第1話 銀のピンセットと、名もなき職人の休息
「叔父様。この『1992年のエレベーターガールが、心の中で唱えていた今日の献立』という音声テープ、どの棚に分類すればいいのかしら。『産業心理学』? それとも『生活秘話』?」
栞は、色褪せたカセットテープを指先で回しながら、デスクで古い地図を広げている叔父を見やった。
日野原生活文化研究所。そこは、効率化の波に飲まれて消えていった、あるいは最初から世の中に認められていなかった「奇妙な職業」の記録を収集する、世にも珍しい場所である。
「おや、それは貴重な資料だね」
所長の日野原は、老眼鏡をずらして微笑んだ。
「エレベーターガール。かつて垂直移動という日常の行為に、優雅さと物語を添えていた職業だ。彼女たちは、上昇気流と共に自分の意識も高めようと努力していたんだよ。そのテープにある献立は、重力から解放された魂が、いかにして地上(晩ごはん)に帰還するかという、切実なサバイバルログなんだ」
「叔父様の解釈にかかると、ただの『今夜はカレーにしよう』という呟きも、壮大な叙事詩になっちゃうのね」
栞は溜息をつき、テープを「職業的無意識」というラベルの貼られた箱に収めた。
彼女がここでアルバイトを始めて半年。彼女の友人の多くは、有名企業で「生産性」や「コミットメント」といった言葉を武器に戦っているが、彼女の仕事は、消えゆく「無駄な手間」を丁寧にピンセットで分類することだ。
「最近は『ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)』なんて言葉が流行っているけれど、人間の営みには、書き出せないほどの余白がある。僕たちの仕事は、その余白を守ることなんだよ、栞くん」
そんな研究所に、一人の青年がやってきた。
名前は真壁。彼は「働き方改革」を推進するコンサルティング会社の新進気鋭の社員で、この研究所の「運営効率の悪さ」を指摘し、予算を削減するために派遣されてきたのだ。
「日野原先生。拝見しましたが、この研究所の活動は、現代の労働市場において何の利益も生んでいません」
真壁は、タブレット端末を叩きながら冷徹に言った。
「例えば、この『街角の時計台のネジを巻くだけの老人』の調査。今や電波時計で事足ります。この老人の仕事には、一円の価値もない」
そこへ、研究所の飼い犬である「ハツ(雑種・元捨て犬)」が、どこからか拾ってきた古い「靴べら」を真壁の足元に恭しく置いた。ハツは、まるでお客様に名刺を差し出すような、プロフェッショナルな所作を見せた。
「……この犬は、何をしているんですか?」
「彼は『おもてなし担当』の専門職だよ。真壁君、君には、この靴べらが単なるプラスチックの棒に見えるかい? 彼にとっては、君の足元を支え、次の目的地へ送り出すための『祝福の杖』なんだ」
日野原は、ハツの頭を撫でながら続けた。
「君の言う通り、効率だけを見れば、世の中の職業の半分は消えていいのかもしれない。でも、その老人がネジを巻くことで、街の人々が『ああ、今日もこの場所は回っているんだな』と感じる安心感。それを君のタブレットで数値化できるかな?」
「感情論は不要です。私は、もっと『意味のある仕事』にリソースを集中すべきだと言っているんです」
その夜はひどい嵐になった。
真壁は駅までの足を失い、不本意ながら研究所に泊まることになった。
夕食後、栞はアーカイブの一つから、ある古い依頼書を取り出し、真壁に差し出した。
「これを見てください。1980年代に、ある『代筆屋』が受け取った最後の依頼です」
それは文字も書けないほど高齢になった女性が、かつて喧嘩別れした息子に宛てた手紙の、清書前のメモだった。
「代筆屋は、彼女の言葉をただ書き写すだけじゃなかった。彼女の『ため息』や『沈黙の時間』を、文字の太さや行間に翻訳して書いていたんです。AIなら一秒で完璧な文章を作るでしょう。…でも、この『震える一筆』に宿る迷いまで再現できるでしょうか」
真壁は、そのメモをじっと見つめた。
彼が日々扱っている「効率」や「成果」という言葉の影で、こぼれ落ちていった何かが、その薄汚れた紙には確かに宿っていた。
「……私の父は、時計の職人でした」
真壁が、不意に口を開いた。
「小さな工房で、一日中、拡大鏡を覗き込んで、音を聴いて……。私は子供の頃、父の仕事が嫌いでした。あんなに苦労して、出来上がるのはたった一つの古い時計。もっとスマートな、もっと派手な仕事に就きたいと思って、必死に勉強したんです」
日野原は、静かにワインを注いだ。
「お父様は、時間を修理していたんだね。それは、過去と未来を繋ぐ、最も責任ある仕事の一つだ」
「父が死んだとき、形見の時計が動かなくなったんです。私はそれを、ゴミだと思って捨てようとしました。でも……」
真壁の指が、少しだけ震えた。
「今日、ここでハツに靴べらを出されたとき、不意に思い出したんです。父が時計を渡すときの、あの誇らしげで、それでいて少し寂しそうな顔を。あれは、単なる労働じゃなかった。自分の時間を、誰かの時間に分け与えていたんだと」
翌朝、空は嘘のように晴れ渡っていた。
真壁は、昨日の冷徹な表情をどこかに忘れてきたような、穏やかな顔で研究所を去ろうとしていた。
「日野原先生。報告書には、こう書くつもりです。『当研究所は、目に見えない文化資本の保全において、測定不能な価値を有している』と。まあ、上司には怒られるでしょうが、その時は……」
真壁は少し照れくさそうに笑った。
「その時は、新しい職業でも探しますよ。『効率の悪い人生の案内人』なんて、募集していませんか?」
「それはいい。でも、うちのハツがライバルになるから、採用基準は厳しいよ」
真壁を見送った後、栞は再び標本箱の整理に戻った。
「叔父様。私、このアルバイト、もう少し時給を上げてもらってもいいかしら。最近、『消えゆく仕事の目撃者』としての自覚が芽生えてきたから」
「おや、それは頼もしい。じゃあ、時給の代わりに、とっておきの『1960年代の職人が手作りした、最高のバター飴』を支給しよう」
「……現金でお願いします。現実に生きてるんですから、私たちは」
栞は苦笑いしながら、銀のピンセットで、新しい資料を丁寧に扱い始めた。
窓の外では、ハツが庭のトカゲを相手に、新しい「接待」の練習を始めている。
それは、バブルの熱狂が去り、デジタルの波が世界を洗っても、決して消えることのない、人間の手触り。
誰もが何者かになろうと焦る世界で、ただそこにあり、誰かのために何かを為す。
その尊さを、琥珀の中に閉じ込めるように、研究所の静かな時間は流れていく。




