第壱章 一味傾心(参):星月夜の揚州炒飯
自動車のエンジン音も、工事現場の爆音も聞こえない。
動物も植物も山河も、文字通りすべてが眠りについてしまったように静かな夜だった。
原始的なろうそくの明かりだけに照らされた部屋で、私は変わらない画面をぼんやりと見つめていた。
「圏外……」
すいすいと指で操作してみても、アプリを開いてみても、スマホの画面は真っ白のまま微動だにしない。
当然ながら、ナビもネットもメールも使えなかった。
これじゃ外部とまともに連絡もできないじゃない。
そもそもこの世界に電波があるのかどうかすらわからないけれど。
「……これからどうしよう」
はああ、と肺の中身をぜんぶしぼり出すくらい大きなため息をつく。
今手もとにある私物は、使いものにならないスマホとかわいらしい黒猫のキーホルダーがついた家のかぎ。
それから小さな小銭入れ。
ちなみに最近の買い物はすべてネット決済ですませていたので、現金はほとんど持っていない。
急いで家から飛び出してきたせいで、ショルダーバッグにはこれっぽっちしか入っていなかった。
おまけに都会では便利だが、田舎ではたいして使い物にならないものばかり。
だれかに助けを求めるにしても、立て続けに起きた奇想天外な出来事をどう説明しよう。
「怪物に襲われて、気づいたら知らないところにいた……って、だれがそんな話信じるのよ」
実際に、あのあと小舟の上で――。
『信じられないかもしれないけど……私、別の世界からきたんだと思うんです』
腹をくくった私は、その場にいたふたりにこれまでのいきさつを語り始めた。
始終腑に落ちないといった顔をしながらも、黙って私の話に耳を傾けていた女の子とおじさん。
あらかた話し終えたあと、開口一番発された言葉がこれだった。
『かわいそうに……よっぽど怖い目にあったんだね』
『嬢ちゃん、まずは落ち着きな。以前のことは、これからゆっくり思い出せばいい』
「ちがう、そうじゃなくて」と何度も言葉を変えて説明したが、それ以上はなにを話しても同情の視線を注がれるだけで、まったく信じてくれなかったのだ。
頭が冷えてから考えてみれば、それもそのはずだった。
こんなばかげた話、たとえ聞いているのが仏様だとしても一度はそのふくよかな耳を疑ってしまうかもしれない。
「……ただの夢、じゃなさそうだけど」
私はゆらゆらとうごめく赤い炎に手をかざしてみる。
ちゃんとあたたかい。触覚ははっきりと残っている。
もっと近づけば指先からじわりと熱が伝い、それが本物の火であることは明らかだった。
今さらスケールの大きな妄想をしているだとか、死んでしまっただとかは考えられない。
あのとき見たもの、聞いたものはきっと幻などではなかった。
化け物が呼吸をするたびに届く吐息の腐臭、心臓にからみつくような威圧感。
脳から神経を通って、体全体の細胞まで、なにもかもがぞくぞくと這い上がってくるようだった。
たとえすべてが夢なのだとしても、相当よくできた夢だ。
「ひょっとして……ううん、ひょっとしなくても、私、ほんとに違う世界へ迷いこんできちゃったのかも」
うんうんとひとりでうなり続けていた私は、星明かりのこぼれる格子窓のほうへと歩み寄った。
ろうそくの炎のように輪郭のはっきりしないもやを胸にかかえ、夜の静寂にひたる。
こんなにさえ渡った星空はひさしぶりだ。
耳をすませば、ぎらぎらと星々のきらめく音が聞こえてきそうなくらいだった。
そのとき、とんとんと軽く扉がたたかれる音がした。
後ろをふり向き「はーい!」と元気よく声をかけると、小さく開いた扉のすきまから女の子が顔をのぞかせた。
「簡単なものだけど、ご飯作ってきたから食べる?」
私がなにかを言う前に、ぐううと腹の虫が大きな声で返事した。
◆ ◇ ◆
平らな皿に盛りつけられた黄金色の炒飯が、ふっくらとした丘になっている。
小高い丘を形作るのは、もちろんお米。米つぶひとつひとつが、すくい取ったしずくのようにくっきりと透き通った白米だ。
その上をにんじん、ねぎ、たまご、えびが華やかな彩りを添え、料理は白赤緑黄橙と見事な色彩の調和を生み出していた。
「わああ、おいしそうな揚州炒飯!!」
「ふふ、よかった。食べ物のことは覚えてるみたい」
「あ……そうね」
ほんとはぜんぶ、はっきり覚えてるんだけど。
そう言いたい気持ちを我慢して、私は下手くそな作り笑いをする。
彼女には悪いけど、ここは記憶を失っているという体のまま話を進めたほうが都合がよかったからだ。
あのとき、同じ小舟に乗っていた女の子は思明蘭と名乗った。
明蘭は森へ山菜をとりに行っていたところ、偶然近くに倒れていた私を見つけ、船乗りのおじさんに頼んで屋敷まで運んでもらっていたところだったのだそうだ。
そんな彼女は目を覚ました私が行くあてのないことを知ると、「うちに来る?」と言って快く屋敷に泊めてくれた。
突然押しかけてきたのにもかかわらず、彼女のご両親もいやな顔ひとつせずにもてなしてくれて。
私のために離れにある空き部屋を用意してもらい、汚れてしまった洋服の代わりに衣服まで貸してもらった。
「おそくなってごめんね。今あるもので急いで作ったから、口に合うといいんだけど」
しゅんとなる明蘭に私はびっくりして声を上げた。
「とんでもない! もうなんて言えばいいのか……助けてくれただけでもありがたいのに、服やご飯もくれて」
「私のことは気にしないで。お礼なら豆豆に言ってね」
「へ?」
私が首を傾げていると、ちりん、と聞き覚えのある軽やかな音と一緒に「ぽっぽー」と間の抜けた鳴き声がした。
明蘭の背後からひょっこりと首をのぞかせたのは栗色の山鳩だ。
「この子が最初に鳳璃を見つけてくれたの」
「わあ、ずいぶんおっきいのねえ。この子、明蘭が飼ってるの?」
「ううん。豆豆はただの愛玩動物じゃなくて、わたしの相棒なんだ」
意味深な言葉をぽつりとつぶやき、明蘭は足もとにすり寄ってきた豆豆をそっとなでた。
羽やくちばしをなでられた豆豆が翼をばたつかせると、足輪についた鈴がりんりんと鳴り響く。
いい餌をもらっているのか、茶色がかった羽にはつやがあり、あげもちのようにまるまると太っている。
丸焼きにしたらおいしそう……。
「鳳璃? なんだか目が、猛禽類みたいになってるんだけど……」
「……おっと」
いけない。命の恩人を胃袋に収めるところだった。
はっと我に返ると、明蘭が「そんなにお腹すいてたんだね」と声を上げて笑った。
それから冷めないうちにとおさじを手渡される。
私は今になってやっと、痛いほどの空腹に気づく。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
豪快によそわれた炒飯はふわりと胡麻油が香り、悪魔的な魅力を放っていた。
私はかしこまって手を合わせると揚州炒飯の小山を切り崩し、ぱくりと口に含んだ。
「うわあ、おいっしいい……!!」
考える間もなく、うっとりした声がもれる。
ふんわりとやわらかな口当たり。淡白だけどやさしい薄味。
ぱらりと炒められた食材が口のなかでほどけ、胸いっぱいに幸せな気持ちが広がる。
「えっ、鳳璃、泣いてる!? やっぱり味が合わなかった……!?」
「……ううん。おいひすぎて……」
私は炒飯を頬張りながら、こみ上げてきた熱いものを手のひらでぬぐった。
今までさんざんな目にあってきたせいか、久々に口にするまともなご飯は涙が出るくらいおいしかった。
全体的に薄い味つけではあるけど、それが逆に食材の味を引き立てていて。
やみつきになる味に、次々と揚州炒飯を胃にかきこむ。
はたから見れば行儀の悪い食べ方に違いなかったけど、今日ばかりはしかたがない。
夢中で炒飯を食べ続けていると、明蘭がふと神妙な面持ちになって口を開いた。
「ねえ、鳳璃。もし本当に行き場に困ってるんだったら、ここに住んでもいいんだよ? 記憶がもどるまでのあいだだけでもいいんだから」
「え、ほんとに!?」
願ってもない話に私は思わず前のめりになってしまう。
けれどもすぐに冷静になって思い直した。
どこぞの馬の骨とも知れない人がずっと居すわるのは、さすがにいやがられるのではないだろうか。
「え、ええっと。迷惑にならないかな? ご家族の方は……」
「大丈夫。わたしから話しておいたから」
いやがるはず、そう思っていた。
毅然と言い放った明蘭のさりげない親切が、じんわりと心に染み渡る。
「それに」と彼女は吹っ切れたような透明な瞳でどこか遠くを見つめた。
「ちょうど、同年代のお友達が欲しかったの」
一瞬の後。
ごくふつうにもどった彼女が気恥ずかしそうにはにかんで言う。
明蘭は本当に嬉しそうで、私はしばらくその天使のような笑顔に見入っていた。
……ん?
この子、今同年代って言った?
「そういえば、明蘭っていくつ?」
「え、えっと十六だけど」
「……一応言っておくと私、二十歳なのよねえ」
「え!? うそ……!?」
探るような視線が私の全身をかけめぐる。
むむむ、と虫かごにとらわれた昆虫みたいにじいっと観察される。
「ふふふ、まさか勘違いされてたなんて……私ってば、わりと若く見えてたのね?」
「あ……炒飯、もうなくなっちゃったみたい」
そんなことをしているうちに、私は一人前の揚州炒飯をぺろりと平らげてしまった。
でも足りない。足りるわけない!
「ぐぬぬ。今食べすぎたらぜったい太るのに……っ」
今日はいろいろなことがありすぎて、お腹がすいてしかたがなかった。
明日からちゃんと制限すれば、きっとあとひと皿くらいいけるはず。
「やっぱり炒飯おかわり! 私も作るの手伝うから!」
「はいはい」
それからはふたりで炒飯を食べながら、他愛もない話をし続けていた。
私たちは今日はじめて出会ったくせに、疲れて眠りにつくまでずっと一緒になって笑い合った。