第6話 ハト先生
陽射しの麗らかな朝、桜が咲いて散り始める4月7日、俺は職員室にいた。
「まずは進級おめでとう」
「ありがとうございます」
椅子の背もたれに体重を預けている目の隈が酷い長身の男が言う。灰を被ったようなヨレヨレのグレーコートが特徴的なこの男、名前を音切鳩という。およそ教職員とは思えない程適当な男だが一方で生徒のことはよく見ており、生徒からは下の名前に先生をくっつけた「ハト先生」のニックネームで親しまれている。舐められているとも言う。
「去年に引き続きお前は俺のクラスだ。まぁ、いい感じによろしくって感じだわ」
「相変わらず適当ですねハト先生。公僕がそんなんでいいんですか?」
「いいから10年以上ここで先生やってるんだよ」
ハト先生は堂々と欠伸をする。整理されているとはお世辞にも言えないデスクの上には開封済みとそうでない缶コーヒーが幾つも乱雑に置かれている。それでも置いた物の位置は把握しているのか、ハト先生はデスクを目を向けずに未開封の缶コーヒーを選んで手に取って見せた。
「俺からすればお前らの方が子供のくせに堅苦し過ぎると思うが」
「堅苦しい?」
「テクスチャーにこだわり過ぎてるってことだよ」
ハト先生は慣れた手付きで缶コーヒーを片手で開ける。俺からすれば苦いだけで何の魅力も感じないその黒い液体を躊躇いなく一気に飲み干し、するとハト先生は「にがい」と呟いて顔を少し渋い顔をする。苦いのを我慢して飲むコーヒーは果たして美味しいのだろうか? そう考えていると、俺の視線に気づいたハト先生がニヤリと笑みを浮かべながら口を開いた。
「お前も大人になれば分かるさ」
なんとなく、子供扱いされている気がする。お前はまだコーヒーも飲めないお子様だと、そう言われた気がした。
「1本ください」
「お? やってみるか? いいぞ」
腹が立って俺は缶コーヒーを一気に飲み干そうとした。舌で触れた瞬間痺れにも似た苦味が毒のように広がった。苦い、苦い。口の中に薬を塗られた感じがする。鼻先を抜ける香りすら苦い。あまりの苦さに顔の形が勝手に変わる。何も言わずに半分以上残った缶コーヒーを渡すと、ハト先生は楽しそうに笑っていた。
「流石のお前でも水永のようにはいかないか。先生安心したよ」
「水永?」
知っている名前が出てきたことに首を傾げる。缶コーヒーをデスクに置いたハト先生は座りながら前傾姿勢になった。
「水永とはその後どうなんだ? 上手くいってるか?」
「……なんのことですか?」
「なにって、付き合ってんだろ?」
────なんでこの人知ってるんだ?
俺も水永も付き合ってることは誰にも言わないことを決めてある。そもそも俺たちが形式上の関係を結んだのは春休み直前。会話自体はトークアプリで毎日していたが、春休みの間に水永と直接会ったのは数回程度。そして今日は始業式だ。どこで情報が漏れたというのか。
「どこで知ったんですか」
「先月の頭にふたりでファミレス行ってただろ? 実は先生、お前らがファミレス入るところを偶然見かけたんだよ。まぁ、マジで付き合ってるとは思わなかったけど」
うわ最悪、滅茶苦茶やらかした。
確かにファミレスに行ったのは俺たちがまだ付き合う前の話だ。部活もやっていない男女が放課後にふたりきりで歩いている姿を見ればそう思われても不思議じゃないが、まだ言い訳が出来たのに。自分で墓穴掘っちゃった。
「幾ら払えばいいですか」
「教師が生徒のプライベートをペチャクチャ話すわけねぇだろ? だから仕舞えよ、そのバリバリうるさいガキ財布」
「マジックテープで悪かったですね。あとガキ財布って言うな」
かなり迷ったが、ハト先生を信用して俺は財布をポケットに戻した。
「とりあえずおめでとう、って言っていいのか? まぁいいか。ちゃんと彼女見てやれよ」
「結局は傷の舐め合いの延長ですよ。人に祝われるような純粋な関係じゃない」
「台上交差点トラック暴走事故のことか? 確かにお前らはそこで繋がってるが、それに関係なく恋仲になった事実は目出度いことだと俺は思うが?」
「それは……」
水永が俺に恋愛感情を持っているが、俺は違う。動物園では水永の勢いと雰囲気にあてられたが、それでも異性として好きかと言われれば頷きづらい。あれは水永だからというより、異性に真正面から至近距離で好意をぶつけられたから意識せざるを得なかっただけで。
「どのみちお前は彼氏になることを選んだ。そうだろ?」
「……まぁ、そうですけど」
「だったら彼女のことはしっかり見て守ってやれ」
そう言われると返す言葉が見つからない。俺は頷くしかなかった。
「特にアイツは危なっかしい。水永は三葉の奴────お前の兄貴と同じで自分が『大人』だと勘違いしてるタイプだ」
そう言ってハト先生は俺の飲み残しのコーヒーを一気に飲み干した。それは自らの感情を苦味で誤魔化そうとしているようにも見えた。
兄貴が死んだ去年、兄貴のクラス担任を務めていたのはハト先生だった。兄貴の葬儀にも顔を出していたし、葬儀に出席した大人たちの中で唯一悲しそうな表情をしていなかったから俺もよく覚えている。
「あの馬鹿は初めて会ったときから変な奴だったよ。存在意義やら生きる意味やら、ガキの癖に余計なコトばっか考えてなぁ……挙句の果てに自分は死ぬために生まれてきたなんて言い出してひとりで勝手に絶望するような変人だった」
「兄貴が、そんなことを考えてたんですか?」
そんな兄貴、俺は知らない。だって家では、いつも明るくて元気だった。
「あぁそうさ。お前の兄貴はそんなヤツだった。そうだ、死んで世界から忘れられるのが怖い、とも言ってたな」
茫然自失の俺を無視して、ハト先生言葉を続ける。
「ヒーローに憧れてたのもそういうことだろうな。大方、助けた相手の記憶に自分の存在を刻みたかったってところじゃないか?」
「……分かりません。家では、ずっと明るく振舞ってましたから」
「じゃあ家族に心配をかけるのが嫌だったんだろ。アイツはそういう奴だ」
────ヒーローは絶対に弱音を吐かないんだ。どんなに苦しくても、それがなんだって笑い飛ばして人を助けることが出来るんだよ。
それはいつだったか。夕方のリビングでソファに二人並んで座り、特撮映画を見ながらゆっくりと俺の頭を撫でる手が、びっくりするほど震えていた。
それでも兄貴は、俺はヒーローになりたい、と笑っていた。自分がヒーローになり損なうことも知らずに。
「なぁ普、生まれてきたことに理由なんか付けるなよ」
ズバリと、ハト先生は俺を指差して言い放つ。
「お前も水永もただの『子ども』だ。間違っても兄貴みたいに、生き急ぐような真似はするな」
念を押すようにハト先生は告げる。そこにはいつも生徒に舐められているようなハト先生はいなかった。
「────先生は、"メッセンジャー"って知ってますか?」
「……お前も、そういうのに興味あるんだな」
俺が聞くと、意外だったのか、ハト先生は目を丸くした。
「この学校には死者の声を聴くことが出来る霊能力者がいるそうです。先生はこの学校長いんですよね? だったら、何か知ってるんじゃないですか?」
「なんだ、兄貴の言葉を聴きたいのか?」
ハト先生は核心を突くように聞き返した。
「……いや、聴きたくないです」
少し迷ってから、俺は首を横に振って否定した。
「なぜ?」
「嘘を吐いたことがバレるので」
ハト先生は何も言わなかった。
「逆にと言いますか、ハト先生はどうですか? "メッセンジャー"に会えたら、誰の言葉を聴きたいですか?」
「俺か? 別にだ。聴きたいとも、聴きたくないとも思わない」
興味本位で聞いてみると、疲れたような表情で、ハト先生は僅かに答える。それは火が消えたロウソクのような声だった。
「死人に口なしってやつさ。死んだ奴のことを未練がましく引きずるくらいならいっそ忘れた方がマシだし、そもそも遺言も残せないような死に方をする奴が悪い」
にべもない、と思う。しかし、俺には共感できる言葉だった。
「そうかもしれませんね」
頷くと、タイミングよくチャイムが鳴る。
「話は終わりだ。改めて、今年もよろしく頼むぞ」
ハト先生は職員室から出て行った。
偶然にも俺のクラスは水永と同じ2年2組だった。座席は名前の順で決まっているため、これについては必然的に俺の席は丁度水永の後ろだった。
「おはようございます」
「おはよう」
席に着くと水永が振り返って声を掛けてきたので、挨拶を返す。黒板を正面にして一番左の列なので窓が近い。喚起のために開かれた窓から入ってくる風が暖かかった。
「同じクラスになれて嬉しいです」
「そうだな」
「クラスメイトとして、恋人として、今年もよろしくお願いしますね」
「……よろしく」
風が吹いて、水永の黒い長髪がドレスのようにふわりと揺れた。春の始まりを実感する穏やかで暖かな風だった。水永と出会い、"メッセンジャー"や水永の弟の存在をいきなり聞かされ、そして1年後に迫る俺たちの『結末』を告げられた3月の頭の頃はまだ風が冷たかったのに、気付けば季節が変わっていく。
風の中に混ざるスズランの香水の……水永の香りは、変わらず同じままだった。
「すまん水永。ハト先生に付き合ってるのバレた」
「……何してるんですか」
風が吹く。明日も、明後日も、風は変わらず吹き続ける。1年後に吹くこの風を、俺は覚えているのだろうか?




