第弐章 龍之落子(拾):自称侠客の青年
次の日の朝。
一晩休むことですっかり疲労をリセットした私は、一度冷静になってここ数日の出来事を整理してみることにした。
始まりは市場から屋敷へ帰る道すがら。
「食仙を探している」という美しい官吏と出会い、私は親友の代わりに料理をふるまった。
そしてその料理はさんざん罵倒され、なぜか宮廷入りすることになる。
いくら考えても、浮かび上がってくるのは純粋な疑問ばかりだった。
「なんで私が選ばれたのか、さっぱり理解できないんだけど……」
私はあのとき殺されて当然だった。
この世界の常識上では、首が飛んでもおかしくないほどの無礼を働いたのだ。
それなのにどうして生かされた? なぜ宮廷に召し出された?
「わからない……やっぱり、わからないわ」
あの太師さまは、行動がなにひとつ読めないのだ。
彼はいったい私になにを望んでいるのだろう。
「そもそも、太師さまがわざわざ地方に出向くなんて……そんなに大事な用件なのかな」
今思えば、私はなにも教えられていない。
なんのために招かれたのか、どんな立場に置かれているのかすらも。
たぶん、皇帝さまお抱えの厨師として働くことになるのだろうけれど。
あの人、絶対になにか大事なことを隠してる。
「でも、直接尋ねるのもちょっと……」と思っていたとき、こんこんと戸をたたくような音がした。
音が聞こえたのは、扉ではなくなんと窓の外から。
私は不思議に思って寝台から降り、格子窓を開け放つ。
すると鼻先が触れるほど近くになにか、あたたかいものがあった。
それが人の鼻だと気づいたのは、一拍の後。
「ぎゃああああ!! 不審者! 幽霊!! いや、首吊り死体?」
ぎょっとして背後へ飛び退き、なにがなんだかわからず適当に思いついた単語を叫び散らかす。
よく見てみると、その姿には見覚えがあった。
「おはようございます、鳳璃様」
「え!? あ、あんたなんで逆さまなのよ!?」
それは、あのとき太師さまの護衛をしていた武人だった。
武官にしては細身で身軽そうな服装に、太師さまほどではないといえど整った顔立ち。
しかし今は上下反対で、蜘蛛みたいにぶらぶらと宙につり下がっている。
「とにかくなかに入って!」と私がうながすと、彼はするりとしなやかな動きで室内に着地した。
「そこに座っておいて。お茶用意するから」
「いえ、鳳璃様の手を煩わせるわけには」
「いいのよ、気にしないで。それよりもあんた、私より身分上でしょ? 敬語とか使わなくていいから、もっと気楽にしてよね」
その瞬間、武人のまとう空気ががらりと一変したのは気のせいではないだろう。
「――そうか。じゃ、遠慮なく」
投げやりな口調で言い放つと、彼はどかっと近くの椅子に腰かけ足を組む。
それからぽかんとする私の姿を見て、愉快げに目を細めた。
「なんだよ? 俺様みたいなのが出てきてびびったのか?」
「いや、なんか、思ってたのと違うっていうか……」
素がこんな性格なのだろうか。
初めて見たときの彼はいかにも真面目な騎士さまといった印象だった。
しかし今はまるで中身だけ入れ替わったような別人だ。
粗野な言葉づかいといい、ざっくばらんな態度といい……。
だけど不思議と嫌な感じはしない。むしろこっちのほうが親しみやすい気がした。
「お、この焼き菓子うまそうだな! 食ってもいいか?」
「いいけど、それ茶菓子よ。やっぱりお茶ついでくるわね」
「いや、茶はいらん。俺様、酒派だから」
彼は支給品のお菓子をひとつまるまる頬張ると、腰に下げた大ぶりのひょうたんをぐびぐびと傾ける。
「朝っぱらからお酒飲んでも大丈夫なの?」
「心配ご無用。朝酒は侠客の嗜みだ!」
「……侠客?」
ずずいっと前のめりになった私に、今度は彼が面食らう番だった。
「侠客って、剣術とか武術とかで悪いやつをこらしめる、あの?」
「お、おう。全員そうってわけじゃないけどな……」
侠客というのは、一口に言うと俗世に染まることなく我の道を突き進む義の心を持つ者のことだ。
たいていは高度な武術を会得していて、正義のために己の命をもなげうつ真の豪傑である。
もとの世界で侠客と言えば、もっぱらドラマや漫画や小説にしか出てこない英雄のような存在を指した。
だからこそ、本物の侠客を見るのは初めてのことで、気づけば目の前の自称侠客男をじっと見つめてしまっていた。
「ふうん、この世界にも侠客っていうのは存在するのね……」
見た目は至ってふつうの青年だけれど。
もしかすると、戦いや争いごとになると豹変するタイプなのかもしれない。
そのとき、風船のようにふくらんでいく私の妄想に「と、ところで!」とすこし照れくさそうな彼の声が針を刺した。
「こんなとこでのんびりしていてもいいのか? そろそろ時間だぞ」
「なんの?」
「新人厨師の任命式に決まってんだろ」
ほら、と彼は私に巻物を手渡す。
絹のような上質な手触りの巻物を開けば、そこには「日の出と同時に大広間へ集まれ」といった内容が端正な文字で記されていた。
私は外の景色を見る。
まぶしい球体こそまだ現れていないものの、地平線の彼方は白みがかっている。
もう一度目を凝らして見る。じきに太陽は昇り始めるだろう。
「ま、どーせ間に合わないから俺様が送ってやっても」
彼の言葉を聞き終える前に、私は砲弾のように部屋を飛び出した。
「初日から遅刻とか笑えないんですけど!?」
「起きたあと、すぐに身支度だけでもしておいてよかった!」と私は廊下を爆走しながら、過去の自分を褒めちぎる。
太師さまが言っていた連絡というのは、あいつのことだったのだ。
「連絡係ぜんっぜん役に立ってないじゃない!!」
私は宿舎のある棟を出て、掃き清められた石畳の廊下を曲がり、広大な天子の庭をあっちこっちとさまよう。
通りすがりの武官や文官に変な目で見られたのは言うまでもない。
「おい!! 人の話をちゃんと最後まで聞けって!」
頭上から降ってきた声に思わず横を向けば、いつのまにか私の隣を並走するあの武人の姿が見えた。
けれども今はとても返事できる状況じゃない。
「だいたいお前、どこに行くべきかすらわかってないだろ!?」
「あ、ほんとだ……って、おおうっ!?」
しかし、私が一瞬速度を落としたすきに、腰に手を回される。
そのまま軽々と私を抱え上げ、彼はだんっと片足を強く踏み出した。
「な、ななな、なにすんのよ!?」
「よーし、そんじゃひとっ飛びするからな!」
「飛ぶ!? 待っ……ぎゃあああああっ!!」
突如、ふわりとした浮遊感が私を襲った。
激しく上下する視界に目を白黒させれば、彼はぴょんぴょんと屋根の上を飛ぶように駆け始める。
風みたいに過ぎ去っていく景色を見る余裕はなく、小脇に抱えられた私は舌を噛まないように口を閉じているのでせいいっぱいだった。
「でも、たしかにこっちのほうが速いかも……」
一周回って冷静になった私はやがて抵抗を諦めた。
「俺様はお前の護衛兼監視役になってやった狼忠淵様だ。この高尚な名をよく耳に刻んでおくように」
「……あんた、昨日私のこと殺そうとしてたくせに」
「悪ぃ悪ぃ。こっちにも仕事ってのがあるんでね」
「本気で言ってんだかそうじゃないんだか……」
それにしても、侠客というのはやはり本当の話なのだろう。
彼は私を俵担ぎにしながら、とても常人とは思えないような速さと身軽さで宿舎を越え、楼閣と御殿のあいだを突っ切る。
空中でしょうもない会話を交わしているうちに、私たちはあっという間に目的地へ着いてしまった。
「うう……ひどい目にあった……」
「間に合ってよかったな! がはははっ!!」
その場にへたりこんだ私は、悪気のかけらもなく笑い飛ばした野郎をぎろりとにらみつける。
それでも、彼のおかげで刻限までに到着できたのは事実だから、言い返すことはできなかった。
定められた会場の前では、きれいに着飾った兵がずらりと並んでいた。
重々しい門扉の左右には、邪を喰らう獅子の仙獣の石像が並んでいる。
門扉は固く閉ざされていたが、証文代わりの巻物を門番に手渡すと私だけがなかに通された。
「うわあ、広い……」
そこはまさに大広間というにふさわしい場所だった。
宮廷のなかでも特別重要な正殿なのだろう。
見上げるほど高い天井に黄金の柱がどこまでも続いている。
内装はいっそう洗練され、ただでさえ豪華な装飾や彫刻がより上等なものになっていた。
それに、とてつもなく大きい。
入口付近から見ると、奥のほうにいる人の頭が米粒くらいの大きさに感じられるほどだ。
そんな大広間に、老若男女問わず大勢の人々がひしめき合っていた。
「……っ」
厨師たちの列に交じった途端、私は異様な雰囲気を敏感に察知する。
「なに、この威圧感……」
ちょっと弾けばぷつりと切れてしまいそうなほど、空気がぴんと張りつめている。
みんながみんな相手のことを品定めするように、肉食動物めいた双眸を光らせている。
これが、宮廷厨師だって言うの?
並々ならぬ敵意から感じられる競争心に、私はこの世界における料理人の立ち位置を改めて思い知らされた。
しかし、バチバチと好戦的な視線が飛び交う、一触即発の緊張感のなかで、明らかに浮いている人物がひとりいた。
私と同じ最後列に……さらに言えば、私の隣で悠然とたたずむ少年。
ざっと見渡すかぎり、この空間のなかで最も若いのは彼だろう。
あどけなさの残る顔立ちや黒目がちの両目が特徴の少年は、あろうことかぱくぱくとお菓子を口いっぱいにつめていたのだ。
その見た目や奇抜な行動から周囲の注目を集めているが、本人はまったく気にしていないようす。
私も同じように少年の全身をじっと眺めていると、ふともぐもぐと口を動かしていた彼が顔を上げた。
そのまま無邪気さをたたえた瞳とばっちり目が合ってしまう。
「おねーさんも食べる?」
少年はふにゃっと人好きがするように顔をほころばせ、手に持っていたお菓子を私に差し出した。
「え!? えーっと、私はいらない、かな……」
突然のことにびっくりしてなあなあな返事をしてしまう。
少年は「そっかあ」とだけ言って、また頬袋にお菓子をつめる作業に専念し始めた。
ど、どう返事するのが正解だったのよ!? とんでもなく気まずいんだけど……。
大勢の視線が今度は私にひしひしと向けられた、ちょうどそのとき。
どおおおんと腹の奥底を震わせるような銅鑼の音が鳴り響いた。
続いてどこからともなく現れた楽師たちによって、優雅な音色が重なり合った旋律が奏でられる。
この天下でもっとも尊い御仁が現れる。
ますます息のしづらくなった空気に、周囲の呼吸音が静かに重なる。




