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第5話:偽りの練り物と、石化した食卓の幻影

「叔父様。朝からこんなことを聞くのは私の正気を疑われそうですが、あえて伺います。この、茶色い焼き目が絶妙な加減で施され、中央には完璧な円筒形の空洞があり、どこからどう見ても『ちくわ』にしか見えない物体は、一体何なんですか。さらには、なぜこれが、貴重な鉱石標本を入れるためのケースの中に、さも『大英博物館の至宝』のような顔をして鎮座しているんですか。触ってみたら歯が折れそうなほど硬い。これは『食品サンプル』ですか、それとも『ちくわの形をした鈍器』として警察に届けるべきですか」


 日野原栞は、指先でコンコンと、その「ちくわ状の硬形物」を叩きながら問いかけた。乾いた、陶器のような音が研究所の静かな空気に響く。


 日野原所長は、愛用の拡大鏡を片目に嵌め、そのちくわの「穴」の向こう側を覗き込むようにして、感極まった声を上げた。


「ついにその『沈黙の磯辺揚げ(予定)』を見つけ出したか。いいかい、それはただのちくわではない。人類が『永遠に腐らない食卓』を夢見た結果、錬金術の果てに生み出された、偽りのタンパク質……いわば『石化された家庭の平和』だよ。見てごらん、この焼き目のグラデーション。これは職人が、夕暮れ時の主婦の焦燥感を筆に乗せて描き出した、最高級のセラミック製ペーパーウェイトなんだ。これこそが、日野原生活文化研究所がアーカイブすべき『第1104号:擬態する練り物、および食卓における永遠の不在』なのだよ」


「……ペーパーウェイト。叔父様、これをデスクに置いていたら、来客がみんな『なぜ日野原所長は、大事な書類の上にちくわを放置しているのか』と不安になりますよ。しかもこれ重さが中途半端にあります。ハツだって、さっきからこの『絶対に噛み切れないちくわ』の存在が許せないらしくて、鼻先で突っついては、その硬さに納得がいかないという顔で私を睨んでいるんです。ハツの食欲とプライドを同時に傷つけるなんて、これはある種の精神攻撃ですよ」


 ハツは、デスクの上に置かれた「ちくわ」に対し、前足を一歩引いて、低く「ウゥ……」と唸り声を上げた。ハツの嗅覚が「これは食べ物ではない」と告げているのに、視覚が「これはおでんの具だ」と主張してくる。その矛盾に耐えかねたハツは、ついにその穴の中に鼻先を突っ込もうとして、自らの鼻の頭を硬いセラミックにぶつけ、不満げにクシュンとくしゃみをした。


 ---


 日野原所長は、ハツの鼻先から「ちくわ」を救い出すと、それをデスクの上の、最も日当たりの良い場所に安置した。


「栞くん、物事は多角的に見なければいけない。なぜ、これを作った人間は『ちくわ』を選んだのか。鮭の塩焼きでも、厚焼き卵でもなく、なぜちくわだったのか。そこには、日本人の深層心理に刻まれた『安価な安心感』への渇望がある。穴が開いていることで、先が見通せるという縁起物としての側面。そして、何かに詰め物をされるのを待っているかのような、受動的な美学。……やはり分類名は『第1104号:穴の空いた偶像、あるいは過剰にリアルな無機質』にしよう」


「……『穴の空いた偶像』。わかりました。もう、叔父様の頭の中が一番のミステリーです。登録番号1104、名称はそれで。備考欄には『外見は完全なちくわ。ただし食用不可。犬の自尊心を著しく傷つける恐れあり』と明記しておきますね。……本当に、これを真面目に台帳に書いている私の姿を、学生時代の友人には絶対に見せられません」


 栞は溜息をつき、しかしその手つきはいつも通り完璧だった。彼女は「ちくわ」の寸法を測り、その「焼き目」の色の比率をカラーチャートで確認し、丁寧に台帳に記録していく。シュールな光景ではあるが、栞がラベルを貼ることで、そのちくわは単なる「悪趣味な置物」から、研究所が認める「哲学的なオブジェ」へと、不本意ながらも昇格していった。


 ---


 深夜二時半。研究所の静寂の中で、デスクの上に置かれた「ちくわ」の穴だけが、ランプの光を吸い込んで黒々と光っている。栞は全ての入力を終え、肩を回した。


「叔父様、終わりました。その『偶像』は、特別収蔵庫の『不可解・極』セクションに入れておきます。……帰りにコンビニで、本物の、柔らかくて食べられるちくわを買って帰らないと、私の脳がバグを起こしそうです」


「 実体と虚像の狭間を歩くのが、アーカイブの醍醐味だよ、栞くん。気をつけて帰りなさい。くれぐれも、本物のちくわを台帳に登録しないように…」


 栞は軽く手を振り、ハツのリードを引き寄せた。ハツは「ちくわ」を最後にもう一度だけ恨めしそうに一瞥し、栞の足元にピタリと寄り添って、扉へと向かった。


 研究所を出ると、深夜の澄んだ空気が、現実感を失いかけていた感覚を呼び戻した。駅までの帰り道、栞はふと、前を走る深夜配送のトラックの荷台を見つめた。そこにはきっと、本物の、明日誰かの食卓に並ぶはずの食材たちが山ほど積まれている。


(トラックの中に、あの一本だけが混じっていたら誰か気づくのかしら)


 彼女は、自分の中に広がる「生活」という名の、あまりにも不確かな境界線を思った。私たちは何が本物で、何が偽物かを、どれほど正確に見極めているのだろう。

 研究所の棚に収まったあの「石のちくわ」は、私たちの日常がいかに脆い思い込みの上に成り立っているかを、クスリと笑いながら見守っている。


「さあ、ハツ。帰りましょう。今夜の夜食は、絶対に『穴が開いているもの』にしましょうね」


 ハツは、栞の言葉に激しく同意するように、力強く尻尾を振り、深夜の道を軽快に駆け抜けていった。


 日野原生活文化研究所。

 主たちが去った後の静かな棚では、セラミックのちくわが、栞が貼った「第1104号」のラベルを誇らしげに掲げ、誰かがその穴を覗き込むのを、永遠の沈黙の中で待ち続けている。


 窓の外では、街の灯りが静かに呼吸し、誰もが本物だと信じている明日が、ゆっくりと近づいてくる。その不確かな日常を明日の朝、栞はまた「なんだこれ」と言いながら力強く抱きしめるのだろう。

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