごい恐かったぞ!!」
今日も今日とて絶好調のかすみも恐いが、近所迷惑はもっと恐い。正直少し、いやかなり嫌だが、かすみ様には部屋にお上がり頂いた。この日本に本当に存在していたらしい執事にはお帰り頂いた。
「八木のやつ…余計なことをぺらぺらと…帰ったらクビにしてやる」
ヤギなのか、執事なのに。
「止めとけよ、いい人じゃないか。こんな炎天下にお前のワガママに付き合ってくれて」
「ふんっ、分かったような口を」
かすみの入室により向日葵が怒るかと思ったが、彼女という肩書きを最大限に過信し、かすみに綺麗めの座布団を敷いてやったり、冷やした水を汲んでやったり、実にいい彼女を演じてくれている。
「お菓子ありがとな!あ、そうだ、かすみ」
「何よ」
「私とヤナな、付き合い始めたんだぞ!」
俺は驚かなかったし、突っ込まなかった。向日葵の告白は想定内だったからだ。さあちゃぶ台をひっくり返すがいい、と覚悟している風に見せかけて、その実俺はものすごい緊張していた。どちらの二人とも目が合わせられず、もう空になっているコップをひたすら傾かせ続けていた。しかしそれにも限界が生じ、変な汗までかいていた。俺が恐る恐るかすみの顔を見ると、彼女は鼻で笑っただけだった。
「だから、何よ。どうせ言葉だけでしょ。あんたたちまだ、子作りもしてないじゃない」
グラスの先で歯を折るかと思った。そうだ、こいつは真緖と美貴さんの関係も見抜いていたんだ、なんだ花とやっちまった人間は頭から花粉でも飛ぶのか。歯を舌で舐めながら振り返ると、向日葵がでっかい目を極限まで震わせていた。
「どうせ、あんたがわけ分かんないワガママ言いまくって、ヤナがノリで受けたとかそんな感じでしょ」
すげえなこいつエスパーか、まるで見ていたようだ。まあ俺と向日葵のやり取り見てたら、大体誰でも分かりそうなもんだが。
「そんなので彼女彼女言って恥ずかしくないの、あんた」
「…っ、う、うー…」
「私ならもっと頭を使うわ。例えば食べ物に媚薬を盛るとか」
「-ぶっ!?」
「あらヤナ、もう効いてきた?私に惚れてもいいのよ。年収億越えたらデートくらいしてあげるわよ」
「ヤナぁ!ぺっ、しろ!ぺっ!!」
媚薬はかすみらしくもなくネタだったらしい、つうかそんなもんが簡単に手に入ったら困る。かすみならパパの力とやらでどうにかなりそうだが、とりあえず相変わらず俺はかすみに対して恋心のこの字もない。
「あーあ、狭くて汚い部屋ね、相変わらず。もう1秒も居られないから、帰るわ」
「あー、そうかい」
こいつ本当に何しに来たんだ-まさか本当に菓子を届けに来ただけか。そう思うと、俺も少しだけ大人気なかったような気がしてきた。
「こんな部屋にいたら、ますます人間性が劣化するわよ」
「そうだな、このままお前の罵声聞いてたら、俺の怒りが爆発するかもな。導火線も劣化してるだろうから」
「環境を変えれば、改善するんじゃなくて?それくらい考えなさいよ、その頭の中には何が入ってるのよ。パパの屋敷は広いから、使ってない余ってる部屋、たくさんあるわよ。犬一匹くらいなら飼えるわよ」
「いーよ。そんなとこ住んだら落ち着かねえし」
「…っ、そう!じゃあここで一生を過ごすがいいわミトコンドリア!」
酷い言われようだ、だが、これだけは、悔しいが、言わなければ。
「待てよ、かすみ」
「…っ、なっ」
何だ?何かまずいこと言ったか?まあいいや、続き、続き。
「菓子、ありがとな。吹き出しちまったけど、美味かったよ」
「…た、たたたたたたた食べ過ぎて糖化しろデカ物っ!」
「何てこと言うんだよお前は!!」
相変わらずすげえヒールですごい勢いで走っていった-大丈夫か、あいつは。やれやれ嵐が去った、俺がちらり、と向日葵がいる自室を見上げる。かすみを下までとはいえ送っていくというのに、あいつはいい彼女ぶって部屋の片付けに徹しているだけだ。いつもなら下にまでついてくるのに-いや、別に妬いてほしいわけではないが。
「ヤナさんっ」
「菖蒲ちゃん」
がらがらとベビーカーを引く菖蒲ちゃんは、髪をしばって、少しお姉さんに見えた。にこにこと誇らしげに赤ん坊を見せるが、多分男の子だっただろう子は俺を見るなり大泣きした。慣れた反応とはいえ、久しぶりのせいか傷ついた。
「あ、あれさっきまでご機嫌だったのに…せっかくヤナさんに見せようと思ったのに…お腹空いたのかな?」
「いや、俺の顔が恐いんだと思うよ。子どもは俺の顔見たら100パー泣くから。目つき悪いし、でかいし」
「そ!そんなこと!ヤナさんは優しっ…あっ…」
赤くなるな赤くなるな、つられるから。泣いていた赤子も落ち着き、俺も落ち着こうと思ったそのときだった。
「あーらあらあら。道路の真ん中で仲がよろしいこと。邪魔よ、散りなさい」
帰ってきた、かすみ様。ちっこいのに怒りで影やら何やら見えてはいけないものが増えすぎて、何か威圧感がある。怯える菖蒲ちゃんが俺の後ろに隠れると、めざとくかすみが見つけた。
「地味でださいわね。同種とは思えないわ。自分じゃ自信がないから、子どもで気を引こうって魂胆なの?馬鹿に付ける薬はないわね」
「わ、私そんなつもり…っ」
「おい、止めろ。お前、帰ったんじゃなかったのか」
「帰るわよ!いつまでもあんたなんかと同じ空気吸えるもんですか!私はただ」
「…っ、わ、わわわ、私のことはいいけど…ヤナさんのことは悪く言ったら許しません!」
「…なんですって!?」
俺、眼科、耳鼻科、精神科、どっから行ったらいいかな。気のせいかな。俺の目の前で可愛い花たちが俺のせいで修羅場だよ。何か前にもあったなこんな光景。
「おーい、ヤナ-。かすみの奴、日傘忘れて」
増えた!!
「…おお?」
場の空気を珍しくこういうときに限って読んだ向日葵は、二人と距離を取り、俺の腕を掴んできた。
「こらあ!本命さし置いてヤナの取り合いを始めるな!ヤナは私の彼氏だぞ!ヤナは私の彼氏だぞ!大事なことだから2回言ったぞ!あとかすみ!菖蒲を泣かしたら許さないからな!」
「忙しいな、お前は」
「…っ、え…?何だ。貴女もヤナさんのこと好きだったんですか」
「…っ、な」
「ごめんなさい、私、てっきり」
「ち、ちが…違…」
かた、かた、かた、とかすみは壊れたマリオネットのような動きで、ふらふらしながらその場を離れていき、そして、すごい豪速で戻ってきて、ちゃんと日傘を手に取った。
「違うわよどブス!!」
そして彼女にしては貧困で短い罵声を残して、またすごい速さで帰っていった。今度こそ本当に嵐が去った。赤子が楽しそうにはしゃいでる、彼だけでも喜んでくれてよかった。
「ごめん菖蒲ちゃん、あれは災害とでも思ってくれ」
「そうだ、気にするな。あいつ、逆のことしか言えないんだ」
「…そっか…ヤナさん、もてますね…困るなあ」
納得するなよ。困るなよ!!
昨日は何の日だったんだ、自分の部屋じゃなく、大学の方が落ち着くってどういう了見だ。俺が完全にだらけていると、ニヤニヤした真緖が近づいてきた。
「おっはろーん。美貴さんから聞いたぜ。昨日もまたすげえ面白くもててたんだって?」
「見てたんだったら止めてくれよ、あの人は…」
「俺も見たかったなあ」
ニヤニヤ楽しそうに、その美貴さんにでもメール打ってんだろう、携帯には美貴さんと同じストラップが揺れていた。引きちぎってやろうか、この幸せ野郎め。
「そうだお前、就職どうすんの」
「…っ、あー…」
もうそんな時期か、そうだよな、正直元から真剣に考えてなかったが、なぜか花にもてまくりだしてから余計に脳から削除されていた。この就職氷河期、学歴も新卒も関係ないとあちこちメディアで報じられやる気を根本から折られそうになるが、やるとやらないじゃ全然違う。親とか親とか親とか。大卒というブランドの為だけに家から出しまでしてくれた親とかの。
舐めた学生だと言われても構わん、正直、就職といわれても全然、何も思いつかない。
「お前は?」
「俺は…なるべく、高収入のとこに…」
「…アバウトだな。そんなに金持ちになりたいのか」
「いや-、そしたら…奥さんに転職をお願いする理由になるし…」
爆発しろ、俺が思わず回し蹴ると、真緖はまだ笑っていた為、俺はもう1回蹴った。
一つ賢くなった。リア充は蹴っても、空しくなるだけだ。俺も一応肩書きだけはリア充のはずなんだが、何だろう、その言葉の違和感のでかさは。
将来ねえ、俺は大あくびしながら向日葵が雑誌を手にごろごろしてる四畳半を見た。駄目だ、この狭い部屋で向日葵といる未来しか想像がつかん。それは未来というより今じゃねえか。
て、待て。今日も明日も明後日も、未来も、ずっと、この部屋で?二人で?
-奥さんに転職をお願いする理由になるし…
「ヤナ-、今日はスペイン料理に挑戦してみようかと思うんだけどな」
「結婚しねえぞ!?」
「ぶええいきなり婚約破棄されたあ!?」
ぶぶ、ぶぶぶぶ
「ヤナ、私、指輪も結婚式もなくてもいいから!ヤナの立派な奥さんに」
「いいから静かにしろ、電話だ」
「ふええええ」
あ、いや、メールか…弟から?珍しいな、何だ、どうせ彼女の自慢画像だろう、消去消去-
『やばいやばいやばい。母ちゃん兄ちゃん部屋行くって。非難されたし』
ぶつ、っと、俺の脳内のコンセントが抜かれたような衝撃が走ったが、俺は意外と冷静だった。
「…向日葵、逃げるぞ」
「お、おお?何だ、いきなり逃避行か?」
「まあ、似たようなもんだな、そうだな、とりあえず真緖ん家-」
-ばんっ!!
だが。敵は予想を裏切り、ものすごく早かった。嫌な予感は当たっていた上に、かすみの来襲じゃ終わらなかった。
「来ちゃった」
「…か…母さん」
後ろで向日葵がオーバーリアクションに、また皿を割っていた。いいぞいいぞ何枚でも割れ、今の俺は、例え今すぐ部屋が真っ二つになっても、目の前の母親以上に動じない自信がある。