第6話:短躯の殉教者たち、あるいは削り取られた時間の墓碑銘
「叔父様。先ほどからこの、錆びかけたブリキの小箱と睨み合っているのですが、私の正気は今、この短すぎる木片たちの前で霧散しかけています。あえて、あえて伺います。この、一番長いものでも二センチに満たず、最短のものに至っては、もはや芯を保護するための木材すら剥ぎ取られ、剥き出しの黒鉛が『私はまだ書ける』と無言の抗議をしているような物体群は、一体何なんですか。これは何かの呪術に使われる『身代わりの人形』の成れ果てですか、それとも、指先の筋肉を極限まで鍛え上げるための、狂気じみた修行用具としてどこかの寺院から寄贈されたものですか」
日野原栞は、銀色のピンセットで、その中でも特に凄絶な一本を摘み上げた。 それはかつて「三菱Uni」であったろうか。格調高い海老茶色の塗装は、持ち主の指の脂と汗、そして凄まじい筆圧によって磨かれ、今や得体の知れない鈍い光沢を放っている。お尻の部分には、あろうことか「歯型」まで刻まれていた。切羽詰まった思考の跡が、木肌に生々しく食い込んでいる。
日野原所長は、愛用の拡大鏡を右目に嵌め、デスク越しに身を乗り出した。彼の瞳には、その小さな木片が、大英博物館の特等席に鎮座すべき「ロゼッタ・ストーン」の欠片であるかのように映っている。
「……素晴らしい。実に、実に美しい『知の残骸』じゃないか、栞くん。これを見たまえ。この、補助軸を差し込んでいたであろう部分に残された、痛々しいまでの圧迫痕を。これは、道具がその物理的な寿命を超え、持ち主の執念によって『生かされ続けた』証なのだよ。いいかい、鉛筆というものは、削られるたびに自らの身を削り、その対価として思考を紙へと定着させる。つまり、鉛筆の短さは、その持ち主が積み上げた『思考の総量』そのものなのだ。これこそが、日野原生活文化研究所がアーカイブすべき『第902号:極限まで摩耗した知性と、円環の終わり』……いや、もっと直球に『不屈の指先が到達した、黒鉛の殉教者たち』と呼ぶべき逸品だよ」
「『黒鉛の殉教者たち』……。叔父様、あまりに言葉が重すぎて、ピンセットを持つ手が震えそうです。ハツだって、さっきからこの缶から漂う、古い木の香りとグラファイトの混じり合った独特の匂いに、ただならぬ気配を感じ取っていますよ。ほら、ハツ。これはあなたが噛んで遊ぶためのおもちゃじゃないの。誰かが一生懸命にお勉強をして、最後の一削りまで使い切った、言わば『努力のミイラ』なんだから。そんなに不審そうに鼻をヒクヒクさせないで」
ハツは、デスクの端で前足を揃え、首を斜め四十五度に傾けていた。ハツの鋭い嗅覚は、その木片から「古い学習机の引き出しの奥の匂い」「消しゴムのカス」「そして、テスト勉強をする学生が放つ微かなアドレナリンの残り香」を正確に検知していた。ハツにとって、それは食べ物ではないが、確実に「人間の強い感情」がこびりついた何かであった。ハツは一度、その缶に向けて「ワン」と短く、敬意を込めたような、あるいは当惑を隠せないような声を上げた。
栞は溜息をつき、しかしその指先は、熟練の修復士のように精密に動き始めた。彼女はデジタルノギスを取り出し、一本ずつその「生存距離」を測定していく。
「登録番号902-A。全長14.2ミリメートル。硬度HB。塗装剥落、深刻。芯の突出、限界点。……叔父様、これを見てください。この一本、お尻の部分に小さな穴が開いています。おそらく、これ以上短くなって補助軸からも外れそうになった際、針か何かを強引に差し込んで、無理やり長さを稼いで使っていた形跡があります。……そこまでして、なぜ新しい鉛筆を買わなかったのでしょう。十円か二十円も出せば、もっと書きやすい新品が手に入ったはずなのに。これは節約の域を超えて、もはや何かの信仰に近いですよ」
「栞くん、それは『合理性』という名の物差しでは測れない領域なんだ。人間にはね、ある種の『終わりを見届けたい』という業のような欲求がある。特に、自分と共に苦労を分かち合った道具に対してはね」
所長は、椅子の背もたれに深く身を沈め、夕暮れの光が差し込む窓の外を見つめた。
「この持ち主にとって、この鉛筆は単なる消耗品ではなかった。深夜、誰もいない部屋で共に受験戦争を戦い抜いた戦友か、あるいは、言葉にならない不安を紙に叩きつける際に寄り添ってくれた唯一の理解者だったのかもしれない。この最後の一ミリを使い切ることで、彼、あるいは彼女は、自分の人生における一つの季節に『ケジメ』をつけたかったのではないかな。この短さは、吝嗇ではなく、一種の『卒業論文』なのだよ」
「……卒業論文、ですか。まるで、この不細工な木片たちが銀メダルを授与されたアスリートのようですね」
栞は、丁寧な手つきで台帳に詳細を記していく。
【登録番号:902】 **名称:**極限まで短縮された個体群(通称:黒鉛の殉教者) **状態:**指先の圧迫による変形、および汗による変色。一部に執念によると思われる歯型を確認。 **備考:**持ち主は、道具の死を見届けることで、自らの成長を証明しようとした形跡あり。実用性は皆無だが、精神的強度はダイヤモンドに匹敵する。犬の反応:濃厚。
作業が進むにつれ、研究所の中には夕焼けのオレンジ色と、標本瓶が落とす長い影が混ざり合い、厳かな空気が満ちていった。かつてこの鉛筆たちが紙の上を滑り、カリカリと小気味よい音を立てていた時代。それは、文字がまだ「重み」を持っていた時代の記録だ。今のデジタルデバイスのように、一瞬で消えてしまう軽い言葉たちではなかった時代の遺品。
時計の針が18時を回った。窓の外では、街灯がぽつぽつと灯り始めている。 栞は、全ての記録を終え、使い慣れた自分のシャープペンシルをそっと机に置いた。芯をカチカチと出せば無限に書けるような気がしていた現代の道具が、あの中身を削り続けなければならなかった鉛筆たちに比べて、どこか希薄で、実体のない存在に感じられた。
「叔父様、終わりましたよ。彼らは現在、収蔵庫の『執念と蓄積』セクション、第四棚に安置しました。……帰りに、駅前の文房具屋さんに寄って、一番普通の、一番どこにでもある鉛筆を一本買って帰ろうと思います。なんだか、無性に『削る』という行為を、自分の手で確かめてみたくなりました」
「それはいい心がけだ!栞くん。実体のあるものを減らして、実体のない知識を増やす。それこそが、人類が発明した最も美しい等価交換だよ。……ああ、それから、その新しい鉛筆が短くなる頃、君がどんな景色を見ているのか、私も楽しみにしているよ」
「……私が鉛筆をあそこまで短くする頃には、この研究所の棚は、謎で一杯になっていそうですね」
栞は軽く手を振り、ハツのリードを引き寄せた。ハツは、既に自分のベッドで丸くなり、夢の中で何かを追いかけているのか、前足をピクピクと動かしていたが、栞の「帰るよ」という声に弾かれたように飛び起きた。
研究所の重い扉を閉め、鍵をかける。夕闇が街を包み込み、家々の窓からは夕食の準備の匂いが漂い始めていた。 帰り道、街灯の下を歩きながら、彼女は自分の指先を見つめた。台帳を書き上げた後の、心地よい痺れと、中指に残った微かなペンダコ。
(あんなに短くなるまで、私は何かを信じて、何かを刻み続けることができるかしら)
彼女は、スマートフォンの画面をスワイプして消去するだけの情報の海に生きる現代を思った。一方で、あの缶の中にいた「兵士たち」は、自らの肉体を消滅させることで、確実に何かをこの世界に刻みつけたのだ。
「さあ、ハツ。帰りましょう。お家に着いたら、あなたのご飯のストックもちゃんとチェックして。明日は、あの鉛筆たちが書いていたかもしれない『数式』や『誰かへの手紙』の残像を探しに、また街へ出かけましょうね」
ハツは、栞の決意に応えるように、アスファルトを力強く蹴って歩き出した。 日野原生活文化研究所の闇の中で、登録番号902の鉛筆たちは、かつて自分たちが紙の上に描き出した、膨大な思考の地図を回想しながら、永遠の休息に浸っている。
窓の外では、街の灯りが静かに呼吸し、誰もが当たり前だと信じている明日が、ゆっくりと近づいてくる。その不確かな日常を明日の朝、栞はまた「謎だ」と言いながら、力強く抱きしめるのだろう。




