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第7話:茶封筒の重力と、消えた新札の匂い

「叔父様。その、日焼けして角が丸くなった茶封筒の束を、宝物のように胸に抱えて目をつぶるのはやめてください。それは研究所の地下倉庫に眠っていた、数十年分も前の『誰かの給料袋』の抜け殻です。なぜ、中身も入っていない空の封筒に鼻を押し当てて、そんなに深々と呼吸をしているんですか」


 日野原栞は、窓から差し込む午後の柔らかな光の中で、古びた茶封筒の山と戯れる叔父を、呆れたような、しかしどこか懐かしむような目で見つめた。日野原所長は、封筒の表書きに並ぶ「金、参拾萬圓也」といった墨書きの文字を、絹をなでるような手つきで愛おしそうに撫でている。


「これは単なる紙の袋ではないのだよ。かつての日本において、父という名の魔法使いが、一ヶ月の苦労を『物理的な厚み』に変えて持ち帰った、家庭という名の小宇宙のエネルギーパックなんだ。いいかい、この封筒の表面に残ったわずかな手垢や、銀行の新券特有のインクの匂いの名残……これこそが、生活がまだ『重さ』を持っていた頃の、最も純粋なメルヘンなんだよ」


「……ただの、給与振込が始まる前の時代の遺物ですよね。今は数字が画面を動くだけで、そんな茶封筒を抱えて帰るお父さんなんて、少なくとも私の周りには一人もいません。叔父様がそれをアーカイブだと言って大切に並べるせいで、さっきからハツが、その封筒の中に『美味しいものが入っているはずだ』と信じ込んで、空っぽの袋を一生懸命覗き込んでいます」


「さすがハツくんだな!彼の嗅覚は正しい。かつてこの袋の中にはね、子供たちのためのイチゴや、お母さんのための新しいエプロン、そして、家族全員の『来月への切符』が入っていたんだ。この空っぽの袋はね、夢を吐き出した後の、温かい抜け殻なんだよ。ほら、ハツくん、よく嗅いでごらん。ここには、汗とインクと、少しだけ誇らしげな『男の匂い』が染み付いているはずだ」


 足元では、ハツが鼻先で茶封筒を裏返し、中からこぼれ出るはずのない「何か」を求めて、尻尾を控えめに、しかし執拗に振っていた。ハツにとって、それは過去の記録でも、経済の歴史でもなく、かすかに残る「古い机の引き出しと、誰かの手のひらの温もりの匂い」がする、不思議な遊び道具だった。



 日野原所長は、一枚のひときわ古びた封筒を抜き取ると、それを光に透かして、中の「不在」を確認するように微笑んだ。


「いいかい、現代の給料は銀行口座というデジタルな海に静かに注ぎ込まれる。それは効率的で、一円の狂いもない。だが、その代わりに我々は、『今月はこれだけ頑張ったのだ』という物理的な実感を手放してしまったんだ。この茶封筒の厚みは、そのままその人の一ヶ月の歩みの厚みだった。重ければ家族で外食をし、薄ければ少しだけ肩をすぼめて帰る。お金が数字になる前、それは血の通った『物質』だったんだよ」


「……叔父様の言うことは、いつも極端です。ただ、この封筒の表に書かれた、不器用なほど力強い手書きの数字は、今の味気ない利用明細よりはるかに『働いた』という実感が伝わってくる気はします」


「そうだろう? 特にこの、印鑑が少しずれて押されている感じがたまらない。経理の担当者が、山のような封筒に一枚ずつ現金を詰め、印を押し、名前を書く。そこには『間違いなく渡したぞ』という意志と、『受け取ったぞ』という契約の重みがあった。今のキャッシュレスな世界では、この『手渡し』という瞬間に発生する、火花のような感謝の交換が消えてしまったんだ」


 所長は、空の封筒の中に自分の指を入れ、袋の底に残った「何か」をすくい上げるような動作をした。


「見てごらん、この封筒の底に溜まった、微かな紙の粉を。これは新札同士が擦れ合って生まれた、労働の火の粉だよ。これを瓶に集めて、夜中に少しずつ振り撒けば、研究所の床からも、かつての活気ある日本の足音が聞こえてくるかもしれない」


「叔父様、それはさすがにメルヘンが過ぎます。ただの埃です。……でも、ハツがさっきから、その粉が落ちた場所を一生懸命に舐めているのを見ると、本当に何か『美味しい記憶』でも残っているのかと思ってしまいますね」


 ハツは、日野原が指先で示した場所を、真剣な眼差しでクンクンと嗅ぎ回っていた。ハツの豊かな嗅覚は、数十年という時間を飛び越え、この茶封筒を握りしめていた名もなき会社員の、帰路につく高揚感を捉えていたのかもしれない。駅前の屋台で買った焼き鳥の残り香か、あるいは子供に買ったお土産の甘い香りか。



 夕暮れ時、研究所の窓からは、赤く染まった街並みが見えた。家路を急ぐ人々の列が、遠くに豆粒のように続いている。


「栞くん。あの歩いている人々の中で、今、自分の懐に『確かな重み』を感じている人は、どれくらいいるんだろうね。スマートフォンの中の数字をなぞるのではなく、この、ざらついた茶封筒の質感を指先に感じながら、家へ向かう道。それはどれほど心強いものだったか」


 日野原は、再び茶封筒の山を愛おしそうに整理し始めた。


「私はね、この『空っぽの封筒』を分類しているんじゃない。彼らがこの袋を空にした後に、家の中に溢れ出させたはずの『幸せの余韻』をアーカイブしているんだ。お父さんが封筒を差し出し、お母さんがそれを受け取り、子供たちがその中身で買われた夕飯を頬張る。この茶封筒は、その物語の出発点なんだよ」


「……たまには、本当に良いことをおっしゃるんですね」


 栞は、少しだけ感傷的な気分になり、自分の財布の中にある、無機質なキャッシュカードをそっと指でなぞった。そして、自分もいつか、あんな「重み」のある何かを、誰かのために持ち帰ってみたいと、柄にもなく思ってしまった。


「さあ、アーカイブ作業は終わりだ。今日の夕飯は、あのお父さんたちの気分になって、少しだけ贅沢にイチゴでも買って帰ろうじゃないか。もちろん、支払いはカードではなく、わざわざ銀行で下ろした『新札』でね。それを茶封筒に入れて運ぶのが、今日の私の、ささやかな研究課題だ」


「……付き合いきれません。でも、イチゴには賛成です。ハツ、帰る準備をするわよ」


 ハツは、最後に残った一枚の茶封筒の匂いを深く吸い込むと、「ワン!」と短く、どこか満足げに吠えた。ハツにとっても、今日の「調査」は、お腹は膨れなくても心には何かが残る、不思議な散歩のような時間だった。


 研究所の扉を閉める間際、栞は振り返って机の上を見た。

 夕陽を浴びた茶封筒の山は、まるで小さな黄金の丘のように、かつての日本が持っていた「ささやかで、しかし確かな幸せの重み」を静かに湛えていた。


 日野原生活文化研究所。そこでは今日も、デジタルな数字に置き換えられて消えてしまった「生活の感触」が、古びた紙の匂いと、一匹の犬の好奇心によって、優しく、ふんわりとしたメルヘンの灯を灯し続けているのだった。

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