第3話:鋼鉄の知恵の輪と、クローゼットの反乱
「叔父様。今すぐ、両手に握りしめた『青い針金の残骸』を床に置いてください。そしてその『獲物を仕留めた直後のマタギ』のような荒い鼻息を鎮めてください。客観的に見て、今の叔父様は、ただクリーニング屋の安物ハンガーと取っ組み合いをして敗北した、哀れな隠居老人にしか見えません」
日野原栞は、クローゼットの前で文字通り「針金の塊」と格闘している叔父を、冷徹な一瞥で射抜いた。日野原所長の足元には、まるで深海の巨大なイカの触手のように複雑に絡まり合った、数十本の針金ハンガーが、巨大な鉄の球体と化して転がっていた。
「栞くん……ハァ、ハァ……。これは単なるハンガーではない。これは、現代家庭が生み出した『非ユークリッド幾何学の罠』なんだよ。いいかい、一本一本はか細い鋼鉄の線に過ぎないが、これがクローゼットという密室で一定の密度を超えたとき、彼らは独自の意志を持ち、互いのフックを絡め合わせることで、外界からの干渉を拒絶する『要塞』へと進化するんだ」
「ただ収納の仕方が雑だったせいで絡まっただけですよね? 知恵の輪を解くみたいに一本ずつ外せば済む話を、なぜそうやって力任せに引きちぎろうとして事態を悪化させるんですか」
「引きちぎろうとしているのではない! 私は、この絡まりの中に潜む『物理的な必然性』を解明しようとしているんだ。見てごらん、この三本が形成している『不可逆的な結び目』を。これは昨夜私が適当に上着を掛けようとした際の、一瞬の油断が生んだ『カオス理論』の結実だ。一度絡まれば解くためには宇宙の寿命ほどの時間が必要になる。これこそが日野原生活文化研究所が直面すべき日常における『停滞の極致』なんだよ」
日野原は、再び「ふんっ!」と気合を入れ、針金の塊を強引に横に引いた。すると連動してクローゼットの奥から、数年前に一度だけ着たきりの「蛾に食われたセーター」がハンガーのフックに引きずられて亡霊のように這い出してきた。
足元では、ハツがその針金の塊から突き出した一本のフックを新種の生命体だと思っているのか、抜き足差し足で近づいては「ワンッ!」と短く吠え、自分に襲いかかってこないかを確認していた。ハツにとって、この金属の塊は散歩道で見かける蛇よりも、はるかに予測不能な動きをする不気味な存在だった。
そこへ、今日も今日とて「シームレスな最適化」を説く真壁が、三つ揃いのスーツを完璧に着こなして現れた。彼は日野原の足元でうごめく「針金の山」と、そこから垂れ下がる無残なセーターを見た瞬間、まるで自分の美学が物理的に汚染されたかのように持っていたタブレットを胸の前で十字架のように掲げた。
「先生……。僕は今日、研究所の資産運用における『減価償却の再計算案』を持ってきたのですが……。なぜ、この令和の時代に、昭和の路地裏のゴミ捨て場のような光景が再現されているんですか。その針金、一本あたり五円の価値もありませんよ。それを解くために先生の時給を費やすのは、もはや経済的自殺です」
「真壁くん、君は相変わらず物事を表面的なコストだけで判断するね。この絡まりを見てごらん。これは効率化を急ぐ現代人が、クローゼットに『とりあえず』と投げ込んだ時間の積み重ねなんだ。一本のハンガーを解くことは、自分の過去の雑さと向き合う宗教的な儀式なんだよ。さあ君もこの『鋼鉄の知恵の輪』に加わりたまえ。君のその高価なスーツの袖をこのフックが捉えたとき、君の合理主義がどう悲鳴を上げるか非常に興味がある」
「……冗談じゃない。僕のこのスーツはナポリの職人が手縫いで……あっ!」
日野原が説明のために振り回した針金の塊の一端が、真壁が差し出したタブレットのカバーの隙間に吸い込まれるように引っかかった。
「ちょっと、先生! 引かないでください! 絡まる! 僕のスマートカバーが……ああっ、なぜそんな、不自然な角度でフックが食い込むんですか!」
「おっと、すまない真壁くん。だが、これがハンガーの魔力だ。彼らは獲物を見つけると物理法則を無視した角度で『接続』を試みるんだ。ほら、無理に引いてはいけない。引けば引くほど隣のハンガーが君のネクタイを狙い始めるぞ」
真壁は、その後の一時間、日野原と共に床に這いつくばり、針金ハンガーの「攻略」を強いられる羽目になった。
「真壁くん、そこは引くのではなく、反時計回りに捻りながら、三本目の輪を潜らせるんだ」
「先生、無理です、この一本を抜こうとすると、十本が連動して僕の指を挟もうとしてくるんです!」
真壁の額には脂汗が浮かび、彼の整った髪型は、針金の隙間から溢れ出す「生活の埃」によって徐々に野生味を帯びていった。彼の脳内では常に「投資対効果」が算出されているはずだったが、今や「この一本を救い出すために、あと何分間の屈辱が必要か」という絶望的な方程式しか機能していなかった。
「……先生。もう限界です。なぜ僕は、平日の昼下がりに、日野原生活文化研究所の床で、クリーニング屋の無料配布物に、これほどまでの憎悪を抱かなければならないんですか。僕が今まで築き上げてきた『スマートなキャリア』が、この青いビニールコーティングされた針金一本に、あざ笑われているような気がする……」
ようやく一本のハンガーが、カシャという乾いた音を立てて山から離脱した。しかし、その代償として、真壁の高級なワイシャツのボタンが一つ、針金のどこかへ消え去り、彼の右手には「鉄の匂い」が重く染み付いていた。
「……取れました。でも取れたからといって、僕の心には何の達成感もありません。あるのは、ただ、自分の人生の貴重な時間が、この歪んだ針金の形に変えられてしまったという虚無感だけです」
夕暮れ時、真壁はフラフラとした足取りで、研究所を後にした。彼の持ってきた「資産運用案」の資料は、日野原が格闘の最中に足で踏んづけたため、ハンガーの形に、くっきりと「くの字」の折れ目がついていた。
「……さっぱりしない。手が、ずっと鉄臭い。それに、クローゼットという言葉を聞くだけで胃のあたりがキュッとする。……家の中にある、あの、まだ手付かずの『ハンガーの墓場』。あそこには今日の何倍もの『敵』が潜んでいる……。もし夜中にあいつらが一斉に絡まり合って、僕の部屋を侵食し始めたら……?」
彼は駅までの道中、自分の背負ったリュックのジッパーや、通りのフェンス、果ては電線の重なりさえもが、自分を絡め取ろうとする「巨大なハンガーのフック」に見えてくるような錯覚に襲われていた。すっきりした解決策など、どこにもない。あるのは生活という名の「解けない知恵の輪」が、自分の指先から自由を奪い去っていくという、冷たい確信だけだった。
栞は、再びクローゼットの奥で「おや、もう一塊あったぞ!」と歓喜の声を上げる叔父を見て、静かに部屋の照明を半分消した。 「叔父様。真壁さん、帰り際、自分の指がまだ針金の形に固まっているような気がすると言って、手を不自然に広げたまま、カニみたいな歩き方で駅へ向かいましたよ」
「彼もようやく、生活の『絡まり』という名の深淵に指を突っ込んだか。素晴らしい体験じゃないか!」
ハツは、真壁が落とした「ワイシャツのボタン」を、自分だけの宝物庫へと運び込み、満足げに鼻を鳴らした。
日野原生活文化研究所。そこでは、デジタル化できない「物理的な意地悪」が、一人のエリートの自尊心をズタズタに引き裂き、鉄の匂いという名の呪いを残したまま静かに、しかし確実に次の獲物を待っているのだった。




