婚約者に「地味すぎる」と言われた【地図師】ですが、私の地図がないと誰も帰れなくなるらしいです
第一章 地図師の仕事
迷宮には呼吸がある。
壁が動く。通路が伸びる。一週間前に描いた地図が、翌週には半分以上ズレている。それが「フォルス迷宮」というものだ。
イレーネは迷宮の入口に座り込み、羽ペンを走らせながら目を細めた。今日、東の4層で新しい分岐が生まれたはずだ。入口付近の石の肌理が、そう告げている。
(また変わった。でも——方向はわかる)
迷宮は変わる。でもイレーネには「傾向」が見えた。石の肌理。空気の流れ。苔の生え方。十年間毎週この迷宮に通い続けた体が、感覚として理解している。入口の空気を読むだけで、深層の変化まで予測できた。地図師の仕事は、変化を記録することではなく、変化の「癖」を読むことだ。
「イレーネ、今日の報告書です」
同僚の鑑定士アレンが羊皮紙を差し出す。イレーネは受け取りながら地図の線を引き続ける。手を止めない。止めると「今」がズレるから。
「3層で冒険者が一組迷ったそうです。イレーネさんの補助地図で脱出できたと」
「そう」
「またも命拾いですね。王宮地図師って、外から見ると本当に地味な仕事ですけど」
アレンは悪気なく言った。イレーネも悪気なく答えた。
「地味でいいんです。地図は正確であればいいので」
子供の頃から迷宮の入口からその先を想像するのが好きだった。
いつの間にか、迷宮の呼吸を読めるようになっていたイレーネにとっては、正確であることは当然のことだった。
(好きなのだろうか、この仕事が)
ふと、そう思った。考えたことがなかった。地図を描くのが当然で、冒険者が帰ってくるのが当然だった。「好き」か「嫌い」かを考える前に、もう十年が過ぎていた。
答えは出なかった。出ないまま、今日もペンを走らせた。
◇
その晩。婚約者のヴェルナーが屋敷にやってきた。
王宮騎士団の副団長。金髪で長身で、女性に人気があった。イレーネは三年間の婚約期間、それなりに彼を好ましく思っていた。
「イレーネ、話がある」
ヴェルナーは開口一番、そう言った。
「婚約を解消したい」
イレーネは茶碗を置いた。
「理由を聞いてもいいですか」
「お前は……地味すぎる」
その一言だった。舞踏会に来ない。社交的でない。毎日迷宮の入口に座り込んで地図を描いている。騎士団副団長の婚約者としては、華がなさすぎる——。
イレーネはしばらく沈黙した。怒りが来ると思っていたが、来なかった。来たのは、妙な納得感だった。
(そうか。私はここではずっと「地味な地図師」だったのか)
王宮の社交界では、ドレスと令嬢と騎士の恋がすべてだった。迷宮の奥深くで何時間もかけて壁の肌理を観察する女の価値は、そこにはなかった。それは本当のことで、ヴェルナーが悪いわけでも、イレーネが間違っているわけでもなかった。ただ、噛み合っていなかっただけの話だ。
「わかりました」
「え?」
「三年間ありがとうございました」
イレーネは立ち上がり、ヴェルナーに深々と頭を下げた。そして翌朝、静かに荷物をまとめ、王宮を去った。
第二章 帰れない
問題が起きたのは、イレーネが去った翌週だった。
冒険者パーティ「銀の狼」が、フォルス迷宮の5層で消息を絶った。
救助に向かった騎士団が持ち込んだのは、三週間前の古い地図だった。現在の迷宮の構造とは、三割以上ズレていた。騎士たちは自力で地図を修正しようとしたが、迷宮の変化に追いつけない。結局、銀の狼の発見に四日かかった。全員生存だったが、重傷者が二名。
それから、立て続けだった。
翌週には別のパーティが4層で道を見失い、水と食料が尽きかけた状態で発見された。その次の週には、素材採集に入った商人が行方不明になった。三日後に見つかったときには、すでに息がなかった。
「……また、か」
騎士団長ガルフは報告書を机に置いた。報告書が増えていた。以前はこんなことはなかった。迷宮に入って帰ってこないという話が、月に何件も上がるようになっていた。
「王宮地図師の代わりを呼べ。他の地図師を集めろ」
他の地図師を呼んだ。三人来た。みな腕利きだった。だが、フォルス迷宮は特殊だった。石の呼吸を読むには、年単位の観察が必要だった。三人が描いた地図は、一週間で使い物にならなくなった。
「……なぜだ。イレーネの地図が特別だったとでも言うのか」
ヴェルナーが初めて声を荒げた。彼は救助隊の一員だった。迷宮の4層で、古い地図を手に立ち尽くしたときの恐怖をまだ覚えていた。通路のはずの場所が壁になっていた。引き返したら別の壁があった。あの地図さえあれば、と何度も思った。
「……彼女は、どんな地図を描いていたんだ」
アレンが静かに答えた。「彼女は迷宮の入口に座り込んで、壁や空気の流れを読んでいました。それだけで、行ったことのない深層まで正確に描けたんです。一枚描くのに三日かかることもありましたが」
沈黙が落ちた。
「イレーネはどこだ?」
「辺境の村で、子供たちに地図を教えているそうです」
ガルフは額に手を当てた。
「迎えに行け」
◇
王宮を出たイレーネは、辺境の村で周辺の地図を描き、子供たちに地図の読み方を教え始めた。
村の子供たちは迷宮に入ることはない。だが、村の周囲には山道があり、獣道があり、季節ごとに川の流れが変わる場所があった。地図があれば、迷わない。
「ねえ、イレーネさん」
リタという名の少女が、イレーネの手元を覗き込みながら言った。
「なんでそんなに丁寧に描くの? もっと適当でもわかるのに」
イレーネは手を止めた。なんで。考えたことがなかった。十年間、一度も。
「……わからない」
正直に答えた。好きだからか。義務だからか。どちらでもない気がした。ただ「当然」だったのだ。線を引くことが。正確であることが。それ以外の描き方を知らなかった。
リタは不思議そうな顔をして、それ以上は聞かなかった。
◇
十日後のことだった。
リタが裏山に薬草を摘みに行ったまま、日暮れになっても戻らなかった。村の大人たちが慌て始めた頃、リタは一人で帰ってきた。泥だらけだったが、怪我はなかった。
「道がわからなくなったの。でも、イレーネさんに教えてもらったようにやった。苔の生え方を見て、風の向きを見て……そしたら帰れた」
リタはそう言って笑った。イレーネは何も言えなかった。
帰れた。
たったそれだけの言葉が、十年分の答えだった。なぜ正確に描くのか。なぜ手を抜かないのか。——誰かが、帰れるようにだ。
ずっと「当然」だと思っていた。でも違った。当然ではなかった。自分がいなければ帰れない人がいた。自分の線の正確さが、誰かの帰り道だった。
十年間、一度も考えなかったことを、子供に教わった。
◇
使者が来たのは、その三日後だった。
銀のボタンのコートに、王家の紋章。王宮からの正使だった。イレーネは地面に羊皮紙を広げたまま顔を上げた。
「お戻りいただけますか」
「——なぜ私が」
「迷宮で人が死んでいます。あなたが去ってから、帰れなくなった者が後を絶ちません」
イレーネは手を止めた。帰れなくなった。あの迷宮で。
リタの顔が浮かんだ。「帰れた」と笑った顔。——あの迷宮にも、帰りたい人がいる。
しばらく、黙っていた。使者は待った。村の子供たちがイレーネの周りで地図を覗き込んでいた。
「条件があります」
第三章 地図師の条件
王宮に戻ったイレーネを待っていたのは、騎士団長ガルフと、それからヴェルナーだった。
ヴェルナーの隣には、社交界の花と呼ばれる令嬢が立っていた。新しい婚約者らしかった。イレーネはちらりと見て、何も感じないことを確認してから、ガルフに向き直った。
「条件を申し上げます」
一つ。地図師の地位を、王宮の公式職として正式登録すること。二つ。地図師の給与を騎士と同格にすること。三つ。「地図師は地味な仕事である」という認識を公式に撤回すること。
議場がざわめいた。
「撤回……?」
「冒険者の命を守る仕事が、地味であるはずがありません」
イレーネは静かに言った。怒っていなかった。怒りではなく、確信だった。
「地図師がいなければ、迷宮に入った人間は帰れない。この三週間で何人が迷い、何人が帰れなかったか——それは皆さまのほうがよくご存じのはずです。私はそのうえで、戻ってきました。条件を飲んでいただければ」
「……地図師一人の条件にしては、大きく出たな」
ガルフが低く言った。
「はい」
「その自信はどこから来る」
「十年の経験です」
短い沈黙。ガルフはため息をついた。
「……全条件を受け入れる」
ガルフが言い切った直後、ヴェルナーが一歩前に出た。
「イレーネ」
「はい」
「……俺は、間違っていたか」
予想外の問いだった。イレーネは少し考えた。正直に答えた方がいいと思った。
「間違ってはいなかったと思います。私は王宮の社交では役に立てない地味な人間です。それは本当のことでした」
「それでも——」
「ヴェルナー様」
イレーネは静かに遮った。
「私の価値は、社交の場にはありませんでした。でも迷宮にはあった。ただ、それだけのことです。誰も間違っていない。お幸せに」
ヴェルナーは何も言えなかった。隣の令嬢が不思議そうな顔でイレーネを見ていた。
イレーネはガルフに向き直り、礼をして、作業室へ向かった。
廊下を歩きながら、気づいた。胸がすっとしていた。涙もなかった。悔しさもなかった。あるのはただ——早く地図を描きたいという、いつもの感覚だった。
◇
条件が認められた翌日、イレーネは作業室に戻った。
新しい羽ペンを取り出す。羊皮紙を広げる。インク壺のフタを外す。馴染んだ匂いがした。石の粉と蝋の匂い。迷宮の空気の匂い。
隣の部屋では、アレンが書類を整理していた。
「戻ってきたんですね」
「戻ってきました」
「……変わりましたね、イレーネさん。なんというか」
「変わりましたか」
「ちょっとだけ大きくなった気がします。地図師として」
イレーネは少し笑った。ペンを走らせながら、答えた。
「地図は変わっても、読み方は変わらないんです。変化の癖を見れば、どこへ向かっているかわかる」
第四章 正確な線
三ヶ月後。迷宮で人が帰れなくなる話は、ぴたりと止んだ。
イレーネは毎週迷宮の入口に通い、呼吸を読み、地図を更新し、補助地図を配布した。冒険者たちがイレーネの地図を「命綱」と呼ぶようになったのは、それからしばらく後のことだった。
「地図師さんの地図があれば、どこへでも行ける気がする」
若い冒険者がそう言った。イレーネは首を振った。
「私の地図は、帰るための地図です。どこへでも行ける地図じゃない」
「でも、帰れるなら行けますよね」
イレーネは少し考えて、頷いた。確かにそうかもしれない。
◇
半年が過ぎた頃、辺境の村から手紙が来た。
リタからだった。あの泥だらけの少女は、村の周囲の地形の変化を記録して農家に配り始めたらしい。川の流れの癖を読んで田畑の配置を変えた農家が、今年は水害を免れた——と。
「苔の向きと風の読み方、まだ覚えてます」と、丁寧な字で書いてあった。
イレーネは手紙を読みながら、羽ペンを止めた。
あの子に教わったことを、あの子がまた誰かに渡している。
帰らせるだけじゃないのかもしれない。誰かの暮らしを守ることも、地図師の仕事の続きだった。
子供たちに教えたことは、消えていなかった。
◇
王宮地図師室に、新しい看板が掲げられた。
「王立地図師局 イレーネ・ヴィルト 局長」
羽ペンを取る。羊皮紙を広げる。
正確な線を、引く。
地図は目立たなくていい。それでも——正確であることが、誰かを帰らせる。
フォルス迷宮は今日も呼吸している。その先に続く線を、イレーネはひとつずつ書き足していった。




