第壱章 一味傾心(壱):雨と蛇と東坡肉
遥か上空をムクドリの群れがせわしなく飛んでいる。
一面に垂れこめた鉛色の雲にその影はくっきりと映り、まるで胡麻をまいたみたいだった。
「雨かあ……」
ダイニングの窓を開け放した私――鳳璃はのんびりとつぶやく。
今はやんでいるものの、ついさっきまでずっと降り続けていたらしい。
息を吸いこむと、湿気ったコンクリートのにおいに混じる雨の味がした。
まだ十月前半とはいえ、北京の厳しい冬は先だと思って安心しているあいだにやってくるから油断できない。
窓枠に溜まっていた雨水が頬をかすめていくと、びっくりするほど冷たくて思わず身震いをした。
こんな日には、熱々の煮物でも食べて体をあたためるのがいい。
「さてと。そろそろかな」
くるりと窓に背を向け、きびすを返してキッチンへ向かう。
小さなアパートの一室は、すでに醤油と紹興酒、八角を煮つめた濃厚な香りで満ちていた。
すきっ腹を刺激する魅惑的なにおいの源は、コンロの上でことことと音を立てる土鍋。
一、二、三でふたを開けると、立ちのぼる湯気が視界いっぱいに広がった。
「うわあ……たまらない」
鍋のなかをのぞきこんだ瞬間、香辛料と紹興酒の絡みあったコクのある香りが鼻腔を満たす。
「やった、成功した!」という歓喜よりも先に食欲にほだされ、私はごくりとつばを飲みこんだ。
四角く切りわけられた肉は、土鍋の底で寝そべるねぎや生姜に囲まれ、きちっと律儀に収まっている。
赤身と脂身が交互に重なり合った断面は、まるで磨き上げられた瑪瑙のよう。
形が崩れないようにとひもでしばった宝玉は、煮汁をたっぷりと染みこませてあめ色に輝いていた。
東坡肉と呼ばれるその料理は、海外でも親しまれている中華料理、角煮のご先祖様だ。
蘇東坡という詩人が作ったから東坡肉。
坡仙の折り紙つき、おいしさ国宝級の一品だ。
手間と時間がかかるため、めったに作らない料理だが、今朝近所の市場で新鮮な豚バラ肉を安く買うことができたのだ。
「阿璃はお得意さんだから、おまけもつけといたよ」と言って、なじみの店主はめずらしい香辛料もわけてくれた。
おかげで今日のごはんはいつもよりちょっと贅沢だ。
「ふっふっふ。やっと食べれ……じゃなくて味見できる!」
まだできあがっていないというのに、私の食欲はもう我慢の限界だった。
さっそくお皿を取り出して、片手に箸を構える。
煮込む前に軽くあぶった皮には弾力があって、お皿の上でつつけばぷるっと小気味よく震えた。
いざ、と箸を入れたそのとき。
ふと気配を感じて、私は見えない糸で引っぱられたように視線を動かした。
ダイニングの窓から一陣の風が吹きこみ、白いカーテンがひとつ深呼吸をするようにふわりとふくらむ。
その奥に隠れるようにして、細長いものがとぐろを巻いているのが見えた。
胴の表面できらりと瞬く鱗。鞭のように細くなった先端。反対側には鋭い瞳孔の光るガラス玉がふたつ。
「うそでしょ……どこの市場から逃げ出してきたのよ」
間違いない。蛇だ。
私はテーブルにお皿を置くと、中華鍋を盾にして一歩、二歩と窓辺へにじり寄る。
これでも料理人の端くれ。
生きている蛇は見慣れているし、さばいたことだってある。
けれども、今まで手にかけてきた生きのいいものとは違い、こいつはずいぶんと弱っているようすだった。
人が近づいても威嚇したり逃げたりすることはなく、じっとテーブルのすみで縮こまっている。
まだ幼いのか、小さな体は引っぱればちぎれてしまいそうなほどに細い。
巻いた体の中心に重たそうな頭をうずめる姿は頼りなく、ひどくやせた体つきも相まって見る者の哀れを誘った。
なんだかむりやり閉め出すのは気が引けた。
雨、また降り出しそうだし。
すこし考えた後、私は一度キッチンへ入る。
しばらくしてまた戻ってきた私の手には、湯がいた鶏のささみをのせた小皿があった。
「ほら、食べなさい。お腹いっぱいになったら、さっさと自力で出て行ってよね」
まだほかほかと湯気を立てるささみをテーブルに置く。
今まで死んだように動かなかった蛇も、これにはわずかに鎌首をもたげた。
「はやく自然に帰ったほうがいいわよ。都会にいるのは、優しい人間ばかりじゃないんだから」
下手に近づいてかみつかれてはいけないので、指先ですすっと前に押し出す。
こんなにやせているんだもの。
お腹をすかせているに違いなかったが、蛇はなかなか肉に食いつかなかった。
「蛇って鶏肉は食べなかったっけ? もしかすると、虫しか食べなかったりして……」
うーん、と考えこんでいたそのとき、意を決したように細長い胴体がそろりとお皿へ伸びた。
安堵する私をよそに蛇はささみを素通りし、そのまままっすぐ別のお皿へと這って進む。
そう、今しがた土鍋から取り出したばかりの大きな肉塊へ。
「え、ちょ……そっちはだめ!」
置きっぱなしだった料理のことなどすっかり頭から抜け落ちていた私はぎょっとした。
すかさずお皿を取り上げ、テーブルから遠ざける。
獲物を取られた蛇は一瞬びくっと体を縮こませたが、気づけばじいっと私を見上げていた。
その双眸には、人間めいた意志のようなものが感じられて。
やがてうったえかけるような視線におかしくなって、急に笑いがこみ上げてきた。
ペットでもない野生動物のくせに、人間の料理に目をつけるなんてちょっとかわいいかも。
私は肩を揺らして笑いながら、冗談めかして言ってみる。
「あんた、変わった蛇ねえ。私が作る料理のにおいに誘われちゃったの?」
『如何にも』
返事があった。
「え?」
ふいに脳裏に響いた低い声。
びゅうと小雨混じりの風が吹きこみ、私は思わず目をつぶる。
次にまぶたを開いたとき、そこにいたはずの小さな影はこつぜんと姿を消していた。
同時に、私のなかのなにかがぱちんと泡沫のように弾けて消える。
「……なに、今の」
一拍の後、冷静さを取り戻した私はふらふらと窓辺に歩み寄った。
そこには、いつもどおりかたい壁の林立する景色があるだけ。
冬も間近に迫った都会はいやに殺風景で、生き物の気配などとても感じられなかった。
白昼夢、だったのだろうか。
見上げれば、空を飛んでいたムクドリの群れもいつのまにかいなくなっている。
「蛇がしゃべるなんて……ふつうに考えておかしいでしょ」
ぴしゃりと窓を閉めた私は、自分に言い聞かせるように独りごちた。
なんだか急にばからしくなってきた。東坡肉も作りかけのままだったし。
夢から覚めたあとの虚無感から逃げるように、てきぱきと手を動かす。
肉は煮上がったので、最後は醤作りだ。
煮汁を別の鍋に移し、そこに片栗粉をひとつまみ、干し梅を少々。沸騰させてとろみをつける。
立ちどまり、もう一味と冷蔵庫から桂花陳酒を取り出す。
しかし待てよ。
「ああ、ちょうど切らしてたんだった!!」
案の定、軽い瓶の底に液体はほとんど残っていなかった。
「まだ間に合うよね!?」と、急いでコンロの火を止め、土鍋にふたをする。
ささっとバッグにスマホと財布をつめこむと、ビニール傘を持って私は玄関に急いだ。
テーブルの上に置いたお皿から、いつの間にか東坡肉がなくなっていたのに気づきもせずに。
◆ ◇ ◆
近代的なビルが立ち並び、ネオンがまたたく北京の繁華街。
そこから一歩路地を曲がったところにある小さなアパートで、数年前から私はひとり暮らしをしていた。
ドがつくほどの田舎から都会の大学に進学しても、私の生活は勉強に料理にとたいして変わっていないけれど。
「うかつだったわ……大事な調味料を忘れるなんて」
時代遅れの真っ赤な飾りひもが揺れるドアノブにカードキーをかざし、さびた鉄の階段を駆け下りる。
アパートから近くの市場までは早足で五分ほどだった。
火を起こすためにいちいち薪割りに行っていた時代に比べればだいぶマシだ。
重たい靴のかかとをかつかつと鳴らし、細道をつっきる。
ビニール傘をさした私のシルエットはいつもより背後が大きく見える。
ゆるいパーマがかかった髪が湿気を含んでうねりまくり、後ろで束ねても好き勝手に宙を舞っているからだった。
「……背に腹は代えられないし」
「完璧な美食のためだから!」と心のなかでむりやりこじつけて、毛先と一緒に憂鬱な気分を振り払う。
そもそも我々は、古来より食をなによりも優先する民。
美食を最上の悦楽としてきたその気風は、「民は食を以て天と為す」――民にとってもっとも大切なのは食べること、という言葉にもよく表れている。
もちろん私も幼いころからそんな食道楽のひとりで、食に並々ならぬこだわりを持っていた。
自分で作る手料理ならなおのこと。
金木犀の花を葡萄酒につけこんだ桂花陳酒は、料理にすこし加えれば、華やかな風味を引き立たせる極上の調味料になる。
食譜には記されていないけれど、入れないとどこか物足りない。
そんな我が家流の隠し味なのだ。
「……急がないと」
ぱらついていた小雨はしだいに大きく、強くなって傘をたたきつけた。
透明な傘から見上げる空は降り荒ぶ雨にしとどに濡れ、おぼろにゆがむ。
このあたりは小吃街といって、昔ながらの屋台がひしめく歩行者天国になっている。
雨が降っているからか、いつも人々の喧騒であふれる大通りに今はほとんど人の気配がなかった。
先に進むにつれ、すれ違う人の数も露店の明かりもぽつりぽつりと少なくなっていく。
それから異変に気づいたのは、脇道の多い通りを迷路のように進み続け、数分ほど経ったころだった。