泣く花としくじった俺と喜ぶ花
情とは不思議なもんだとつくづく思う。初対面で気に入らなかったり、何か嫌な目にあわされたり、ただ単に嫌いになったりしても、長い間一緒にいることで、相手のいいところが見えてきたりする。もしそれが見つからなかったとしても、一緒にいることが当たり前になってくると、もう怒ることも腹が立つことも忘れ、蓋をして、うわべだけでも付き合ってやっていると、いつしか本当に、ぼろっと、仲良くなったりする。
要は何が言いたいかと言えば、苛立ちも、腹が立つのも、時間が解決してくれる場合があるということだ。どんな理不尽な目に合っても、何度も一緒にいれば-
トゥルルル…トゥルルル…
『-あ、もしもし?馬鹿ヤナぁ?荷物重いから迎えに来て。疲れて足痛いし、腕も引きちぎれそうだから、十分も待てないわよ。五分も無理かも。待たせたら砕くわよ』
-ガチャン!ツー…ツー…
神様、情って、どこで売ってますか。俺はいつかこいつを気絶させて埋めるかもしれません。
「ヤナ、どうした?」
「向日葵すまん、俺帰ってきたら犯罪者になってるかも」
「だっ、大丈夫だぞヤナ!例えヤナが犯罪者になっても、私は黄色い染みの布ぶらさげて何年でも待ってるからな!」
「うん、あれ染みじゃねぇからな」
深夜。電車もない。徒歩。つうか走り。そもそも車もねぇよ。
「遅い!」
「こんな汗だくで走ってきてやった俺にそんな言葉しかねぇのかお前は!」
「駄犬のくせに私に逆らうんじゃないわよ!はい、さっさと持つ!」
「金あるんだったらタクシー使えよ!」
「…灰。」
「…お前、ろくな死に方しねぇぞ」
「そうね、私は地獄の女王になるわ」
くそ、足元見やがって。なんだかんだで荷物運んでやる俺が情けなくて涙が出る。荷物重すぎて泣く元気もねぇけど。
「はい、きりきり運ぶ!」
「だぁ、押すんじゃねぇよ!」
-ん?今、何か光ったような…カメラ?おいまさか盗撮か?こんな街のど真ん中で?
狙いは…まぁ、俺のわけがないか。
「―?何よ」
黙ってれば可愛いもんな、こいつも。黙れればの話だが。
「ついでだから家までお運びしましょうかお嬢様」
「-!何よ、急に気持ち悪い!車待たせてる大通りまででいいって言ってんでしょうがデカ物!!」
「だから蹴るなよ!つうかそれ今聞いたよ!!」
大通りまで数分。これだけの為、これだけの為に腰を痛めて、走ってきたかと思うともう泣けもしねえ。
「じゃ、じゃあね。また連絡してあげる」
「はいはい、ありがとうございます」
今日も解放された-ったく毎日買い物だ何だ、金持ちのお嬢様はいいなぁ、暇で。つうか寝る前に走りすぎたから、小腹まで減ってきたよ。冷蔵庫の中、確か、わさびとマヨネーズしかなかったな…
「-お、ヤナか?何やってんだ、こんなところで」
「…俺、眼科行った方がいいですかね。すげえ美人の美貴さんが見える」
「そうか、ついでに緊急病棟も予約しとけ。私が再起不能までぶん殴るから」
すっかり忘れがちだが、美貴さんはナンバー1だった。いつもすっぴんで寝起きで機嫌の悪い彼女ばかり見てたから、何か、何だ、目のやり場に困る。
「すいません、パンご馳走様でした」
「いーよ。店に来ればもっといいもんご馳走してやるって言ってるのに」
「いやいや、ありがたいっすけど、食った気しそうにないし」
フルーツ一皿何千円の世界だもんな-食ったことも見たこともないから、本当かどうかも、味も値段も知らんが。
「じゃあ、俺、帰ります。仕事頑張って」
「ヤナ」
夜風と、夜空で、化粧顔が一瞬曇って。トレードマークだったはずの煙草までなくなっているから。何だか、泣きそうな、女の子に見えた。
「やっぱりああいう店で働いてるのって、嫌かな」
誰が、何を、なんて、野暮なこと、冗談でも聞けそうになかった。真剣に、と考えると、一番に向日葵の顔が出て来て、そしてその向日葵が酒をひっくり返して大泣きしながら俺の名前を呼んでいるのが目の前に広がるようで、俺は、なぜか笑いそうになった。
「もし始めようとしてるんなら、多分止めます。けど、もしもう働いていて、ちゃんと誇りをもってやってるんなら、止めません」
「そうか」
「やっぱ、ちょっと嫌っすけど」
「…そっか。何か変わったなぁ、お前」
「そっすか?」
そう言ってやっとナンバー1の顔で笑った美貴さんのポケットから揺れる携帯電話のストラップは、どっかの誰かさんが大好きなブランドだった。さすがに目を惹きつけられると、思い切りヒールで蹴られた。
パン代は高くついた。鼻蹴るか普通、もげるかと思った。
俺が鼻をこすりながら部屋に帰ろうとすると、目まで蹴られたかどうか思い出そうとしてしまった。部屋の前にいるのは、かすみ様だった。まだ命令し足りないのか、いやみったらしく吐いたため息を吸い込んで咳き込んでしまった。何で、何だって、こんなに、泣いてるんだ。
「ど…どうしたんだよ…」
落ち着け俺、ざわつくな。優しい声なんか出さんでいい。俺はこいつに優しくなんてしたくない。これはこいつが泣いてる上に俺の部屋の前にいるからであって-
「パパに…あんた呼び出してるの…ばれちゃった…」
「…は?」
「使用人でもない男を呼び出し続けて何やってるんだって…怒られちゃった…もう、あんたをパシリに…出来ない…」
そう言って、かすみはそれこそ赤子のように泣き出した。俺が慌ててあるわけもないハンカチなんて探していると、その腕にしがみつかれた。
「もう、馬鹿ヤナに会えない」
安物のシャツとはいえ、涙と、ファンデーションまみれだ。この野郎。
「要はパシリにするのを怒られたんだろ」
「…?うん」
「なら、これからは普通に呼べば」
で、何を 何を言ってるんだ俺は。
「………な、何の用事で」
「か…買い物?」
「買い物!?あんたと!!?」
「思いつきで言っただけだよ!あんたの趣味なんて買い物しか知らないだよ俺は!」
「…っ、あ、甘いものも…好き…だし…映画だって見るわよ…」
「…ま、まあ、そうだな…」
「うん…」
て。
何この空気。何この空気!!
おかしいだろ落ち着け俺しっかりしろ俺!何を優しい譲歩をしてやってるんだ、こいつは傍若無人のひん曲がりお嬢様だぞ!騙されるな!
「じゃ、じゃあ!」
「お、おい帰るのか?」
「帰る…帰るわよ!大丈夫!車、すぐそこだし…今、あんたに顔見られたら、死ぬ!」
誰が お前が 俺じゃなくて?
もう俺でいいよ!俺を殺してくれよ!!
もう目やら腰やら何やらどこがどこまでおかしくなったか分からん。とうとう耳でやられたか。どうして部屋の中なのに、こんなに不快な音がするんだ。向日葵の体の周りに何だか妙な気が見える気がするんだが、気のせいだ。俺は何も見ていない。
「ヤナ…な、何だ今の…」
こいつまた勝手に覗いて-いや、もうそんなことはどうでもいい。そうだ、今回ばかりは悔しいが、俺に全面的に非がある。せっかくかすみとさようならする機会をホールインワンで彼方に飛ばしたのだ。
「本命がかすみか!?実はMなのかヤナ!命令されて安心されてたのか!!」
「お前はどこでそういう知識吸収してくるんだよ!悪いけどほっとけ!俺はもう寝る!今日の俺はおかしい!」
「ヤナの馬鹿!もう知らないぞ!」
「はいはい結構結構」
「向日葵ちゃんと付き合うのか!?」
「はいはいはい」
言い訳をするならば、俺は、会話の流れ的に、向日葵と付き合わないのか、と聞かれたと思ったんだ。それだけだ。流しただけだ。
「…ヤナ…」
世界、滅びろ。今。
「あはははははは!ひゃは!うわはははははは!!」
「笑いすぎだ、お前は」
俺も笑う側に回りたい。おばちゃんみたいに机を叩く真緖の向かいで、俺はまたパンを食べる。真緖も似たようなの食っていたが、前みたいに、無理な節約はしてないようで、地味に安心した。いや、人の心配してる場合じゃないんだが。動揺してるらしい。講義も全然身に入らんかった。元からろくに聞いてないが。
「そ、それで、どうなったんだ!?」
「美貴さんからもらった勝負下着で迫ってくるから、押し入れに突っ込んだ」
「ええ俺まだちゃんと見てないのに、ずりい!」
「下着はさすがにお下がりじゃないと思うぞ」
そうかこいつまだちゃんと-
だから。よく分からんことでほっとしてる場合じゃなくて。何焦りだよ。こいつはとっくの昔に、俺より勝ち組だよ。
「責任取って付き合っちゃえば?向日葵ちゃんが本命なんだろ?」
「お前にはそう見える?」
「…違うのか?」
「………分からん」
逃げてる、とか、情けない、とか、何度でも、なんとでも、馬鹿にしてくれて構わない。いくらでも蔑まれても耐えるから、誰でもいから教えてくれ。俺は一体、一体。
「まあ…女友達もまともにいないお前がいきなりもてまくったら、勘違いもどっきどきも日常だろうな」
「見透かすな、腹立つ」
「まあ、聞けって。俺も偉そうなこと言ってるけど、そんなもんだもん。今は美貴さんが好き過ぎて死にそうだけど、何でって言われても上手く説明出来ないし、初恋なわけでもないしなぁ」
「…そうか」
経験豊富なこいつでさえこれだ、いやきっと、ほとんど、みんなそうなんだろう。きっと。みんながみんな簡単に答えを出せていたら、世の中に、こんなに恋に困る歌が溢れていない。
「と…ところでさ。全然話、変わるけど、もうお前、向日葵ちゃんの全部見た?人間と一緒なのかなぁ」
「おばちゃん焼き肉定食大盛り。こいつの金で」
部屋に、帰りたくない。俺の部屋なのに。一番落ち着く場所のはずなのに。しかし俺には時間を潰す金もなければ、いつまでも花を留守番させておく非道さも錬成できない。
逃げていても仕方がない。ドアノブって、こんなに、重かったっけ。
「た、ただいまー」
「お帰りダーリン!」
「誰がだ!何か懐かしいなこのノリ!だからパンツ履けよお前!!」
しまったちゃんと見て真緖に報告してやればよかった-
だから、そうじゃなくて。
「服着ろ、服を」
「うー」
裸エプロンの上からパーカーを無理矢理羽織らせて、それでも、にこにこにこにこ、嬉しそうに笑うな、頼むから。決心が揺らぐから。
「あのなぁ、向日葵。昨日何万回と言ったけどな、あれは咄嗟に、言葉の綾みたいなもんでな、お前と付き合うことを承諾したわけじゃないからな」
「でもヤナ、はいって返事したぞ!ちゃんと聞いたぞ!取り消しは効かないからな!」
「そうは言うけどなお前、付き合うって何するんだ」
「え?」
「もう一緒に住んでるし、出かけてるし、飯も一緒に食ってるし、布団に一緒に入ることだってあるだろ。改めて恋人になって何すんだ」
じと、とかいていた手汗を気づかれないように必死だった。これは俺にとって博打だった。向日葵の口から、肉体関係なんて、馬鹿な単語が出たらそれで終わりだった賭け。
思えばこいつは、いつも強請るのは抱っことかキスとかそういう類だ。それ以上は求めてない。それでいい。それで、俺は助かる。
「その通りだけど」
助かる。
「私、美貴さんと真緖みたいになりたいんだ」
誰に 誰から どんな風に。
俺は一体何から逃げてるんだ。
「…は?」
「いや、だから…なんて言うか…上手く言えないけどな。美貴さん真緖が好きだろ。真緖は美貴さん好きだろ。好きで一緒にいるだろ」
「ああ」
「私、ああなりたいんだ。ヤナとああなりたいんだ」
何だ。何か、何かがおかしい。何だろう、この引っかかったような感じは。
「大好き、って、空気を出したいんだ」
「…つまり、お前さ」
「ん?」
「美貴さんの好きと、自分の好き、違うって自覚してるのか」
びっくりした。何からびっくりしていいか分からんが、とりあえず、こいつに恋しく思われてて、それをもう当然のように自惚れている自分に一番びっくりした。
「ヤナ、怒るぞ。私はヤナが大好きだ、何だ今更」
「…ああ、そうかい」
あと、死ぬほどほっとした、自分が、更に衝撃だった。もう衝撃的なことが起こりすぎてて心臓が保つ気がしねえ。
「どうしても付き合うのは駄目か…」
「だから、今までとどう違うんだよ。お前と付き合う理由がないだろ」
「ぶええええええ!?あるぞ!あるある!いっぱいあるぞ!お得がいっぱい花丸特売!」
「お前は広告か」
「どうしても駄目か!?私諦めないぞ!いいって言うまで毎日お願いするぞ!おはようからおやすみまで!」
なんちゅう脅しだ。こんな毎日毎日、こんな顔して迫られて、泣かれて、願われて?
飽きるだろう、そのうち。
「…いーよ。」
「…っ、やったあああああああ!!」
「だぁ、離れろ!」
飽きるだろ、そのうち。こいつも。何が変わるわけでもないんだから。
そうだ何も変わらない。だから、俺の顔が赤いのも気のせいだ。