満月をつかまえに
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(ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
「よっす、宮園くん」
「こんばんは、増田くん」
「いま帰り?」
「うん。増田くんも?」
夜の繁華街。横並びになった瞬間に、顔を覗き込むように声をかけられ、俺はいつもと同じ返事をする。
「うん、そう」
へらりと笑った増田くんも、いつもと同じようにそう言って、
「寒いねー」
俺の背中をてのひらで軽くぽんぽんと叩いた。鼻がツンと痛くなったのは、きっと寒いからだ。
「うどん行こ」
「うん」
増田くんが言い、俺はうなずく。これもいつもと同じ。深夜まで営業しているうどん屋で、俺たちは腹を満たし、店を出て、少し歩いた先の交差点で別れるのだ。
うどん屋のカウンター席で、ふたりともが月見うどんを注文する。
「いつも思うけど、たまごくずすの早いね?」
俺のどんぶりを見て、ふいに増田くんが言う。
「うどんに黄身をからめて食べたいんだよ」
「おれと宮園くんは、流派が違うんじゃね。おれは最後まで黄味を大事にとっておく派」
俺の返答に増田くんはそんなことを言って、目を細めてうどんをすすった。
「くずしたらもう元には戻らんのんじゃけえ、黄身は最後の最後までとっとくんよ」
増田くんが目を細めると、いつもは存在しない涙袋が、ぷっくりとふくらむ。その横顔をちらりと見て、俺はくずしてしまったどんぶりの中の黄身を見る。
うどんを食べ終わり、店の外に出ると、冷たい空気に対抗するように身体に力が入る。
「寒いねー」
「うん」
増田くんが言い、俺はうなずく。
「あ」
空を見上げた増田くんが、ふいに声を上げた。
「今日、満月じゃね。ほら、まんまる」
「本当だ」
「うまそう。まさに、月見うどんのたまごの黄身」
さっき食べたばかりなのに、そんなことを言っている増田くんの右手が、俺の左手に触れる。そのまま絡めとられるように手をつないでくる増田くんを、俺はいつもと同じように黙って受け入れる。さっきまであたたかい店内にいたせいか、増田くんの手もあたたかい。
そのまま、俺たちは無言で歩き、交差点に着くと、
「じゃあ」
「うん、また」
何事もなかったかのように短い挨拶をして別れる。約束をしているわけではないので、また明日、とか、そういう具体的なことは言わない。
こんなよくわからない関係を、俺たちはもう半年以上も続けている。
俺と増田くんは同じ大学に通っていて、同じ学部で同学年で、そして、それぞれ別の居酒屋でアルバイトをしている。
アルバイトは、一人暮らしにも慣れてきた五月の後半に始めた。その帰り、たまたま入ったうどん屋の、たまたま座ったカウンター席の隣に増田くんがいたのだ。
その時の俺は、彼を増田くんとは認識しておらず、なんか見たことある人だ。誰だっけ。そんなことを考えていた。だけど、あまりジロジロ見るわけにもいかず、俺は彼のどんぶりを見て、同じ月見うどんを注文した。
そこで、「……っす」と隣の彼に会釈され、あ、と思い出した。同じ学部の人だ。学生番号が近かった。確か、そう、増田くん。記憶の引き出しが次々と開き、
「こんばんは」
ほっとしながら、俺も挨拶を返した。
その日は、そのまま別れたけれど、増田くんとは帰りの時間が一緒になることが多く、少しずつ話をするようになり、時間が合えば、なんとなく一緒にうどん屋へ入り、なんとなく一緒に帰るようになった。
だけど、俺と増田くんは大学では絡むこともなく、お互い一人きりで過ごしていて、目が合っても会釈くらいしかしない。俺は、普通に友だちのいない、いわゆる「ぼっち」なのだけど、俺とは違い、明るそうなグループの人たちに話しかけられることの多い増田くんは、自らひとりを選んでいるように俺には見えていた。
増田くんが、俺に触れてくるようになったのは、夏ごろだったと思う。
「よっす、宮園くん」
「こんばんは、増田くん」
「いま帰り?」
「うん。増田くんも?」
夜の繁華街、いつもと同じやりとりをして、いつもと同じようにうどん屋へ入り、そして夏期限定の冷やしうどんを食べ、店を出て、「暑いねー」と言った増田くんが、ふいに俺の手に触れ、そのままやんわりと握ってきたのだ。え、と思った。頭の中が、え、え、え、で埋め尽くされた。ガチッと強張った俺に気づいたのか、増田くんはすぐに手を離した。そして交差点に着くと、
「じゃあ」
何事もなくそう言って、いつもと同じ方向へ歩いて行った。
突っ立たままその後姿をぼんやりと見ながら、俺はずっと、え、え、え、と思っていた。
それ以来、帰り道での増田くんは、俺と手をつなごうとしてくるようになった。俺が強張るとすぐに離してくれるので、俺は油断していたのだと思う。その日の帰り道、手はつながれたままだった。この状況に、少し慣れてしまっていた俺は、それをそのまま受け入れてしまった。
冗談めかしてでも、なぜこんなことをするのか聞けばよかったのに、俺はその労力を怠った。聞けば、せっかく仲良くなった増田くんとの関係が、壊れてしまうような気がしたし、もし増田くんがふざけていただけだったとしたら、真面目に尋ねてシラケさせてしまうんじゃないかとも思った。つまり、俺は増田くんとの対話から逃げたのだ。だから、増田くんにどういう意図があって俺に触れてくるのか、俺は知らない。知らないのに、待っている自分がいる。帰りの時間が重なって、増田くんに会えるとうれしいし、会えない日は寂しい。大学で会えないことはないけれど、別に話したりはしないので、夜のバイト帰りの時間は、俺にとって特別だった。
増田くんが俺に触れるのは、俺のことが好きだから? 最近は、そう考えてしまうし、そうだったらいいなとも思ってしまう。でも、それを確かめて、もし違っていたら、悲しいし恥ずかしい。
くずしたらもう元には戻らんのんじゃけえ。
増田くんの言葉を思い出し、いつも早々にくずしてしまう月見うどんのたまごの黄身のことを考える。
そもそも、増田くんがどういう人なのか、実のところよくは知らない。だけど、増田くんが俺に触れると、甘ったるい感じにどきどきして、うれしくなってしまって、困るのだ。
学生たちの行き来が激しい昼の時間が終わって、午後からの授業が始まる時間、俺は校舎のロビーに設置してある自販機前の休憩スペースで、ぼんやりとしていた。たまたま無人だった休憩スペースには、病院の待合室みたいなソファが置いてある。そこで、本当はレポートのために集めた資料を少し読み返そうと思っていたのに、やる気が起きず、かといって家に帰る気も起きず、スマホをだらだらを眺めていた。
「みっやぞっのくん」
軽やかに節をつけて呼ばれる。増田くんだとすぐにわかった。そう決めているわけではないけれど、昼間の大学ではお互いしゃべらないものだと思っていたので少し驚く。今日の増田くんは、「よっすよっす」と言いながら、俺の隣の椅子に座った。
「こんにちは。増田くん、授業は?」
「今日は午前中で終わり」
「俺も」
昼間の増田くんは、夜の増田くんとちょっと違うように感じる。どこがどう違うのか、よくわからないけれど、なんだか違うのだ。他人みたい、といえば、そもそも他人なんだけど、と考えて気づいた。昼間の増田くんは、なんというかパブリックな雰囲気があるのだ。そして、夜の増田くんは、俺の、俺だけの増田くんという感じがする。なんだ、俺だけの増田くんて。そこまで考えて、ひとりで恥ずかしくなっていると、増田くんの手が、膝に置いた俺の手に重なった。
「わ」
小さく声が出て、思わず手を引っ込めてしまう。
「なんで」
増田くんが、不服そうに俺を見る。
「まだ昼間だし」
「夜ならいいん?」
「まあ、それは、うん……」
俺は曖昧に言葉を濁し、「なんか、昼間の増田くんは慣れてなくて」と、一応正直に申告する。
「なにそれ」
増田くんは笑い、「今日バイトは?」と尋ねてくる。
「あるよ」
そう答えると、
「じゃあ、夜まで我慢しよっかな」
軽い口調で増田くんは言った。それが、俺と手をつなぐことに対しての言葉なのだと気づき、増田くんに聞いてみようと口を開く。
「あの……」
「うん」
声を発したはいいものの、その後すぐに黙ってしまった俺に、増田くんはただうなずいた。
「あの、あの、」
「うん」
のどにつっかえた言葉がなかなか出てこない俺を、増田くんは急かすこともせず、待ってくれている。
「あの……前から聞きたかったんだけど、聞けなくて」
ふいに脳裏に浮かんだ月見うどんの真ん中にまあるく輝くたまごの黄身が、頭の中でどろっと崩れた。
「うん。なんでも聞いて」
「……なんで、こういうふうに俺の手にさわるの?」
震えて上擦った声で、なんとか言葉を吐き出す。増田くんは、一瞬動きを止め、俺の目を覗き込むように見て言った。
「……好きじゃけえ」
「え」
「宮園くんのことが好きじゃけ、さわりたいんよ」
「え、あ、そ、そっか……」
もごもごと言いながら、ぼぼぼっと顔が熱くなる。
「あの、俺、ずっと、そうだといいなって思ってた」
正直に言うと、
「まじで」
増田くんはうれしそうに目を細めて、涙袋をぷっくりさせて笑った。そして、
「宮園くんは、ちゃんとあいさつするじゃん? こんにちは、とか、こんばんは、とか、省略せずにちゃんと時間に合ったあいさつするじゃん? 律儀で好きよ」
そんなことを言った。
「そうだっけ」
自覚がなかったので、戸惑ってしまう。
「そうよー」
増田くんはそう言って、俺の肩に触れようとしてはっとしたように手を引っ込めた。ああ、まだ夜じゃないから。そう気づいて、おかしくなる。増田くんだって、律儀だ。それと同時に、俺はなんだかほっとしていた。ずっと気がかりだったことが、質問するだけであっさりと解決したからだ。
「あの、俺も、す……」
自分も気持ちを伝えようと口を開いたものの、また言葉が出てこなくなった。増田くんは言ってくれたのに。そう思いながら、
「す」
唾を飲み込んで、もう一度声を出す。
「好きです、増田くん」
消え入りそうな声でなんとかいうと、
「敬語じゃん」
増田くんはなんだかふにゃふにゃした声でそう言った。
夜、バイト帰り、増田くんとふたりでいつものうどん屋へ寄る。昼間のことがあって、俺は少し緊張していたのだけど、増田くんがいつもどおりだったので、肩の力が抜けた。
俺は、月見うどんの黄身をくずそうか、まだとっておこうか考えていた。増田くんが、俺のことを好きだと言ってくれて、俺も自分の気持ちをちゃんと伝えることができたので、心の中はなんだかすっきりしていた。目下の悩みは月見うどんの黄身のことだけだ。
うどん屋を出たら、あたりまえみたいに手をつないで帰る。交差点に着いたところで、
「キスしていい?」
手をつないだまま俺の目をじっと見て、増田くんが言った。
「それは聞くんだ」
「それはって?」
「最初に手をつないだとき、手をつないでいい? って聞かなかったでしょ」
「そりゃあ、声出すと気づかれるじゃん」
「どういうこと」
「黙ってゆっくり近づいて、宮園くんを少しずつおれに慣れさせて、なついてきたところをつかまえてしまおうと思って」
冗談めかして、俺のことを野良猫みたいに言う。とはいえ、確かに増田くんの言ったとおりに増田くんのことを好きになってしまった俺は、「そうなんだ」と納得してしまった。そんな俺を見て、増田くんは、
「いや、ごめん、嘘」
ちょっと気まずそうな、照れたような表情で、「ほんまは、聞いて、やだって言われるのが怖かったんよね」と呟くように言った。
「そっか」
それはそれで納得して、なんだ、と俺は思った。増田くんも、怖かったのか。
あのとき聞かれていたら、なんて答えていただろう。いやだとは言わなかったと思うけど、やんわりと拒否していたかもしれない。もし、増田くんの手を拒否していたら、俺は増田くんのことを好きにならなかったのだろうか。それでもやっぱり、気になって好きになってしまっていただろうか。考えてもしょうがないけれど、ちょっと考えてしまった。
「てか、いま思うと、あんまよくなかったよね。不同意わいせつにあたる行為だったかも。ごめん」
「あー」
そうかも、と思いつつ、
「でも、俺はいやじゃなかったし、結果的にセーフじゃない?」
「それを聞いて救われました」
増田くんが言う。
「敬語だ」
俺は笑う。
「そんで、いい? キス」
「まだ、だめ」
「まだ」
そこに引っかかったらしい増田くんが、
「いずれはいいん」
追及してきたので、
「まあ、いずれは……それに、外はちょっと」
俺は曖昧な返事をしてしまう。
「外じゃなかったらいいん」
「まあ、うん……」
さらにもごもごという俺に、増田くんは楽しそうに笑う。
「それなら」
言いながら増田くんは、俺の鼻の先に自分の鼻先を、ちょん、とくっつけてきた。冷たい。
「今日は、これで我慢しよっかな」
すぐに離れて増田くんは満足そうにしている。
「なにこれ」
「うちの実家の猫がよくやるやつ」
「……わかるけど。うちにも猫いたから」
「あんねえ、おれ、浮かれとるんよ」
増田くんは、目を細めて涙袋をぷっくりさせて言った。
「地に足がついとらん。ふわふわ浮かんでしまいそう」
確かに今日の増田くんは、いつもよりテンションが高くて明るい気がする。
「じゃけえ、ちゃんとつかまえといてよ、宮園くん」
増田くんは楽しそうに、つないだ手をぶんぶんと揺らす。その言葉に、なんて答えたらいいのかわからなくて、俺は、「うん」とだけ、小さく返した。俺だって、ふわふわ浮かんでしまいそうだったくせに。
増田くんと、気持ちを確認し合ったからと言って、なにかが大きく変わったわけではない。ただ、昼間、大学でも増田くんと少し話をするようにはなった。それ以外は、いつもと同じような生活が続いている。
「よっす、宮園くん」
「こんばんは、増田くん」
「いま帰り?」
「うん。増田くんも?」
夜の繁華街、なんでもない顔をして、いつものやりとりをしながら、俺の中には新たな気がかりが生じていた。
増田くんは、いつキスをしてくるつもりなんだろう。
そんなふうに、勝手にどきどきしている俺の気も知らず、
「うどん行こ」
そう言って、増田くんは俺にぶつかるようにくっついてきた。
了
ありがとうございました。