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第5話:重合、崩壊、遥か遠い幻影

王宮・シオンの部屋


部屋は広すぎて、足音さえ反響する。冷たい白石の壁が全ての温もりを吸い取り、暖炉で魔法で維持された偽の炎だけが虚ろに踊っている。シオン・ブラックソーンの寝床は石板のように硬く、粗末な麻のシーツが、緊張で疲弊した肌を擦る。眠れない。「勇者」という名の力が血管を駆け巡り、檻の幼獣のように膨張した錯覚と居心地の悪さをもたらす。


壁の巨大なタペストリーが視界を捉えた。唯一の「温もり」だ。


主題は〈火系魔法の創造〉。中央でフード付きローブの古代魔導師(開拓期の伝説か?)が両手を虚ろに掲げ、苦悶にも似た集中力で構えている。その掌の上にあるのは現実の炎ではなく──無数の複雑精緻な、溶金の幾何学紋が渦巻くエネルギー構造体だ! 紋章は生命体のように回転・結合・分裂し、核心で一点の純白が膨張する。背景には宇宙の星雲が広がり、魔法の本質への探究を冷徹に伝える。


(これ絶対インタラクティブアイテムだろ…試すか)


レオナ王女の神聖な言葉、体内を奔る力、カインの眩い姿、レックスの嘲笑…雑念が渦巻く。衝動に駆られ、シオンは絵の魔導師を真似て震える両手を掲げた。


集中…力の構造を感じろ…火の本質は何か? 燃焼か? 光か? 破壊と新生が織りなす狂暴なエネルギーか!


宝珠を触れた時の感覚を思い出す。奔流を分解・再構築し一点に凝縮せよ──


チリッ!


オレンジの微かな火花が、瀕死の蛍のように掌間で消えた。かすかな温もりの後、深い徒労感。


「違う…構造…核心…」シオンの呟きがタペストリーの白熱点を穿つ。圧縮だ…爆発的な解放が必要だ! 更なる「暖流」を無形の点へ押し込め──


ボッ!


今度は火球だ! 拳大の不安定な塊が、融けた蝋のように滴り落ちながら掌間から飛び出し、〈火の創造〉のタペストリーへ直撃した!


「しまった!」制御不能の意志が暴走する。


火球が古代魔導師の掌を喰らう!


ドゴォン!


オレンジの炎が幾何学紋と白熱点を呑み込む。高価な布地がうめき、焦げて捲れ、金粉と絵具の悪臭が立ち込める。「創造」の冷徹な構造が、原始的な炎の前で脆くも崩れ、灰煙と化した。


【火球術 習得! Lv1】


【“火の理解”媒介物破壊! 経験値獲得! 火球術 Lv2!】


システム通知が冷たく浮かぶ。シオンは壁の醜い焦げ跡と漂う煙を呆然と見つめた。焦げ臭い部屋で、彼は成功した…代償は無価値な魔法掛け軸だった。


(やらかした…でもRPGで魔法書が消費される理由がわかった気がする)


微かな興奮は恐慌と荒唐無稽感に潰された。震える手を見つめるシオン。それは見知らぬ凶器だった。力は鎮まったが、魂の奥の冷たい束縛がより鋭くなった。


異世界魔法か…16年もここにいて初めて使うとは皮肉だ。


(※ベッドで時間を早送りする描写は省略)


栄光の闘技場グローリアスコロシアム


硬く締め固められた黒土が古血を吸い込み、魔法光源の下で錆色の暗赤に鈍く光る。空気は腐肉と排泄物と魔物の腺臭が層を成す濃厚なスープ。シオン・ブラックソーンの掌が訓練用鉄剣の木柄で繰り返し滑る。汗と泥が混じり合い、冷たく粘つく。


(動く魔物は二度目だ…だが実戦は初めてだ)


Lv10ゼリー状スライムが蛍光を歪ませながら跳躍接近。シオンが深く息を吸い込み、ガーヴィン・ドラゴンスパインの岩のような指令を思い出す。「腰を落とせ! 体幹を捻れ! 大地から力を汲め!」鉄剣が鈍い弧を描く──


ズブッ!


剣身が半透明の膠質に突き刺さる。油を切る感触。スライムが無音で裂け、核心の魔力核が露出した瞬間、シオンが手首を捻り剣先を跳ね上げる!


ジリリッ!


魔力核が砕け散る。スライムは酸っぱい腐臭を放つ濁流へと崩れた。反動が刃から柄へ、小臂の骨まで痺れさせる衝撃で伝わる。


【経験値微増!】


息を整える間もなく、三匹のLv8枯爪ゴブリンが金切り声を上げて襲いかかる!鈍器の木棍が悪風を巻く。アドレナリンが血管で炸裂し、視界が急速に狭窄。牙と棍棒だけが焦点となる。


カンッ!


最初の一撃を鉄剣で受け止める。木と鉄の炸裂音が鼓膜を刺す。


スッ!


二匹目の棍が耳朶を掠め、腐った肉のような吐息が顔にまとわりつく。恐怖の氷柱が脊椎を貫通!シオンがよろめき後退し、踵が隆起した世界樹の根に引っかかる!


バランスを失った刹那、三匹目のゴブリンが枯枝のような鉤爪をシオンの心臓へ掏り貫こうと伸ばす!


「離れろッ!」喉の奥から絞り出した咆哮が、体内の熱い奔流に火を点ける。力が本能で指先へ迸る──


ボッッ!


拳大のオレンジ色の火球が、熔けた蝋のように縁を垂らしながら掌間から噴出!


ドッゴォン!


火球がゴブリンの足元で炸裂。熱風と土煙が小柄な魔物を吹き飛ばす。焦げ臭さが立ち込める。ゴブリンが顔を押さえて悲鳴を上げ転げ回る。


チャンス!シオンが飛びかかり、鉄剣を天高く掲げ全身の重みを乗せて振り下ろす!


ズッシャッ!


鈍い音と共に頭蓋骨が割れる。温かい液体──鉄臭さと脳髄の生臭さが混じったもの──が顔面と腕に飛沫する。ゴブリンの死の痙攣が剣身から伝わり、胃袋を強く攣らせる。


【Lv8枯爪ゴブリン撃破!経験値獲得!Lv7に昇格!】


四肢を駆け抜ける力の暖流。微かな高揚が芽生える──


ゴオオオオオッ!!!


衝撃波のような咆哮が胸板を直撃!心臓が一瞬停止する!視界の端で、重厚な鉄格子が軋みながら上がり始める。岩灰色の巨影が闘技場へ這い出てくる!Lv20森林トロール!岩肌のような皮膚に無数の鉄釘を打ち込まれた巨木棍を引きずる。その黄濁した眼球が、瞬時にシオンを捕捉した。


逃げろ!脳が絶叫するが、脚が鉛のように重い。トロールが十メートルを一跨ぎ。巨棍が空気を断ち裂く轟音を上げて振り下ろされる!避けられない!


シオンが唯一取れる動作は横転だけだった!


ドゴォォーン!!!


巨棍が背後の黒土を叩き砕く!衝撃波がシオンの体を吹き飛ばす!世界が轟音と共に粉々に砕け、再構築される。背中が地面に叩きつけられる鈍痛が遅れて炸裂。肺の空気が全て絞り出され、喉の奥に鉄の味が湧き上がる。耳の中で甲高い耳鳴りが続き、観客席の喚声、魔物の咆哮、そして自身の心臓の鼓動さえもが歪み、遠のく。


時間が引き伸ばされる。


彼は泥濘に仰向けに投げ出され、天井を見上げる。そこに蠢く焦げた世界樹の根が、これまで以上に鮮明に視界に飛び込む。巨大な根の裂け目から突き出た木刺が獣の牙のよう。分厚い炭化層に走る亀裂は、瀕死の巨獣の涙の跡のよう。魔法煉瓦で無理矢理塞がれた隙間からは、暗緑色の苔が爛れた傷口のように滲み出て、冷たい死の匂いを放っている。一滴の濁った液体が高い樹根の裂け目から滴り落ち、シオンの額に当たる。冷たく、粘ついていた。


「退けッ!」雷のような冷徹な怒声が闘技場を劈く。カイン・ブライトブレードだ!


電光石火の動きでトロールの側面へ回り込む!手にするは訓練用の鈍器ではなく、冷気を放つ鋼の長剣。その流れるような動きは、シオンの拙さを嘲笑うかのようだ。


「初級ヴェランディル宮廷剣術・迅捷突刺しんしょうとっし!」剣尖が一点に凝縮され、毒蛇の如くトロールの膝裏の脆弱点を穿つ!


ズブッ! 鋭い切れ味。巨体がよろめき、痛吼を上げる。


「リアナ!初級水魔法・水縛い(みずしばり)!」


「は、はい!」リアナ・ソフトフェザーの声にわずかな震えが混じるが、彼女は素早く詠唱を終え、杖を振るう。水流が鎖状に実体化し、トロールの太い足首を絡め取る!


巨獣の動きが一瞬封じられる。


「ここだッ!中級攻撃剣術・光輝斬こうきざん!」カインの瞳に鋭い光芒が走る。長剣が白熱の輝きを放ち、太陽の欠片を集めたかと見まがうほどの光を帯びて、トロールの太い首筋めがけて断ち切るように振り下ろされる!


ザッシャーーンッ!! 鈍い切断音と共に、鬣のごとき頭髪をまとった巨頭が宙を舞う!同時に噴き上がる汚血の泉!巨体は地を揺るがせて崩れ落ちる。


【カイン・ブライトブレード 経験値獲得!Lv13に昇格!】


名前:カイン・ブライトブレード


Lv:13


職能:勇者


スキル:[初級攻撃剣術][中級攻撃剣術][初級ヴェランディル宮廷剣術][中級化解剣術][初級化解剣術][初級防御剣術]


権能:[勇者の力][光輝の刃の加護]


魔法:[初級火魔法][初級水魔法][初級光魔法][初級風魔法]


(まさか…!?同じ時間成長してるのに、どうしてこんな差が…!?)


観客席から沸き上がる歓声と拍手!レオナ王女がほんのりと頷き、上品な微笑みを浮かべる。マルクス・フラウィウスも軽く拍手し、その目は何かを深く見透かすように微かに細める。フェリス・フレイムハートが興奮して手を叩く。「カイン様!流石です!」シルラ・スティルウォーターは相変わらず無表情だが、青い瞳の奥に一瞬、認める光が走る。レックス・スライフォックスは大きく口笛を吹き、これ見よがしに賛辞を叫ぶ。「おおー!流石はブライトブレード家の御曹司!あの剣技、まさに神技!俺たちの及ぶところじゃないぜ!」


シオンは泥濘の中に座り込んだまま。背中の擦過傷の痛みなど、心に刺さった氷の棘の前では霞んでしまう。賞賛の光を浴び、真の太陽の子のように立つカイン。そして、その輝きの陰で、誰にも顧みられない汚泥のような自分自身。


しかし、異変は終わらない。シオンが巨棍の衝撃から必死に転がり避けた際、あるいはトロールの断末魔の痙攣が原因か──闘技場の壁際、より小さな補助鉄柵がガラガラガラッ!と音を立てて跳ね上がったのだ!


銀灰色の影が、抑えきれない苦痛と狂気を孕んだ幼獣の咆哮と共に檻から飛び出す!Lv25魔狼の幼獣(狂暴状態)!大型犬よりやや大きい程度の体躯だが、全身の銀灰色の毛が逆立ち、口を大きく開けて白く鋭い牙を剥く。喉の奥からは、底知れぬ苦しみと憎悪に満ちた唸り声が滾っている。無数の鞭痕と焼け焦げた烙印が全身を覆い、明らかに非道な虐待を受けていた痕跡だ。だが最も恐ろしいのはその瞳──もはや野獣の凶暴さではなく、骨の髄まで刻み込まれた復讐心と絶望で燃え滾る、真っ赤な血眼ちまなこだった!その視線は、光り輝くカイン以外に存在しない!


「ガルルル…ウォーンッ!!!」魔狼の幼獣が復讐の銀灰色の閃光と化し、空気を引き裂く咆哮を上げてカインへ猛突進する!「カイン様を護れッ!」リアナの悲鳴が場内に響く。


戦闘は再び、しかし今度は一方的なものではなくなる。狂暴化した魔狼の幼獣は信じられないほどの速度と驚異的な筋力を見せつける。憎悪が痛みを超越している。カインの光輝斬がその体躯を捉えるが、鋼よりも堅い毛皮と筋肉が威力を吸収し、深い傷は刻まれない。むしろ一撃が更なる凶暴性に火を注いだ!


「初級風魔法・風刃ふうじん!」フェリスが詠唱を急ぐ。鋭い風の刃が魔狼の体側を掠め、血痕を残すが致命傷ではない。


「初級光魔法・聖光箭せいこうせん!」シルラが冷静に光の矢を放つ。魔狼の動きを阻もうとするが、狂乱した標的には効果は薄い。


レックスが背後へ回り込もうとするが、魔狼の一閃のような尾撃にあっさりと跳ね飛ばされ、泥濘に叩きつけられる。


「畜生…!」ブリジットが怒号と共に戦鎚を振るう。その剛力で魔狼の正面突進を辛くも受け止めるが、衝撃で一歩後退を余儀なくされ、腕が痺れる。


カインが主な標的となる。秘銀製の精緻な胸鎧が鋭い爪痕で歪み、深い凹みを残す。一瞬の隙で肩を狼爪に掠められ、銀甲が破れ、鮮血が白い内装に飛沫する!「ぐっ…!」痛みでカインの動きが一瞬止まる。


「カイン様!」リアナが泣き声を上げ、必死に水縛いを放つが、狂暴状態の魔狼の前では水鎖はあっさりと粉砕される!


フェリスの風刃は焦りから乱射気味になる。


シルラの眉間に僅かに皺が寄る。


場内は混乱と危険に包まれた。観客席の歓声は消え、緊張した溜息と囁きに変わる。レオナ王女が微かに眉をひそめる。フラウィウスの目が一瞬、鋭く光る。


転がるように避け、低く唸り、逆襲し、かわし、皮肉が裂ける…


苦闘の末、ブリジットとカインの捨て身の連携が僅かな隙を生む。ブリジットが戦鎚を魔狼の後脚関節に叩き込み、その動きを一瞬止めた!カインが肩の傷を押さえながら渾身の力を込め、再び光輝斬を放つ!今度は魔狼の首筋の急所を正確に捉えた!


ザブッ!


鮮血が噴き出す!魔狼の幼獣が天を衝くような、全ての苦痛と無念を吐き出した断末魔の悲鳴を上げ、巨体が地に倒れ伏す。四肢が痙攣し、やがて動かなくなる。血眼は、カインの立つ方向を呪いながら、ゆっくりと光を失っていった。


【カイン・ブライトブレード 経験値獲得!】


【ブリジット・アンヴィル 経験値獲得!】


【フェリス・フレイムハート 経験値獲得!】


【シルラ・スティルウォーター 経験値獲得!】


【レックス・スライフォックス 経験値獲得!】


カインが剣にすがって荒い息を吐く。顔面は蒼白で、肩の傷口はまだ血を滴らせている。秘銀の鎧は泥と血糊で汚れ、無数の傷痕が刻まれ、最早開演時の輝きはない。リアナが慌てて駆け寄り、初級治癒術の柔らかな光を当てる。フェリスとシルラも駆け寄り、心配と安堵の入り混じった表情を浮かべる。ブリジットは顔の汗(あるいは血?)を手の甲で拭い、魔狼の死骸を一瞥すると、眉を強くひそめた。レックスは息を切らして立ち上がり、明らかに動揺を隠せない。


観客席からは、先程とは質の異なる、より熱烈で長い拍手と歓声が沸き起こる!今度は、危地を脱した安堵と、血みどろで戦った勇者たち(主にカインとブリジット)への敬意が込められていた。王女の顔にも称賛の微笑みが戻る。護民官フラウィウスも拍手するが、その視線は、闘技場の端で泥まみれになりながらも(最初の狼狽以外は)無傷だったシオン・ブラックソーンを、深く、深く見据えていた。


シオンは呆然と全てを見つめていた。カインがトロールを斬った輝かしい瞬間から、魔狼の奇襲による混乱と流血、カインたちの死闘と辛勝まで…彼は完全な部外者だった。背中の擦り傷が鈍く疼くが、それは異世界冒険への最後の僅かな情熱すらも粉砕された心の痛みに比べれば無に等しい。彼は力の真の姿を見た──掛け軸の冷たい紋章でも、王女の口にする神聖な曙光でもない、泥濘と血潮と苦痛の咆哮と絶望の眼差しだった。カインの輝きは、そうした残酷さの上に成り立っていた。そして彼は、その泥濘にすらまともに足を踏み入れる資格もなく、端で震えるだけの、恥辱の脚注でしかなかった。劣等感という冷たい海流が、シオン・ブラックソーンという存在を完全に呑み込んだ。


裏路地リンチ


訓練終了の通路は冷たく長い。他の勇者たちが従者や仲間に囲まれ去っていく中、カインはフェリスとリアナに気遣われ、ブリジットは戦鎚の血糊を黙って拭い、シルラは無表情、レックスは遊び人の顔を戻すが瞳の奥に動揺の残滓。


シオンは独り、重い足を引きずり隊列の最後尾を歩く。前方から漂う無言の排除感。背後の観客席の、未だ冷めやらぬ嘲弄の視線。


「おお、我らが『火球大師かきゅうだいし』の御帰還か!」油の滴る声が角で響く。レックス・スライフォックスが冷たい石壁に寄りかかり、両腕を組んで立ち塞がる。嘲笑が剥き出しだ。通りかかったフェリスとブリジットが足を止める。


フェリスは一瞥し、火炎の髪を翻す。「下らん」吐き捨てるように言い、速足で去る。


ブリジットは一瞬足を止め、シオンの魂の抜けた顔と泥まみれの服を見つめる。眉を顰め、唇が微かに動いたが、結局かすかなため息と共に首を振り、雷のような足取りで立ち去る。


彼女たちの無視が、冷たい触媒となる。


レックスの笑みが毒々しく歪む。一歩踏み込み、声を潜めるがシオンに確かに届く音量で言う。


「ちぃっちっち…実に絶妙な演技だったぜ、ブラックソーン『閣下』!巨魔に震え上がり、隅で丸まる小鹿…挙句にカイン様へ狂暴な『サプライズ』まで届けるとはな!あの小狼の『あの眼』も、お前の手柄だぜ?へへっ…」


言葉一つ一つが毒針のように心臓を刺す。シオンは反論しよう、怒鳴ろうとするが、喉が詰まり「ぐ…ぐぐ…」という音しか出ない。怒りと恥辱で体が微かに震える。


「知ってるか?」レックスの声が毒蛇の舌のように滑る。他人の苦しみを味わう愉悦に満ちている。「お前が震えてた姿さ…貧民窟スラムの野犬に追い回される雑種ざっしゅそっくりだったぜ?役立たず(やくだたず)は役立たずだ。『涙』に当たって、『勇者ゆうしゃ』の仮面を被っても…」声が急に鋭くなる。「骨の髄までが下賤げせんどろだ!この…異世界のいせかいのくずが!」 掌でシオンを強く押す。


ドン! 背中が石壁に激突!


(異世界…!?まさかあの時の…!あいつも…!)


「今の火球、いいタイミングだったな?ゴブリンの火葬係でもやってたのか?」嘲笑が歪む。


屈辱が残り火に油を注ぐ!シオンの右掌がオレンジ色に燃え上がる!


「黙れッ!」


捻じれた火球が形成される!


「おや?」レックスが嘲笑を崩さず、蛇のように滑り込む!中級体術・蛇絡じゃからみ!


左手がシオンの手首を鉄の鉤爪の如く締め上げ、魔力の流れを断ち切る!同時に右肘が凶器の如くシオンの脇腹神経叢しんけいそうを殴打!


「ぐああっ!」肺の空気が絞り出される!火球がパチパチと散る。


シオンが前のめりに崩れる!


レックスの膝が追い打ちを刺すように腎臓じんぞうを貫く!


ドスッ! 顔面が石畳めがけて叩きつけられる!鋭い痛みと共に歯茎から血の味が噴き出す。視界が歪み、砕ける。


【前世フラッシュバック】


コンクリートの冷たさが骨を刺す。ボロ布をまとった身体が丸まる。複数の汚れたスニーカーが肋骨を蹴り上げる!「見ろよこの浩一こういち雑魚ざこ!」「弁当代も守れないカスが!」「泣けよ!母ちゃんみたいに泣き喚けよ!」


震えるだけの自分。恐怖が魂に『廃物はいぶつ』の烙印を押す。暴力が「佐藤浩一」という存在を否定し尽くす瞬間──


現実へ引き戻される。


「ぐっ…ううう…」シオンが壁を伝い崩れ落ちる。両腕で頭を抱え込み、膝に顔を埋める。震える肩。勇者の仮面が剥がれ、ただの『廃物』佐藤浩一が露わになった。


レックスは崩れるシオンを見下ろし、芸術品を鑑賞するように薄く笑う。


「脆すぎだろ。『火球』一つで天狗てんぐかよ?」唾を吐き捨てる。「スキルは金とコネで前もって習得できるんだ。孤児院のゴミ共が一生習えねえのも無理ねえがな」


鼻歌混じりの口笛を吹きながら、闇へ消える。


「うぅ…」嗚咽が石畳に零れる。異世界英雄の幻想は砕けた。ここには龍傲天りゅうごうてんもハーレムもない──前世の路地裏で踏みつけられる佐藤浩一が、ただ牢獄の名を「シオン・ブラックソーン」に変えただけだ。


月光の下


砕けたガラスのような月光が、オーレオン宮殿の冷たい大理石を無造作に散らす。シオン・ブラックソーンは回廊の柱に寄りかかり、自分を石に同化させようとしていた。背中の擦過傷はもう疼かない。代わりに、白日の喧騒、巨魔の獣臭、魔狼の断末魔、カインの剣閃、レックスの嗤う顔──全てが焼けた針となり、千瘡百孔せんそうひゃっこうの魂を貫き続ける。体内は荒涼とした凍土。ただ恥辱と劣等感が骨髄の奥で燻り続ける。指が無意識に柱の剥がれた塗料の欠片を弄るが、その感触は脳に届かない。視界はボケ、世界は歪む。向かいの壁に掛かった開拓戦争のタペストリーは、蠢く暗赤と鉄錆の染みにしか見えない。空気に漂う古い薫香と石塵と金属の匂いが、腐った墓穴の香りに思える。


その時、足元の砕けた月光に、柔らかな影が落ちた。


シオンは鈍重に、自棄のようゆっくりと顔を上げた。霞んだ視界に、まず映ったのは、糊で堅く漿洗のりでかたくしょうせんされた深紺のスカートの裾。その下に覗く、真っ白なエプロンの端。そして、質素な黒い布靴を履いた、細くて蒼白な足首。視線がさらに重い首を持ち上げ、女僕服の腰、そして──薄暗がりに浮かぶ顔へと至る。


月光が輪郭を危うく照らす。深い栗色の髪が厳密に後ろで纏められ、地味なヘアネットに収められ、不自然に青白い額を見せている。その瞳…闇の中で大きく見えるその瞳が、シオンの心臓を突然締め上げる感情で満ちていた──貴族たちの偽りの憐れみでも、レックスの悪意の嘲笑でもない。深く、ほとんど苦痛に満ちた…優しさ?


彼女は恭順を示すようにひざまずき、シオンの前方の冷たい床に、完璧な距離を保ちつつ座った。差し出す手には、端が擦り切れているが異常なまでに清潔な、白い麻のハンカチが整然と畳まれている。


「お殿様とのさま」声はとても低く、壊れやすいものを恐れるように、かすかに嗄れている。「夜露よつゆ冷たうございます。石段いしだんに長くお座りになりますと、お体を冷やされます」


訓練された女僕の言葉遣い。敬虔で距離を置く。


シオンは呆然とハンカチを見つめた。この冷たい宮殿で、奈落の底に落ちたこの瞬間に差し出される善意が、現実離れしている。喉が渇き、声が出ない。ただ涙がさらに視界をぼやけさせる。


動かないシオンを見て、女僕──セリーナ・シャドウウィーヴ──はハンカチをシオンの隣の、汚れていない石段の上にそっと置いた。彼女が顔を上げ、シオンの涙の跡と絶望で満ちた顔を一瞬で掠める。その瞳の奥で、何かが激しく波打った──縛られた獣が檻を破ろうとするかのような激しい葛藤が。しかしそれは一瞬で消え、氷の仮面が戻る。


「今日の…戦い(いくさ)」声をさらに潜め、禁句を口にするように。「あのような魔物に初めて立ち向かい、無事でいられたのは…それだけで勇気のあかしでございます」慰めの言葉は棒読みに近いが、『勇気』という二文字が、灰の中の微かな火花のように光る。「成長には…時が必要でございます。お殿様は…」一呼吸置き、言葉に重みを込める。「他の方々とは、違うかたでいらっしゃいます」 その言葉を言い終えると、彼女は深くシオンの混乱した瞳を見つめた。まるでその瞳を通して、何か大切なものを確かめようとするかのように。


その眼差し! その奥底に必死に押し殺された、見覚えのあるもの! シオンの呼吸が止まる。前世の孤児院の薄暗い灯りの下で、いつも彼の前に立ち、頑なで優しい眼差しで彼を守ってくれた少女の面影が、眼前の薄暗がりに浮かぶ蒼白で無表情な女僕の顔と、一瞬で重なり合う!


「エッ…」声が詰まる。


「エリー?」 その名前が、信じられないほどの震えと、溺れる者が浮き輪を掴むような狂おしい期待を込めて、口を突いて飛び出す。声は嗄れ、引き裂かれているが、二つの世界を跨ぐ探求と願いが込められている。彼は無意識に前のめりになり、眼前の人の腕を掴み、その顔をはっきり見て、この絶望の淵で唯一見えたかもしれない光を確かめようとする──


指先が深紺の袖に触れようとしたその瞬間──


セリーナの身体が、目に見えない電流に打たれたかのように硬直し、後ろへ跳ねる! 彼女は驚いた小鹿のように素早く立ち上がり、細かな風を起こす。ほんの一瞬前まで満ちていた心配と葛藤は、厚い「職務」という氷の層で完全に封じ込められた。その大きく見開かれた瞳には、冷たい、ほとんど恐慌に近いほどの隔たりだけが残っている。


「お見それ(みそれ)いたしました」彼女の声は平板で、他人事を告げるようだ。深く頭を垂れ、シオンの驚愕、期待、そして急速に失望と混乱へと変わる眼差しを避ける。「私は東翼の雑役を務めるメイド、セリーナ・シャドウウィーヴと申します」 彼女はわずかに間を置き、言葉を研ぎ澄ます。「お求めの…『エリー』というお方は存じ上げません」


シオンの差し出した手が虚しく空中で止まる。指先には、ほんの一瞬前に袖の感触が触れそうになったという感覚だけが残る。彼は眼前の、突然見知らぬ、規則に従順なだけの顔を見つめ、心臓に沸き上がった狂おしい喜びは、氷水を浴びせかけられたように消え、鋭い寒さと深い虚脱感だけが残る。間違いだったのか? 錯覚だったのか? だが、あの眼差し…あの感覚は…


「夜深しになりました。おおんからだをお大切に」女僕──セリーナ──は感情のない調子で言い放つ。それは必要最小限の定型文だった。彼女はシオンをもう一度見ることすらせず、素早く背を向けた。深紺のスカートが決然とした弧を描き、逃げるような足取りでありながら、女僕として許容される小刻みな早足で、回廊のより深く、より濃い闇の中へと消えていった。彼女の細い背中は闇に溶け、ただ空気中に、かすかに、しかし確かに残るラベンダー石鹸の清潔な香りだけが残された──孤児院の洗濯場で使われていた安価な洗濯粉の匂いとは、まるで違うものだった。


シオンはその場に呆然と座り込み、差し出した手が無力に垂れ下がる。指先が触れたのは、冷たい空気と、石段にぽつんと置かれた、孤児のような白いハンカチだけだった。回廊は再び沈黙に包まれ、月光だけが冷たく降り注いでいた。ほんの一瞬だけ感じた、あの非現実的な温もりは、氷の湖に投げ込まれた小石のように、さざ波が広がり、消え去った後、より冷たく、より深い絶望と困惑だけを残した。『エリー』という呼びかけの余韻が、冷たい石壁の間でこだましたように思えたが、それもすぐに消え、ただ巨大な、空虚な疑問だけが心臓を押しつぶし、息もできないほど重くのしかかっていた。


世界は再び、砕けた月光と、冷たい石と、そして独り──全てに見捨てられ、唯一の救いの可能性さえも泡と消えた、無能なシオン・ブラックソーンだけのものとなった。


暗影のシャドウウェブ・密室


魔法灯の白い光が壁の荊棘鳥紋を照らす。羊皮紙と鉄錆の匂いが沈殿する。


セリーナ(エリー)が俯いて立つ。向かいの影に直属上司『灰色梟グレイアウル』マルコが指で烏木の机を叩く。


「セリーナ・シャドウウィーヴ。進捗は失望だ」声は金属を磨くよう。「『黒茨』は依然として泥濘に足を取られ、価値ゼロ。フラウィウス閣下の忍耐は…有限だ」


エリーの袖の中の指が拳を握る。「対象は臆病で基礎が──」


「時間?」嘲笑で遮る。「護民官派に廃物は不要だ!だが廃物も…王党派に回収されぬよう我々の檻に繋がれていれば『廃物利用』だ」体を乗り出す。「お前がその首輪だ。過去と情で廃犬を檻に誘え」


エリーが身震いする。


「フラウィウス閣下は完全掌握を望む」マルコの視線がエリーの首輪を撫でる。「次に進捗なき場合…『忠誠の枷』が解ける末路は分かっているな?」


以降の五日間


以降の五日間は、凝固した辱めの循環となった。


毎日、血錆と絶望の臭気が充満する「栄光の闘技場」に足を踏み入れ、同じ魔物の陣列(スライム、ゴブリン)──時に危険な変異種を交えながら──に対峙する。シオンの剣は相変わらずぎこちなく、火球の制御はなお困難だった。全ての「勝利」が、深まる疲労と観覧席からの無言の嘲笑を連れてきた。カインの輝きは日に日に増し、レックスのいじめは毒針のように正確かつ悪質化し、周囲の無関心は鉄のように硬化していく。唯一の「挿話」は、ある日彼が放った火球が場を囲う強化魔法蔓グリーンブライアに誤射し、監視役のガーヴィン・ドラゴンスパインの冷たい視線と、護民官フラウィウスの観覧席に刻まれた、一層深い玩味的な微笑を招いたことだ。


そして今日、遂に「嘆きのホウィーピング・ルーツ」迷宮へ踏み込み、真の実戦の日を迎える。


栄光尖塔グローリースパイア地下・嘆きのホウィーピング・ルーツ迷宮


腐敗した甘い香り。世界樹の根が織りなす迷宮浅層を支配する匂いだ。石の隙間から蠢く蛍光苔と巨大な腐生キノコが、幽青と惨緑の光を放ち、湿った粘液に覆われた焦げた巨根を内臓のように照らす。呼吸のたびに冷たくぬるい胞子を飲み込む感覚。足元は生物の骨片と腐った根が混ざる黒い腐植土で、踏むたびに不気味なベチャリという音を立てる。


初めてのパーティ探索。七人の勇者は巨獣の消化器官に落ちた塵のようだ。カインの鎧が幽光に冷たく反射し、リアナの杖先に水の気配が漂う。フェリスの指先には火の粉が、シルラには氷の霧が纏わり、ブリジットの戦鎚が後ろに引きずられ、レックスの影が歪んだ光に溶ける。シオンは隊列の最後で、掌にオレンジの火球を不安定に溜めていた。


「左分岐。Lv15腐根甲虫三体。甲殻に毒。弱点は腹部」シルラの無感情な声が氷柱のように落下。


カインの剣閃が甲虫の腹部軟部を貫く!


フェリスの風刃が鞘翅を裂く!


ブリジットの戦鎚が腐った根ごと最後の一体を肉塊に叩き潰す!


効率的で冷酷な連携。シオンの火球は照準すら合わせられなかった。余計な観客のようだ。


深部へ。蛍光苔の光はまばらに。闇が粘稠な墨のように迫る。重圧が増す。


突然!


先鋒のレックスが悲鳴を上げて後退!


ドッゴォォン!!!


数人抱えの湿った苔むした巨根が崩落! 腐植土と胞子の濁流が噴き上げる! 塵煙の中から通道を塞ぐ巨影が現れた──


Lv25洞窟トロール! 闘技場の個体を超える巨躯! 吸光性の瀝青色の皮膚に鎧のような石灰化した菌斑をまとう。手にするのは先端が尖った暗緑色の粘液に塗れた巨大な腿骨! 飢餓の混濁した黄眼が燃えている。


「散開!」カインの怒号と共に剣が膝を刺す!


カンッ! 火花が散り、菌斑に白い傷跡が残るだけ! トロールの腿骨が横薙ぎに!


カインが飛退く! 骨棒の悪風がマントを翻す!


フェリスの火球が胸部を焦がすも、皮膚に届かず!


リアナの水縛いが粉砕される!


シルラの氷錐が菌鎧に跳ね返る!


絶対的な混乱! 狭窄な通道で巨体が壁となる。腿骨の一撃ごとに死の旋風が巻き起こる!


「背後を塞げ!」ブリジットの咆哮が響く。


トロールが劣悪な知性を見せ、腿骨をレックスめがけて振り下ろす!


レックスが必死に転がり避ける! 骨棒が洞壁を砕き岩の雨を降らせる!


その瞬間! トロールの背中が無防備に晒される! シオンは岩を避けて斜め後ろにいた!


チャンス!


熱血が頭に上る! 恐怖もレベル差も忘れ、力が掌に集結する!


「火球術!」叫びと共にオレンジの火球が無防備な後腰へ直撃!


ドゴォン!


爆炎が黒い菌鎧を焼く! トロールが苦痛の咆哮を上げ、巨体がよろめく!


だがLv2の火球は表面を焦がしただけ!


痛みがトロールを狂わせる! レックスを捨て、巨体が信じられない速さで回転! 怒りの黄眼がシオンを捉えた! 深淵の凝視だ!


終わりだ!


血液が凍りつく。足が腐植土に釘付けになる。


トロールの巨口が涎を垂らし開く。腿骨が死の影を落とす。時間が止まった──腿骨の先端にこびりついた暗緑の血塊、強烈な腐臭が脳を貫く。


「邪魔だ! 役立たず!」


雷のような怒号が死の静寂を破る! 闘気に包まれた塊が側面から突撃してきた──ブリジット・アンヴィルだ!


自らを盾にしてトロールの肘関節へ体当たり!


ガキッ! 骨の軋む音! トロールの腕が歪み腿骨が飛ぶ!


ブリジットも衝撃でよろめき、口元に血痕。傷ついた雌獅子のような眼光で、衝勢のまま戦鎚を振り下ろす!


「跪けええ──ッ!」


ズドッ!!!


赤い闘気を纏った戦鎚が攻城砲のように、無防備な腰椎を叩き割る!


ブチッ! ボキッ! 骨砕け内臓潰れる音! トロールの巨体が脊髄を抜かれた泥のように崩れ落ちる! 汚血と臓物がブリジットの戦靴を染めた。


巨体が痙攣する。血腥と内臓の悪臭がキノコの香りを圧倒する。幽光に照らされ、ブリジットが戦鎚にすがって息を弾ませる。汗に濡れた赤褐色の髪が額に貼りつき、瞳は焼刃のように腐植土に崩れるシオンを穿つ。心配など微塵もない。熔鉱炉の怒りと氷のような失望だけだ。


「怠惰? 臆病?」声は低いが、戦鎚のようにシオンの魂を打ち、洞壁の菌光を震わせた。「違う! これは殺意だ! 仲間への殺意だ! 次に足を引っ張ったら…」一歩踏み出し、血糊にまみれた戦鎚の柄がシオンのあご先にかすかに触れる。「貴様の骨を砕いてくれるわ」 言葉一つ一つが焼けた釘のように魂に打ち込まれる。


シオンを見ず、リアナの治癒術を受けるカインへ歩き去る。フェリスは嫌悪の一瞥を、シルラは邪魔な塵を見る目で。レックスは擦り傷の腕を押さえ、シオンに無言の首切りジェスチャーを送る。


シオンは冷たくぬるい腐植土に座り込んだままだった。トロールの脊椎が砕ける鈍響が頭蓋に残る。頬に飛んだ血の温もりと鉄臭。足元の腐植土が蛆虫のように蠢く。菌類の青緑の光が歪み、背を向けた仲間の影を巨大な審判の図像に変える。ブリジットの「殺意」という烙印が魂に焼き付く。異世界の夢も勇者の栄光も、血腥と腐臭にまみれた地底で打ち砕かれて葬られた。菌光と汚血の影で震えながら、彼はうずくまる。抑えた息遣いが巨根の墓所で虚ろに反響する。


(そうだ…俺にできるのは仲間の足を引っ張ることだけだ。ニートの鈍い神経はRPGの前でキーボードを叩くのに向いてるだけだ。転生してやり直すとか、剣を振り続けるとか…自己麻薬でしかなかったんだ)


仲間たちの視線と迷宮の瘴気が絡み合う。無形の絞首縄が「佐藤浩一」の筋肉と神経を断ち、脳漿と心臓を毒蛇のように噛み砕く。


(多分俺は生まれながらに罪を背負ってるんだろう)


六日目の黄昏・王宮裏路地


シオンの魂は毎日の蹂躙で麻痺した。繰り返し打たれる鉄塊のように空洞だ。訓練を終えた冷たい雨に打たれ、彼は幽鬼のように宮殿の裏路地へ彷徨い出た。雨水が凹凸の石畳を濁った小川に変え、壁際の苔から陰湿な黴臭を放つ。金色の宮壁が鉛色の雨の中であらゆる温もりを拒絶する。


物陰の雑貨の影が微かに動いた。


地味な傘が無言でシオンの頭上を覆い、冷たい鞭打ちを遮った。


シオンが顔を上げる。


彼女だった。王女付き女中。質素な灰色のドレスが雨に濡れ、額の黒髪が蒼い頬に張りつく。いつも俯いていた瞳が今、シオンの頬の痣と泥を一瞬で掠め、奥底で何かが激しく震えた──驚いた子鹿のように。すぐに氷の平静で覆い隠される。


「雨が強い。風邪を召されます」声は雨よりも冷たく平ら。視線は路地の汚水を固視したまま。差し出された傘の指が細く、力んで白い。シオンの濡れた袖に触れた時、かすかに震え、すぐに引っ込めた。


その震えと瞳の揺らぎが、シオンの麻痺した殻を破る。孤児院の雨夜、震えながら彼の冷たい手を握ったエリーの感覚が──今この瞬間と重なった!


「エッ…」


名前が喉まで飛び出そうになる。

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