第2話:未完の結び目と、断ち切れない残糸
「叔父様。その、産卵を控えた深海の甲殻類のように、色とりどりの糸を全身に絡ませて悦に浸るのはやめてください。それは私が先ほど、研究所の備品整理で見つけた『二十年以上前の、用途不明の余り糸』の束です。なぜ、そんな数センチしかない、ボタン一つ縫い付けられないような端切れの糸を、わざわざ一本ずつ色見本帳と照らし合わせているんですか」
日野原栞は、首に何本もの色鮮やかな刺繍糸やミシン糸をぶら下げた叔父を、冷徹な一瞥で射抜いた。しかし当の日野原所長は、ルーペ越しに「わずか三センチの淡い桃色の糸」を凝視し、恍惚とした表情を浮かべている。
「栞くん、君は効率という名のハサミで、世界を切り刻みすぎだ。いいかい、この『余り糸』こそが、家庭における慈しみの余白なんだよ。人は、服を繕った後に残ったわずかな糸を、『何かに使えるかもしれない』と思って捨てずに取っておく。その瞬間の、名もなき執着と、未来への微かな希望が、この小さな糸巻きに重力となって蓄積されているんだ。これこそが、日野原生活文化研究所がアーカイブすべき『善意の化石』だよ」
「……ただの、捨て時を失ったゴミですよね? 叔父様がそれをアーカイブと言い張って首に巻き付けているせいで、さっきからハツが叔父様の背後で、巨大な毛糸玉を狙う猛獣のような目つきになっています。このままでは、研究所が糸くずまみれになるのも時間の問題です」
「ハッハッハ! ハツくんも、この糸に宿る『生活の熱量』を感じ取っているのさ。見てごらん、この一本。手縫いの跡がある。かつて誰かが、誰かのためにボタンを付け直し、余ったこの数センチに『次はもっと大きな綻びを直そう』と誓った……そんな物語の断片が、この縺れの中に封印されているんだよ」
足元では、ハツが日野原の首から滑り落ちた「青い絹糸の束」を、前足で器用に転がしていた。ハツにとって、それは生活の熱量のアーカイブではなく、引っ張ればどこまでも伸び、噛めば口の中に不快な繊維を残す、最高に「たちの悪い獲物」だった。
そこへ、今日も今日とて「組織の贅肉を削ぎ落とす」ための、分厚いコストカット案を携えて真壁が現れた。彼は扉を開けた瞬間、室内に漂う微かな埃の匂いと、糸まみれの所長を目にし、手に持ったブリーフケースの取っ手を、指が白くなるほど強く握りしめた。
(……落ち着け、真壁。あの日、僕は少し情緒に流されすぎたんだ。あんな『効率の悪い人生の案内人』なんて冗談、プロのコンサルタントとしてあってはならない失言だった)
真壁は、心の中で自分を厳しく叱咤した。彼はあの日以来、自宅の鏡に向かって「僕は効率の番人だ」「研究所の価値は、あくまで経済合理性の中で定義されねばならない」と、呪文のように繰り返してきたのだ。
「日野原先生……。僕は今日、研究所の『不要備品および低稼働スペースの強制返還スケジュール』を持ってきました。先生、あの日僕は、ここの価値を測定不能な文化資本だと言いましたが、それはあくまで一側面の話です。仕事は仕事です。僕は僕の職責を果たすために、この『糸くずの山』を、今すぐシュレッダーへかけることを進言します。情緒で運営コストは賄えません!」
真壁の声は、いつになく冷徹だった。それは、揺らぎかけた自分を必死に繋ぎ止めようとする、彼なりの防衛本能でもあった。
「おや、真壁くん。随分と気合が入っているね。だが、その『仕事は仕事』という切り捨てこそが、君の指先を荒れさせている原因じゃないかね? さあ、この糸巻きの中から、君の今の心境に最も近い『絡まり』を選んでみたまえ。君が今、必死に断ち切ろうとしているものが、色となって現れるはずだ」
「選びません! 僕は、自分のタスクも感情も、すべて論理的なチェックリストで管理しています。絡まりなんて、僕の人生には一ミリも存在しません!」
しかし、真壁は結局、日野原から「家庭内における裁縫箱の地層学」についての講義を三時間も強制される羽目になった。 「この黒い糸の塊を見てごらん。これは葬儀のたびに急いで喪服を繕った、悲しみの集積だ」「真壁くん、君のその冷徹なスケジュール表も、この細い一本の糸が絡まるだけで、簡単に綻んでしまうんだよ」
真壁は、資料を読み上げる隙も与えられず、ただひたすらに、絡まり合った数十種類の糸を「素材別、色別」に一本ずつ解いていくという、気が遠くなるような作業を命じられた。指先には、ナイロンの硬い感触、絹の滑り、そして古い綿糸の、脆くも粘り強い抵抗が刻まれていく。
「……先生。もう、いいでしょう。僕は、この糸を解いているうちに、自分が何の資料を説明しに来たのか、わからなくなってきました。……僕が必死に構築したロジックが、この、ボタン一つも留められないほど短い糸の群れに、足を取られて動けなくなっている……」
研究所を出るとき、真壁の表情には、先日見せたような晴れやかさは微塵もなかった。 あるのは、自分のプロフェッショナリズムと、研究所の底知れない泥沼のような引力との間に挟まれ、引き裂かれたような、重苦しい疲労感だけだった。
「……仕事は、仕事のはずなんだ。僕は明日、上司にこの進捗のなさをどう説明すればいい。……あの日、僕が口にした『案内人』なんて言葉が、今さら呪いのように足元に絡みついてくる」
彼は駅までの道すがら、街灯の光に照らされた自分の影が、無数の黒い糸を引きずっているような錯覚に襲われた。 自分の歩くスピードが、あの日より確実に遅くなっていることを、彼は認めざるを得なかった。
「……気持ち悪い。指の腹に、あの古い糸の、カサカサとした不快な感触が残っている。……僕は、すべてを合理的に断ち切るハサミでありたかったのに。なぜ、ここに来るたびに、僕は自分でも気づかないうちに、新しい『未完の結び目』を増やして帰ることになるんだ」
彼は駅のホームで電車を待つ間、自分のスーツの裾から、一本の細い糸が、どこまでも長く伸びて研究所の方へと繋がっているような幻想を見た。 それを引きちぎる勇気も、かといって手繰り寄せる覚悟もないまま、彼はただ、自分のアイデンティティが少しずつ、目に見えない繊維となって解れていくような、形容しがたい喪失感に身を震わせていた。
(……僕は、コンサルタントだ。効率こそが正義だ。なのに、なぜ今、あの一番短い、役に立たない糸の色を美しいと思ってしまったんだ……?)
栞は、テーブルに残された「真壁が解きかけた、灰色の糸の山」を、静かに箱に収め、溜息をついた。 「叔父様。真壁さん、帰り際、自分のネクタイを何度も引っ張っていましたよ。まるで、自分の首が何かに操られているのを確かめるかのように」
「彼は自分のロジックという名の布が、生活という名の糸で織られていることに気づき始めたんだ。仕事と人生を切り離そうとすればするほど、その裂け目は大きくなる。素晴らしい葛藤だね」
ハツは、真壁が格闘の末に置いていった「折れた針の先」を、自分だけのアーカイブ(廊下の隅)へと慎重に運び込み、そこで満足げに体を丸めた。
日野原生活文化研究所。そこでは、最先端の合理性を鎧にまとう若者の自尊心が、たった数センチの余り糸によって、音も立てずに解体され、断ち切れない後悔の山へと積み上げられていくのだった。




