第9話:回収、吸収、火盗人(クロノ・フェンリル視点)
空気に漂う匂いに、クロノ・フェンリルは小さな鼻を嫌悪で皺めた。新たな戦いの鉄臭でも、魔物の巣の腐臭でもない――…それは「洗練された死」の気配だった。高価な薫香、焦げた絹、そして……大量の人間の血が放つ鉄錆のような甘ったるさが混ざり合っている。
「ガシャン!」
彼女は大雑把に、金雀花の精緻な紋様が刻まれながらも蜘蛛の巣状に裂けた豪華な扉を蹴破った。扉枢が瀕死の呻きをあげる。
「ちっ、めっちゃ散らかってんぜ」 ぶつくさ言いながら、異色の双瞳(左:深林の奥泉のような翠緑、右:砕けた星雲のような深紫)がヴェランディル王国王女寝室の惨状を掃視した。
ここは一方的な虐殺――あるいは「掃除」が終わった直後だった。高価なオーレオン金糸絨毯は、黒ずんだ濃褐色の凝血で広範囲に浸り、硬化している。壁面には放射状の血飛沫と、何らかのエネルギーで焼かれた焦げ痕が飛び散っていた。
精巧な化粧台とその上にあった価値千金の宝石箱は、巨力で粉砕され、水晶の破片と真珠が血溜まりに散らばっている。
華麗なカーテンは半分もぎ取られ、斬り落とされた翼のように垂れ下がる。空気には微弱ながら狂暴な魔力の残滓と――…「開拓の竜尾」ガーヴィン・ドラゴンスパインの、万年氷のような冷気を帯びた剣気の余韻が漂っていた。
クロノの視線は部屋の中央で固まる。
エリー・ワイルドベリー――あるいはセリーナ・シャドウウィーヴ――の遺体が、血泊の中心で歪んだ姿勢を取って倒れていた。深紺のメイド服は血で染まり、黒ずんだ濁色に変色している。首はありえない角度で後方に折れ曲がり、断裂した頸椎が蒼白い皮膚を突き破って白骨の一部を晒していた。かつて優しさ、強さ、苦痛、そして最期の絶望で満ちていた栗色の瞳は、今では虚ろに大きく見開かれ、生命の最終瞬間の驚愕と……一抹の信じがたい悲しみを凝固させていた。右手はなおも、死に物狂いで、しかし無意味に、首筋を押さえつけており、指の隙間からは細い銀鎖と、その鎖に繋がれた鳩の卵大の――しかし今は蜘蛛の巣状に亀裂が走り、完全に輝きを失った翠緑の宝石が見えた。
「あーあ…」 クロノは毛深い狼のような獣耳を掻き、鮫のような鋭歯が薄暗い光の中で冷たく光る。その口調は凶暴な外見に似つかわしくない、ほとんど無邪気な困惑を帯びていた。「めっちゃ死に様が悪いぜ、エリーちゃん。ボスが知ったら…」 言葉を途中で切り、煩わしい思考を振り払うように首を振る。血溜まりや破片を巧みに避けながら、大股で近づいた。
エリーの遺体の傍らにしゃがみ込み、翠緑と深紫の異色瞳が生気を失った若い顔を間近で見つめる。「ちっ、面倒な人間の感情。」 手を伸ばすが、その動きは意外にも優しく、エリーの瞼をそっと撫で、見開かれた瞳をようやく閉じた。「でもな、ボスはお前に結構気にしてたみたいだぜ。」 独り言のように呟く。「だから、虫の餌にさせてやらねーよ。」
パチン、とクロノが指を鳴らす。眩い光はないが、エリーの遺体の周囲の空間が水紋のように揺らめいた――次の瞬間、遺体とその下の血に浸った絨毯は、無形の消しゴムで消されたかのように跡形もなく消え去り、辺縁が滑らかな、不自然な「清潔」な領域だけが残った。まるで最初から何も存在しなかったかのように。
「よし!」 彼女は手を叩き、ちょうどゴミを捨てたかのようだった。だが異色瞳の奥底で、翠緑の眸がごく微細な、捉えがたい波動を走らせた。残留する時間の刻印を読み取っているようだった。無造作な表情が一瞬引き締まり、眉がかすかに顰められる。「……ネックレスが光った? ボスの目の前で? ちっ、マジで…バカすぎ。」 言い切れない苛立ちがその口調に混ざっていた。
次の瞬間、彼女の姿は影に溶け込む墨のように、音もなくその場から消えた。
ヴェランディル王国、唯一神正教大聖堂深奥、祈願の間(Sanctum of Supplication)。
ここは聖潔、厳粛、光輝に満ちた場であるはずだった。しかし今、空気を支配するのは別種の息詰まる力だった。高い天井には唯一神ソルス・デウスの創世偉業を描くステンドグラスが嵌め込まれ、その斑瀾たる光線が床面の巨大な魔法陣に歪んだ奇怪な色彩を投げかけていた。魔法陣は液状の黄金のように流動するルーン文字で構成され、その中核に浮かぶのは、不吉な波動を放つ「勇者の涙」だった。もはや純粋な輝きはなく、内部には濁った影が渦巻き、かすかに無音の悲鳴が漏れているようだった。
魔法陣の三つの頂点に、三人が立つ。
王女レオナ。純白に金をあしらった威厳ある祭服に着替え、溶けた黄金のような金髪を垂らし、碧眼が宝玉の幽光に照らされて狂気じみた歪んだ輝きを宿している。両手を高く掲げ、古めかしく難解な祈祷文を詠唱するその声は、非人間的な虚ろさと威厳を帯び、儀式の力を導いていた。
彼女の傍らには、最高位神官の白袍をまとった老いた男が立つ。枯れた容貌に濁った眼差しだが、強大な神聖波動を放っている。彼の手に握られた純金の杖の頂点の宝石から、乳白色の光線が魔法陣に伸び、儀式の安定と「聖なる」偽装を保っていた。
魔法陣の中核、冷たい黒曜石の祭壇に横たわるのは、シオン・ブラックソーンだった。
彼は上半身裸で、皮膚の下で無数の細い、生きたもののような金色の光流が狂ったように走り回り、もがき、まるで体外に飛び出そうとしている。身体は無形の力で祭壇に固く縛り付けられ、激しく痙攣し、全ての筋肉が苦痛に歪んでいる。汗と涙、そして口角から溢れる血の泡が混ざり合い、身下の石台を濡らしていた。彼の意識は、激しい痛みと混沌の深淵の中で漂い、砕け散る嵐の中の小船のようだった。
(シオン視点)
光が…熱い…金色の炎…燃えてる…骨…骨髄…全てが焼ける…
(神経を引き裂く激痛)
音…ブンブン…うるさい…レオナ…歌ってる…何が…耳が痛い…
(祈祷文がノイズに歪む)
寒い…祭壇…冷たい…エリーの…雨の夜…の顔のよう…
(瀕死の記憶)
エリー…ネックレス…緑の光…点滅…逃げて…
(深まる絶望)
力…奪われてる…まるで…魂…引き裂かれる…空っぽ…空っぽに…
(剥離される虚無感)
ガーヴィン様…訓練…剣…重い…振れない…
(無力感)
鏡心湖…水…澄んでる…エリー…笑ってる…ごめん…俺…弱すぎた…
(夢幻の残像)
「ぐっ…ああ…はあっ…」 押し殺せない、瀕死の獣のような苦悶の呻きが彼の喉から断続的に漏れ、息を吸うたびに身体が激しく痙攣した。
レオナの狂気はさらに増し、詠唱は突然鋭く高まる!魔法陣の光が瞬時に眩しくなった!「勇者の涙」は狂ったように回転し、内部の濁った影の渦は激しさを増し、さらに巨大で、さらに精純な金色のエネルギー奔流が、強力なポンプで吸い取られるように、シオンの胸――心臓の位置――から無理やり剥ぎ取られ、引き抜かれた!それは祭壇へと注ぎ込む、まばゆい金色の光柱となった!
「もうちょっと…あと少し…役立たず…お前の最後の価値を…捧げよ!」 レオナの声は興奮の震えを帯び、その眼には貪欲に力を吸収する宝玉しか映っていない。
クロノ・フェンリルの姿が、最も深い影のように、「神罰魔物」の図柄が描かれた巨大なステンドグラスの窓の裏に、音もなく張り付いていた。翠緑と深紫の異色瞳は色ガラスの遮りを貫き、祭壇で起きている一切を鮮明に「見」ていた。
「チッ!」 彼女は不満げに鮫のような歯を剥いた。鋭い先端が冷たい光を放つ。翠緑の眸は、シオン体内の「勇者の力」を示す金色の光流が、粗暴に、不可逆的に剥ぎ取られ、「勇者の涙」へと流れ込むのをはっきりと捉えていた。さらに苛立たせたのは、彼女が「見」たもの――シオンの魂の奥深くにある「無限の可能性」を象徴する、宇宙の星雲のように回転し拡張する微小な中核――レベル上限無しの潜質――が、力の剥離と共に褪せ、危うく揺らいでいることだった!これはボスの未来にとって最も重要な礎の一つだ!
「超面倒!マジで面倒くせえ!」 彼女は苛立って小さな拳で冷たい石壁を叩いた。力加減は完璧で音は立てなかったが、壁の内部は無音で亀裂が走った。「ボスが今からマジの干物にならねえ!これからガチンコやりまくるのに!でも…でも今手を出すと…」 深紫の眸が激しく閃き、無数の乱れ絡み合う光の糸を映し出した。強引な介入が引き起こすかもしれない連鎖的嵐――タイムラインの激しい歪み、強大な存在(唯一神教会や、あの純白の影さえも)に察知されるリスク、ボスの成長軌跡の完全な崩壊…
無鉄砲な衝動がマグマのように彼女の血管を奔流する。今すぐ飛び込んで、気取った狂王女と干からびた神官を爪で引き裂き、そのクソ玉を口に押し込みたい!しかし未知なる未来の可能性が、彼女を強引に押しとどめた。
「ダメだダメだ…ボス…クソッ!」 焦りで足を踏み鳴らし、獣耳が不安に震える。シオンの魂の奥で「無限」を象徴する星雲中核が、最後の力の奔流と共に完全に吸い取られようとし、ますます輝きを失っていく!
その中核の光が消え、宝玉に融合しようとする直前!
「知らねえ!ちょっとだけ!ボスには絶対バレねえぜ!」 クロノの眼中に投げやりな凶光が走り、子供じみた賭けの気持ちが込められていた。細かい鱗に覆われた指をシオンの方向へ突き出し、極めて密やかに、まるで時間の琴線を軽く弾くように!
光も音もない。だが深紫の魔眼の視界では、極めて微細で、ほとんど感知できない一本の時の糸が巧妙に絡められ、結ばれ、シオンの魂の奥底で褪せた星雲中核と、完全に離脱しようとする力の奔流の間に、微細でありながらも驚異的に強靭な時空の錨を打ち込んだ!この錨は力の剥離を止められないが、深く埋め込まれた種子のように、「レベル上限無し」の規則特性を強引に切り離し、封印してシオンの魂の最深部に留め、剥離された力の本体から巧妙に「因果」を断ち切ったのだ!
儀式魔法陣の光はこの瞬間、頂点に達した!「勇者の涙」は全てを飲み込む金色の強烈な閃光を爆発させ、満足げな共鳴音を轟かせた!シオンに属する最後の「勇者の力」が完全に搾り取られた!
祭壇の上で、シオンの身体は中身を抜かれたボロ人形のように瞬間的に崩れ落ち、全ての痙攣が止まり、かすかな、瀕死の呼吸だけが残った。彼の皮膚は死人のような青白さを呈し、金色の光流は完全に消え去った。意識は深い闇と寒冷の底へと完全に沈んだ。
…闇…寒い…エリー…鏡心湖…光が…消えた…
(意識完全沈没直前の最後の幻滅感)
レオナは狂喜に近い鋭い叫び声をあげ、宝玉に脈動する空前の強大な力を感じ取った!老神官も長く息を吐き、疲労と満足の笑みを浮かべた。
その瞬間!
祭壇の傍らの影に磐石のように立って静かに守護していたガーヴィン・ドラゴンスパインの、氷青色の隻眼が、実体化した刃のような鋭い光を爆発させた!彼は猛然と振り返り、寸分の狂いもなくクロノが潜むステンドグラスの窓を捉えた!極地の嵐のように冷たく、純粋で、破壊的な殺意に満ちた恐怖の気配が、無形の巨波のように祈願の間全体を轟然と襲った!
「誰だ?!」 ガーヴィンの声は万年の氷塊が激突するような響きで、全てを断ち切る鋭さを帯びる!右手は即座に背後の大剣「堡塁」の柄を握った!その沈黙の凶器は主人の意志を感じ取ったかのように低く唸り、無形の剣気が空気を切り裂く!
ガラス窓の裏でクロノは一瞬で逆立った!
ウワッ!バレた?!Lv150の番犬、さすが鼻が効くぜ!
翠緑の眸に一瞬驚きが走るが、深紫の眸は「やっぱりな」という面倒くさそうな表情を浮かべた。彼女は躊躇なく、姿が瞬時に薄れ、歪み、水中に滴り落ちる墨のように、ガーヴィンが一切を捉えた恐るべき殺意が届く前に、空間の皺へと完全に溶け込み、跡形もなく消え去った。その場に残されたのは、極めて微弱で、瞬く間に消える、時の塵のような空間の波紋だけだった。
ガーヴィンの氷青色の隻眼が、何もないステンドグラスを凝視する。先ほど一瞬かすめた、不吉で古めかしい威圧感を放つ気配……それは決して人間ではない!尋常の魔族すら超越していた!強大で、奇怪で、未知なる脅威に満ちていた!
「王女殿下、儀式は完了。異様な気配あり。直ちに巡察いたします!」 ガーヴィンの声は平然とした冷たさを取り戻したが、剣柄を握る手は一瞬も緩めなかった。彼はレオナの返答を待たず(彼女は力増強の狂喜に浸って余念がない)、影を引き裂く銀光のように一晃し、クロノが消えた方向へ猛然と祈願の間を飛び出した!重い足音は戦鼓のように遠ざかっていく。
祈願の間に残されたのは、宝玉の満足げな共鳴音、レオナの陶然とした凝視、神官の疲労した息遣い、そして祭壇の上に横たわる――力を失い、体温を失い、魂さえも抜き取られたかのような冷たい躯だけだった。斑瀾たるステンドグラスの光が、嘲笑う亡霊のように、シオンの青白い肌の上を音もなく流れる。闇が、粘稠な墨のように、彼を完全に飲み込んだ。