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百味修仙美食秘譜 ―その異邦人、食神につき―  作者: 白玖黎
蘇国編 その異邦人、食神につき
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第壱章 一味傾心(弐):ようこそ、百味大陸へ


「あ、あれ? 道、合ってるはずなのに……」


 「ここさっきも通ったよね」という言葉の語尾が(しん)を失ったようにすぼむ。

 私はきょろきょろと視線をめぐらせ、あたりのようすと記憶のなかの景色を照らし合わせてみる。


 そびえ立つ朱塗りの門。ずらりと並ぶ屋台の珍味(ちんみ)。軒先につるされた数々の燈籠(とうろう)

 やっぱり()()だ。私は、数分前と同じ場所をずっとぐるぐると回り続けていたのだ。

 ただ違うのは、まるで存在ごと消えてしまったかのように人の姿が見当たらないこと。


 「そんなことある?」と頭のなかの冷静な部分が問いかけてくる。

 「たまにはあるよね」と楽観的な私はすぐに切って捨てた。


 そのとき、私はふと雨音に混じって音が聞こえてくることに気づいた。

 思わず眉をひそめてしまったのは、這うように伝わるそれがまぎれもない人の声だったからだ。



 ……ひひ、ひっく……くすくす……



 笑っているようにも、泣いているようにも聞こえる奇妙な声。

 反響する嬌笑(きょうしょう)が頭の奥を侵食し、耳もとをかすめる雨音が遠ざかっていく。


『ひっ……く……て、……やる』


 (はじ)かれたように正面を見れば、雨に濡れる視界の先に黒いシルエットが浮かび上がっていた。

 まだ日が沈むには早い時間だが、その周囲だけが(よど)んだ水底のように真っ暗。

 その理由は見ればすぐわかるのに、あまりにも信じられない光景に私の脳は理解することを拒絶した。


『ひひ、喰ろうてやる。喰ろうてやるぞ』


 「なにあれ」と思わずつぶやいた声はかすれていた。


 (とら)(たか)、他にも多くの動物のおそろしい部位をつぎ合わせたような異形。

 家よりも大きなそれは、脳裏に響く声に合わせて背を震わせている。

 くすんだ体表は一本一本が針のように鋭い毛で覆われ、頭部には禍々しい角がそそり立っていた。


 雨に打たれ、泥にまみれた巨獣が、大通りの中心で空を隠すように翼を広げていたのだ。


『ああ、忌々(いまいま)しい。憎々(にくにく)しい。神仙(しんせん)どもめ、余を異界に封じるなど。おかげでもっともっと、腹が減った』


 その口調はいやに楽しげだった。


 ブラウスが濡れているのは、きっと雨のせいではないだろう。

 本能が警鐘(けいしょう)を鳴らすように、胸もどくりどくりと動悸(どうき)を打ち始める。


『うまいもの、ニンゲンはどこだ。喰ろうてやる。喰ろうてやるぞ。残さず喰ろうた(あかつき)には、必ずや。必ずや、あやつらにさらなる狂気をもたらしてやるのだ。ひひ、ひひひ……』


 思わず足を引いた拍子に、ぱちゃりと背後の水たまりがよく響く水音を立てた。


 どくんと波打つように化け物の全身の毛が逆立つ。

 まずい――と頭で考えるよりも先に、こちらへ向けられた目玉と視線がかちあった。

 私の姿を認めた翡翠(ひすい)の瞳がニィッとあやしく三日月を描く。


『ああ、なんという僥倖(ぎょうこう)。こんなところにうまいもの!』


 うまいもの。

 やつの言うそれが、自分を指しているのだと気づいたとき、刃物のような(つめ)はすでに私を狙っていた。

 息をのむ間もなく身をこなごなに引き裂かれる――と思った、そのとき。


 シャー! と隣で威嚇(いかく)の声がした。

 かと思えば、眼前に迫った黒い影が消える。

 大砲のなるような音が(とどろ)き、巨獣の体が近くの建物にたたきつけられるのを私は見た。

 同時に、残像が残るほどの速さで巨躯(きょく)を吹き飛ばした長い影も。


「う、うそ……あの蛇!?」


 見覚えのある大蛇が、私をかばうように立ちふさがっていた。

 ふたまわりほど大きくなったその背中にさっきの弱々しい面影はない。

 ぎらつく牙をむき出しにして己よりも大きな相手に立ち向かう姿は、むしろたくましくすらあった。


『おのれ……まだ生きておったか、矮小(わいしょう)な邪神風情(ふぜい)が!』


 逃げ出すこともできずにその場で立ち尽くしていると、壊れたコンクリートの山からむくりと巨躯が起き上がった。

 大蛇は体を(むち)のようにしならせ、躊躇(ちゅうちょ)なく化け物の顔に飛びかかる。


 大小ふたつの影が交差した。

 その瞬間、雨を裂いて天をうがつ咆哮(ほうこう)が轟く。

 どす黒い嵐雲のわかれめから、声に呼応(こおう)するように光の柱が落ちる。


「えええっ!? どうなって――」


 とっさに口から飛び出した悲鳴は、すさまじい熱と光にかき消された。

 化け物と大蛇、周囲のがれきの山、私さえも。

 一閃(いっせん)雷霆(らいてい)に、文字どおりその場のすべてが呑みこまれる。


 一瞬にして青白く染め上げられた視界のはしで。

 ()()()()へと誘うように、導くように輝く、瑠璃(るり)色の鱗に手をのばそうとして。



 私の意識は彼方(かなた)へ飛んだ。



 ◆ ◇ ◆


 ちりんちりん。

 鈴を転がしたような澄んだ音色が響く。


 これはなんの音?

 低くうなる風。ゆったりと流れる水。ばさばさと空を切る羽音。

 やけにはっきりと聞こえる自然の音たちが、まどろみのなかにいた私を揺り起こす。


 まぶたを開けば、かすむ視界ににゅっとくちばしがのびてきて刹那(せつな)的に息をつめた。


「ぎゃっ」

「くるっぽー」


 変な鳴き声をあげながら、()()は羽毛を散らしてどこかへ走り去っていく。


 りりんりりんりりん。

 今度は短い間隔で鈴の音が鳴り響く。


「お、嬢ちゃん。起きたかい」


 なにげなく体を起こそうとすると、頭上から声をかけられた。

 私は痛む頭を押さえながら顔を上げ、思わず声の主を二度見してしまう。


 そこにいたのは、どじょうのようなひげをたくわえた中肉中背の男性だった。

 顔だけを見ればふつうのおじさんだが、古びた麻の着物をまとい腰に質素な帯を巻いた姿は現代ではかなり浮いた格好だ。

 さらに言えば、歴史の教科書でしか見ないような変な服装をしている。


「え、えーっと……」

「嬢ちゃん、森のなかで倒れてたんだ。あそこの娘が助けてくれたんだよ。――おーい、明蘭(めいらん)!」


 私が言葉につまっていると、おじさんは背後に向かってだれかを呼んだ。

 「はーい」とあどけない声と一緒にぱたぱたと出てきたのは、薄桃色の着物をまとった小柄な女の子。

 年齢は見たところ十四、五くらい。私よりもちょっと年下だろう。

 アーモンド型のくりくりとした目が印象的な童顔は、小動物みたいでかわいらしい。


「ああ、よかった。目を覚ましてくれて」


 女の子は私の姿を見ると、ふわりと顔を花のようにほころばせた。

 対して私はよりいっそう体をこわばらせる。

 おじさんだけでなく、女の子のほうもいかにも古風な出で立ちをしていたからだ。


 え、どういうこと? 時代劇の撮影現場かなにかですか?


「大丈夫? どこか痛む?」


 かなり混乱しているのが伝わったのか、女の子は心配そうに私の顔を覗きこんだ。


 たしか、私は足りなかった料理の材料を買いに行っていたと思うんだけれど。

 そのあと、変な空間に迷いこんで……雷に打たれたんだっけ?

 記憶が正しければ、まだ家からそう遠くはないはず。


 私は今さらながら、ぐるりと周囲を見渡してみた。


 一面が鏡のように静かな湖面だった。ビル群もない。まぶしいネオンライトもない。

 おそろしいほど空気が澄んでいるというのに、あたりにはぽつりと浮かぶ木製の小舟しか見えなかった。

 そして私は今、その舟の上にいる。


 竹竿(たけざお)で水底をついて舟を進めたおじさんは、なにかめずらしいものを見るように私の姿を一瞥(いちべつ)した。


「嬢ちゃん、見慣れない格好してるけど、どこから来たんだい?」

「どこって……北京(ペキン)ですけど」

「ペキン?」


 おじさんと女の子はそろってきょとんとした表情を浮かべると、視線を交わしあった。

 まさか、知らないわけないよね。中国の首都ですよ?


「このあたりじゃなさそうだね。(ふー)おじさん、知ってる?」

「さあ。長いあいだ舟で旅してきたけど、そんな地名聞いたことないねえ」


 けれどもふたりは怪訝(けげん)そうに首をかしげただけだった。


「え、ちょ、ちょっと待ってください。逆に聞きますけど……ここってどこなんですか?」


 なんだかものすごくいやな予感がする。

 私はついに我慢できなくなって、おそるおそる尋ねてみた。

 すると案の定、返ってきたのはこれまで一度も耳にしたことのない国の名前だった。


蘇国(そこく)。神獣八柱が一、青龍(せいりゅう)に守護された百味(ひゃくみ)大陸の東国だ」


 ぴゅうっと目の前を冷たい風が通り過ぎていく。


 ソコク。セイリュウ。なんとかタイリク。今この人、神獣って言った?

 謎単語が嵐のように押し寄せ、私の脳はついに処理能力の限界を迎える。

 長くじっと黙りこんでいた私は、やがて思考を放棄……もとい、ひとつの結論に至った。


「死んだ……私、あのとき絶対死んだんだわ……」

「え!? あ、頭、血が……」


 そのまま力なく倒れ伏した私は、舟の床に額を強く打ちつけた。

 痛い。肉体は失ったから痛覚は感じないはずなのに、なぜか涙が出るくらい痛かった。


「せめて東坡肉食べさせてよ、天帝(てんてい)さま……」


 私は半泣きになりながら、天におわす神様に恨み言を吐いたのだった。


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