第4話:自分宛の暗号と、忘却の地層学
「叔父様。朝から資料室の床でいったい何をしているんです。この秋の落ち葉か、あるいは不幸な事故で散らばったトランプのような、まき散らされた色とりどりの紙片はなんですか。掃除機をかけようと思ったら、しわくちゃになった青い付箋がハツの鼻先に張り付いていましたよ。書かれているのは……『火曜日、タカシに3番』。これだけです。タカシが誰なのか、3番が何を指すのか。これは『業務連絡』として分類すべきですか、それとも、もはや書いた本人にすら解読不能な『死んだ記憶の抜け殻』として処分しますか」
栞は、青いインクが少し滲んだ小さな紙片を、不潔なものを扱うような手つきではなく、しかしひどく厄介な難問を突きつけられた数学者のような顔で、ピンセットで摘み上げた。栞の手元には、すでに「未分類・保留」と書かれた、今日一日では到底埋まりそうにない大きな木箱が控えている。
日野原は、床に這いつくばって別の紙切れを検分していたが、栞の言葉に弾かれたように顔を上げた。その瞳には、知的な好奇心という名の、やや危うい光が宿っている。
「何をいうか栞くん!いいかい、それはゴミではない。人間の脳という不完全な器から溢れ出した、生活の最小単位のドラマ……いや、一種の『祈り』の結晶だよ。この『3番』という数字の力強い、それでいてどこか焦燥感の漂う筆跡を見てごらん。書いた瞬間、その人物にとって『3番』は世界で最も自明で、逃してはならない至上の何かだったはずだ。だが紙に書き写し、安心という名の忘却の淵へ放り込んだ瞬間に、その意味は永遠にこの世から失われた。これこそが日野原生活文化研究所がアーカイブすべき『第805号:自分自身への片思い、および不達の備忘録』の、最高級のサンプルなのだよ」
「……自分自身への片思いですか。またそうやって、単なる『ド忘れ』をロマンチックな悲劇に仕立て上げないでください。叔父様、私はこの『タカシ』が人間なのか、あるいは競走馬の名前なのか、クリーニングの預け主なのかを判断して、台帳の適切なカテゴリーに収めなきゃいけないんです。ハツだって私が考え込んでいるせいで、その付箋が『新しいおやつの隠し場所』でも記した宝の地図なんじゃないかと期待して、さっきから尻尾で床を叩いて埃を舞い上げているんですよ。期待させちゃ可哀想でしょう」
ハツは、デスクの上の青い付箋を熱心に嗅ぎ、何かを思い出したかのように短く一吠えした。ハツにとって、それは過去の備忘録などではなく、かつてこの紙を触った人物の指先に残っていた、古いパンの粉か、あるいは緊張した汗の匂いを、数十年の時を超えて微かに捉えた狩猟本能の対象だった。
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日野原所長は、栞の追及をひらりとかわすと、足元に広がる紙の海から、さらに三枚のメモを拾い上げた。それは、もはや「コレクション」と呼ぶにはあまりに無秩序で、しかし奇妙な統一感を持った、意味の死体安置所だった。
「栞くん。メモというものはね、未来の自分に対する絶対的な信頼の証なんだ。だが同時に、それは裏切りを前提とした切実な通信でもある。ほら、この黄ばんだメモを見てごらん。そこには『右、絶対』とだけ書かれている。一体何が右なのか。曲がり角か、あるいは人生の選択か、はたまた単なる靴の履き方か。書いた本人は、未来の自分がこれを見ればすべてを理解できると信じて疑わなかった。だが、現在の我々に残されているのは、その『信じていたという事実』だけだ。そして、こっちの赤い紙には『金、絶対に払うな』。……凄まじい緊迫感だろう? どんな金なのか、誰に払ってはいけないのか。この短い言葉の背後に、どれほどドロドロとした人間模様が隠されていたか……。想像するだけで、アーカイブの棚が震えるとは思わないかね?」
「叔父様。その『想像』が一番私の仕事を邪魔するんです。『金、絶対に払うな』。そんな断片的な言葉を並べられても、私は『交通・指針』に入れるべきか『債権・トラブル』に入れるべきか判断がつきません。それに、このメモの主たちが今、どうしているかも分からないのに、勝手にストーリーを作って棚に並べるのは、生活者に対する礼儀を欠いているような気がします」
栞は溜息をつき、しかしその手は止まらなかった。彼女は所長が拾い上げる「解けない暗号」を、一枚一枚、中性紙の保護袋に収めていく。彼女の実務的な潔癖さが、所長の空想という名の洪水から、これらの紙片を救い出そうとしていた。
「礼儀? 栞くん、それこそが私の言いたいことだ。意味を失った言葉に、もう一度『謎』という名の尊厳を与えること。それが我々の礼儀なんだよ。この『タカシの3番』だって、もし中身が『醤油の3番目の棚』だと分かってしまったら、ただのゴミだ。だが、正体が分からないままであれば、それは永遠に『失われた聖典』でいられる。さあ、ハツくん、君もこの『意味の向こう側』にある匂いを探しておくれ」
ハツは、日野原が差し出した「ネギ、十一日、忘れずに」と書かれたメモをクンクンと嗅ぎ、すぐに興味を失ったようにあくびを一つした。ハツにとっては、ネギが十一日であろうと十二日であろうと、自分の皿にお肉が乗るかどうかが唯一の真実だった。
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時間は過ぎ、研究所の床を覆っていた「メモの海」は、栞の献身的な作業によって、少しずつ封筒の束へと姿を変えていった。しかし、整理が進むほどに、栞の心にはある種の奇妙な疲労感が蓄積していく。それは、数えきれないほどの「誰かの切実な瞬間」に触れ続けたことによる、情緒の過負荷だった。
「叔父様。もう、これ以上は入らなくなります。今日の分だけで、『意味不明・自分宛』のセクションが二箱分も埋まりました。ただ不思議なことに、こうして一枚一枚ラベルを貼っていると、だんだん書いた人の気持ちが分かるような気がしてくるんです。この『タカシ』だって、きっと書きながら、『よし、これで安心だ』って、少しだけ肩の荷を下ろしたはずなんです。その一瞬の安堵感だけは三十年経った今でも、この紙の中に生温かく残っているような気がして……」
栞は、ピンセットを置き、自分の右手の親指をそっと眺めた。そこには、数えきれないほどの紙片を扱った、微かな紙の粉が白く付着している。
「ほほう、栞くんも気づいたか。…そう!メモとは、忘れるために書くものなんだ。人は、紙に預けることで、脳の中の重い荷物を下ろす。そして、その荷物を預かった紙は、主人が迎えに来るのをずっと待ち続ける。迎えに来なかった主人の代わりに、君が今、その荷物を受け取ってあげたんだよ。それは立派な救済じゃないか」
「救済、ですか。だとしたら、私の台帳は、世界で一番重い『忘れ物の保管所』ということになりますね。でも、なんだか悪くない気分です。叔父様の屁理屈も、たまには役に立つことがあるんですね」
栞は、最後に残った『あ』とだけ書かれた、出所不明の小さなメモを袋に収めた。それは、何かを思い出した瞬間の喜びなのか、それとも、すべてを諦めた瞬間の絶望なのか。もはや誰にも分からないが、その『あ』という一文字は、研究所の静かな棚の中で、ようやく永い漂流の終着点を見つけたように見えた。
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夕暮れ時、研究所に閉館の時間が訪れた。窓の外は、深い紺色に染まり、家路を急ぐ人々の足音が、舗装された道路に乾いた音を響かせている。栞は台帳の最後の行を書き込み、万年筆のキャップを閉めた。
「叔父様、これで今日はお先に失礼します。例の『暗号コレクション』は、6番棚の『概念・漂流』コーナーに収めておきました。明日の朝、棚の中からタカシが這い出してきたりしないように、戸締りは厳重にお願いしますよ」
「はっはっは、心配ない。タカシも、3番も、今は君が作ってくれた透明な部屋の中で、心地よい眠りについているはずだからね。気をつけて帰りなさい、栞くん」
栞は軽く手を振り、ハツのリードを引いて、研究所の重い扉を押し開けた。
研究所を出た瞬間、夜の冷たい風が、作業で火照った頬を撫でた。駅までの帰り道、栞はふと、自分のコートのポケットを弄った。指先に触れたのは、今朝、出勤前に自分で書いた「トイレットペーパー、八個入り」という、なんの情緒もないメモだ。
(……もし、私がこれを落として、三十年後に誰かが拾ったら、その人は私のことをどう思うのかしら)
彼女は、自分の中に広がる「生活」という名の、あまりにも具体的で、それでいて脆い情報の山を思った。私たちは毎日、数えきれないほどの「備忘録」という名の杭を打ち込みながら、忘却という名の砂漠を歩いている。
研究所の棚に収まったあの紙片たちは、かつて誰かが「自分」という存在を繋ぎ止めようとした、必死な足跡そのものだ。
「さあ、ハツ。帰りましょう。私たちの『3番』は、帰って温かいお風呂に入ること、よね?」
ハツは、栞の言葉を完璧に理解したかのように、力強い足取りで夜の道を真っ直ぐに進んでいった。その尻尾は、過去のどんな暗号よりも明快に、現在の幸福を夜の空に刻みつけていた。
日野原生活文化研究所。
主たちが去った後の静かな棚では、青いインクの付箋や黄ばんだメモたちが、もはや誰にも解かれることのない、しかし誰かに確かに必要とされたという誇りを胸に、研究所の沈黙の中に深く、深く根を張っていく。
街のあちこちで、人々がまた新しいメモを書き、そして明日には忘れていく。その無数の「小さな祈り」たちが、いつかまた、栞の指先で新しい名前を与えられる日を、静かに、そして楽しみに待っているのだった。




