美しい花への最低の敬意
死刑台に続く道を歩く死刑囚とはこんな気分だろうか。すごく今更だが俺は図体でかい割に気が小さいからよほどのことがない限り犯罪には走らないだろうが、えん罪とか誰かに罪を着せられたりとかそういう目に合う自信はある。何自慢だ。
一歩一歩が重い。距離にしてはそう遠い場所でもなく分かりづらい場所でもなかったが、それでも精神的な重さからか、予想してた時間より随分遅くかかってしまった。
しかし、しかしなあ-
「…おやおや」
「こ…こんにちは」
実家に尋ねてくるか普通!!
さっきまでの恥ずかしいテンションだった自分をどうにかしてしまいたい。あの勢いなら魔王をも倒せそうだった。菊川さんとは前に連絡先を交換していた為、電話もメールも可能だが、メールの返信はなく、電話も当然のように出てくれなかった。よしなら家に行こう、どうしてこうなった。もうちょっと落ち着けよ俺。それか我に返るのもう少し後にしろ、その方が俺の精神がまだ大丈夫でいられただろうが。
というか責任転嫁するようで悪いが、バイト先の店長も店長だ。易々と女の子の、おまけに辞めた子の住所を教えるなよ。いくら菊川さんが辞めたのショックだったからって自暴自棄になりすぎだろう。
さて。
脳内で長々愚痴ったが、要は俺は菊川さんのご実家に到着してしまっていた。菊川さんが出てきたらBダッシュで逃げる自信があったが、出て来たのは、いつかの爺さんだった。
「孫の見舞いですかな」
「見舞いって…ええ、あ、はい、そうです」
どこか悪いんですか、はどうにか飲み込めた。ここは見舞いという設定にしておいた方が、家に入れてもらいやすいだろう。だがしかし、ここで新たな問題が出て来た。いくらご老体とはいえ、可愛い孫に会いに来た男をほいほい家に入れてくれるだろうか。笑顔だから余計考えが読みづらい。
俺がじっと審判の時を待っていると、爺さんがにこやかに口を開いた。
「すみませんが、身長187センチのバイト先の男は入れるなと言われてましてな」
「俺188になりました!あとお孫さんバイト辞めてます!お邪魔します!!」
すげえな今日の俺。ドラゴンでも倒せそうだ。
「こ…んにちは」
ドラゴンの前に、もう、目の前のか弱い女性にやられそうだが。
「………」
美人は寝間着でも美人だ。菊川さんは俺の登場にかなりびっくりした様子で俺をしばらく見据えた後、すごい勢いでふすまの向こうに引っ込んだ。俺は早くも帰りたくなったが、何とか耐えた。
失礼ながら部屋の様子を見る。老夫婦2人が平和に静かに暮らしていた家に、ふっと女の子がいきなりやって来てくれた、正にそれを象徴するような部屋だ。ふすまや畳、和式の家具が目立つ中、可愛いらしい柄のカーテンが揺れ、これでもかと女の子らしい服が風に揺れていた。どれだけ可愛がられてるかどうかは、すぐに分かる。
「菊川さん、ふすま、開けて下さい。話をしに来たんです」
「何の話…私と付き合ってくれるの?」
「うぇ!?」
思わず声がひっくり返ってしまった。俺は慌てて自身の口を塞ぐが、しっかり聞こえてしまったらしい。ぎぎ、ぎぎぎぎ、と天の岩戸が開く音がするが、ふすまの向こうからちらっと見える菊川さんは完全に殺気だっていた。
「そんなに私無理?カエルがひき殺された声出されるくらい無理?」
「い、いや、あの」
俺がカエルの代わりに殺される、奥歯をがちがちさせながら言葉を探していると、菊川さんが吐くようにため息をついた。
「ヤナ君、私のこと嫌いなのよね」
「いや、好きっ…!」
びっくりした。びっくりしたびっくりしたびっくりした!!
赤くなるどころか青くなる俺の向かいで、菊川さんはといえば、可能ならば今すぐタイムマシンを作りかねん俺の顔を見ずに、泣きそうな顔をしていた。
「いや、あの…えっと…普通に、その…人として…好意を…」
「ヤナ君ってほんと…最低だわ」
ずしり、と。
今まで聞いたどの言葉より重く響いた。ふすまが閉められる音が重い。もう絶対に開かれることはないだろう。無理矢理こじ開けられないことはないだろうが、随分距離があるように錯覚さえ感じた。
ぐらりと倒れるようにしゃむと、ふと携帯電話がメール着信を告げた。樫田からのメールだった。楽しそうに状況を聞いてきた。俺は少し迷ったが、藁にもすがる気持ちで経緯をさっと打った。すると返事がすぐに返ってきた。
『泥にまみれて 死んでしまへ』
藁のつもりがとんだ泥舟だった。
消えたい。ほんとに泥舟に乗って沈んでしまいたい。自分が最低なこと分かりきっていたが、こんな形で再認識しなくていいだろうよ。どうしてもっと上手くやれないんだ。
こんなとき、そうだ、向日葵ならどうしただろう。泣いて泣いて、怒って、甘えて、俺がもういいって笑うまで、いつまでもいつまでも、こっちが根負けするまで続けるんだ。
そんな簡単に泣けない。こんなときにまで格好つけたい自分を呪いたくなる。
いや違う違う-多分見習うべきは泣き落としじゃない。あいつから見習うことはそういうことじゃない。ええと、最近あいつと話してたときは-
「やーなー」
向日葵は相変わらず定期的に裸エプロンで(自称)愛妻料理を作りたがるので、俺は着るもの着せたり胃薬飲んだり忙しい。おまけに最近見た目はどんどん美味そうになるから余計性質が悪い。
「あーん」
「自分で食える」
美味い-美味いが、問題は味ではない。元々ジャンクフードとカップラーメンで肥えるどころか麻痺した舌を、更に向日葵のとんでも料理で虐めてるのだ。最近は本気で味覚崩壊を心配している。
「どうだ、美味いか!?」
「はいはい美味いよ…あのなあ、向日葵。料理は嬉しいけどな、無理して作らなくていいから。何回も言うけど」
「けど美味しいもの食べたいだろ?」
「そう思うなら作るなよ」
「味は美味しいぞ!」
「味は、って言ったなお前」
「ヤナが料理食べてくれるのは嬉しいな!」
あーあニコニコ嬉しそうで-俺も大概腑抜けだ、この笑顔のせいで強く言えず、結局また向日葵に手料理を作らせてしまう。
「また食べろよ!」
「んー」
俺が怒っても怒っても料理を作り続ける。俺が美味いよって笑ったら、また見たいと頑張って。俺が腹をこわしたとぼやいたら、次は大丈夫にすると頑張って。頑張って-
とすん、と拓けたような音がした。
俺は菊川さんに対して、何か頑張っただろうか。
何か見えた気がしたと思ったら、それは俺の脳が拓けた音でも何でもなかった。何か切り刻むような音がする。俺はちょっと迷ったがふすまを開け放つと、思わず叫びそうになった。菊川さんが自分の髪を、かなり雑に、普通のハサミで切っていた。
「何やってんですか菊川さん!」
「髪を切ってるのよ」
「俺なんかの為に切らないで下さい!」
「自惚れないで、貴方のせいじゃないわよ」
「じゃあ、何で」
「前髪が伸びすぎて、何も見えないの。もう何も見たくなかったのに、貴方の顔ばかり見えてしまうの。だから少しは視界を広げようと思ったけど…駄目ね。どんなに視界が広くなっても、やっぱり、貴方しか目に入らない」
す、とハサミの刃先が俺の両目に迫る。不思議と恐怖はなかった。
「私しか見えないようにしてやろうかしら」
「そんなこと貴女はしませんよ」
「どうして分かるの」
「分かりませんよ。けど俺はそうだって信じたいから」
殴られても、最低だと罵られても、最悪目ん玉えぐり取られても、俺はこの人のこと綺麗だと思うしどっかで嫌いになんてなれない。むしろ好意的ですらある。その好意に敬意を払うことが最低だというのなら、俺の目玉くらいいくらでも-
いや嘘ですごめんなさい目玉惜しいです!
「ヤナ、君」
「は、はい」
「熱い」
待て。待て待て待て待て待て。何なんだこの体制は-おもいきり抱きつかれてしまってるじゃないか。おまけに前のめりに。
「き、菊川さん」
「熱い」
まずいこのパターンはまずい。AVで何回見たんだ。この展開は非常にまずい。俺が情けなくもどうにか体制を戻そうとしているとあることに気づいた。
「菊川さん-」
意外と胸ある、じゃなくて。
「あんた熱何度あるんすか!?」
「分かんない…」
「すいません、誰か!!」
「すいませんねえ、この子、病院とか行かないって言うから」
「はは」
「まあぶっちゃけ、安静にして、ビタミンC取ってれば、病院に行かなくても風邪なんて治っちゃうけどねえ」
ほほほ、と楽しそうに笑う老婦人は、愛しそうに、熱にうなされ倒れ込んでいる菊川さんの額を撫でた。
「私ね…おじいさんが呆けたふりしてるの気づいてるんですよ」
「…えっ」
「息子夫婦の結婚が急過ぎてね…対して話しも聞かずに反対してしまった。おかげで息子夫婦とは絶縁状態、孫の写真なんて最後にいつ見たか…だからおじいさんがこの子を連れて帰ってきたとき、本当にびっくりしたの。うちの息子の血を引いてこんなに綺麗な子が産まれるわけないし、第一、孫は男の子だったもの」
流れるように、美しく、お茶が注がれる。思わず神妙に飲んでしまうほど、美味かった。
「でも、青いくらい真っ白い肌で、真っ白い髪で…表情はよく分からないけれど、それでも寂しそうなのはすぐに分かったから、呆けたふりしたおじいさんに付き合って、この子を迎えたんですよ」
そこまで話して、あら、と婆さんは笑った。
「ごめんなさいね、年寄りの話は長くて」
「いいえ」
「貴方、ヤナ君でしょ」
「―?はい」
「バイト先でよくしてくれてるって…いっつもこの子が嬉しそうに話すんですよ」
「そ、そうっすか」
らしくもなく照れてしまい、ごまかすように茶を飲むと熱さに驚く1人コントをやらかし、婆さんが愉快そうに笑った。
「最初はどうなるかと思ったけど良かったわ楽しそうで…あなたの名前呼びながら包丁持って部屋をうろうろしてるときはちょっと心配したけど」
「ちょっと!!?」
その日はいいというのにお土産を大量にもらい、俺は眠ったままの菊川さんに挨拶も出来ず帰った。
「た、ただいま」
さすがに向日葵が妬いて叫ぶだろうと思っていたが、向日葵は一通りお土産に騒いだ後、虫みたいにずっと俺にくっついていた。ほんとにこいつは、残酷なくらい、俺が何かあったときには敏感だ。
翌日。
菊川さんがいないバイト先へと急ぐ。まだ少し行きづらいが、贅沢を言っている場合ではない。よし、と我ながらよく分からない気合いを入れて扉を開くと息を飲んだ。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
白いエプロンがよく映える美しいその人は、ふわりと短くなった髪を翻しながら、俺の前で笑っていてくれていた。
「菊川さんバイトは…」
「辞めるの止めにしちゃった」
「そ、そうっすか」
ほっとした、ほっとしたが、また、また俺は力を入れないといけない番だ。
「菊川さん、昨日のことなんですけど-」
「ああ、昨日お見舞いに来てくれたんですって?」
ん?
「ごめんなさい、私熱にうなされてて、ほとんど覚えてないのよ」
「ほとんど…」
「ここ数日間の記憶が全く」
「全く?」
「何も」
ずん、と、崩れ落ちた。膝から。全身に乗っかっていたもの全てが一気に落ちて、逆に疲労が溜まった。床の下に埋もれることが出来るのではないかと思うくらいに沈む俺の頭上から、優しい声がした。
「どうかしたの?進展あった?」
「いえ、進展というか」
「キスくらいした?」
「してません!」
「…したら、良かったのに」
驚いて顔を上げたその人は、真っ白い顔を少し赤らめていた。
「き、菊川さん?本当に覚えてないんすか?」
「しつこいなあ」
「いや、あのっ」
「ヤナ君。私、諦めないからね。付き合ったら、君を刺し放題」
「いやそれは俺が知ってる恋人同士とは違います!」
「ふふ」
ああ。今日も綺麗だ。頼むからそんな風に笑わないでほしい。
「覚悟してね」
「はい、覚悟します」
この人にも、向日葵にも、どの花にも、俺は絶対敵わないのだ。今に始まったことじゃないな、と自分で思って自分で笑うしかなかった。