C
キャットフードの味を憶えている。それが本当にキャットフードだったのかを確認しようと思うのだが、いつも売り場で一袋の量を見てやる気が失せる。今考えていることは、こんなものだ。
漠然と弛緩した思考に浮き上がる。泡の様な記憶は、流れに従うようでありながらも、その手をすり抜ける様に消失した。
朧げだ。揺蕩う様にぼやけて、その先に鮮烈な質量を隠している。その感覚を一般化すると、縫い合わせた欠片と軌跡につられて、秩序は次第に輪郭を取り戻した。私は私を思い出す。
「おはよう。太郎くん」
「おはようございます。田住さん」
トイレの扉を開けると、見知らぬおじさんが挨拶をしてくる。影を払う様に手を動かすと、そこにはやはり誰もいない。私は便座を数秒眺めてから、自分が用を足しに来た事を思い出した。
田住さんは父さんにパワハラをしていた上司だ。私は会ったことは無いが、十年以上話を聞かされている。今日は一段と笑顔だったので、父さんは体調が優れないのだろう。
私の前に現れる様になった頃は、聞いていた様な支配的な性格だったのだが、それを不憫に思った兄が今の様にしてくれた。あとでまた感謝の気持ちをメールで伝えよう。
ちなみに私は太郎ではない。しかし、田住さんも私の事は知らないので問題はないだろう。私たちには、全く、なんの関係もない。
明かりを付ける。閃光は張り付く様に眼を舐っては、空間を広げる感覚を皮膚に伝えた。その透き通った風の様な音は嫌いでは無かったが、どうにも暗闇に慣れた目で感じる朝の光は好めない。前世が吸血鬼だったのだと思うのだが、あるとき誰かに、彼らは不死身なのでそれはないと論破されてしまった。あれはいつだっただろうか。
瞳孔に染み込んだ刺激が穏やかになった頃、私はやっと瞼を開く事ができた。輪郭を乱反射した光の束は、色を帯び、シナプスと手を取って私に景色を見せる。私は世界を見た。麗しい現実を。
二週間前に出し忘れたゴミの袋が部屋の中央を占拠している。先週はゴミ出しを忘れなかったのに居残るあたり、もはやちょっとした顔馴染みだ。
今の生活に不満は無かった。不満がないから、改善もない。
思うのだが、人にはストレスが必要だ。こうも刺激のない日常を送っていると、ときどき無意味さが空洞の様に襲うのだ。
飢えた私は衝動的に飛び出した。鍵は閉めない。鍵で守るほど大切なものがあると思われたら、空き巣が来るかもしれないからだ。
私は走る。何故なら足があるからだ。今だから走れる、今しか走れないという使命感もあった。
周囲の音が耳元を過ぎてゆく度に、私の座標が動いている空想をすると少しだけ心地が良い。さながら地球儀の上を歩くピエロの様であった。空転して、外からは止まって見える。早く、速く、内からは加速して。
すぐさま身体は熱を帯び、走る時間は長くは続かない。肩で息をするよりも呼吸を止めた方が楽だった。
涼む為に入ったコンビニの中で、広告の群れが裾を掴んでくる。あどけなさを気取ったあざとさで。
目を塞げばここはとても静かだった。
外からは止まっていても、内側は止まらない。遠く、深く、私は螺旋を描く。最も永い智の川ソクラテス。その周りに最初の文明、私たちが生まれた。
葉は落ちてもまた春には芽吹き、光を樹に届けるのだ。その過程で私たちに意識を宿し、ずっと続く知を育ててきた。広がった支流は脈脈と、私にも届くまでに途方なく巨大になった。
『ラジオネーム、オオカミ少年TAKE3さんからのお便りです』
店内にラジオが響く。
『こんにちはアイビーさん。昨日がもし世界最期の日だとしたら、アイビーさんはどうして今生きているんでしょうか?』
「この宇宙にも規則されない存在とか言うんでしょ、どうせ」
口ずさんだ回答はラジオには届かない。大きくない声は大衆に掻き消されるし、そもそもたいしたことは言っていなかった。たいしたことは時間のスケール上では根深く広がるが、こと空間においてはあまり広がらないのだ。ある何かは必要とした者のもとでのみ輝ける。
『オオカミ少年TAKE3さんお便りありがとう。そもそもこの世界はね、可能性の収束でしかないんだ』
耳も塞ごうかと考えた。
『無限にある存在、無限にある結果、それらの乱反射が無限の層で重なって確率を積み重ね、そして最初に100%になった瞬間を僕らは観ている。その100%の位置を決めるのが僕らの座標なんだ。満たなかった結果はそれが百になった位置の僕らに観測されるし、世界が滅びても次に観測される世界が僕らに到達する。だから僕は生きている』
不快なラジオの声は私によく似ていた。
命は意の後にあるという事だろうか。しかしそれをどうやって伝えるというのだ。それは彼から誰かにだけではなく、誰かが彼にというレベルの構造的な欠陥、つまりは妄想なのだ。
『過去も、未来も。今の錯覚だよ太郎くん』
それはラジオから私に語りかける。
「あなたは何故そう断言する? 誰にも分かり得ない真実を示したから妄想なのだと、分からない思考ではないだろう」
私は対話の可能性を探る。
『君を造った』
それはその枠を壊す。
「それこそ妄想だ。私は私を思い出す事ができ、そしてその様に暮らす事に矛盾ない。お前のそれは無意味が突出している様にしか私は評価できない。そしてそれ以上を、お前は私に提示する事がないだろう?」
だから私は免疫染みた反駁をする。
『無矛盾な部分だけ思い出せるだけなのではないだろうか』
「そうだとしてもそれが束なったものが私だろう。主観の限界において事実とは“私”に収束する」
『つまり?』
「お前は伝達され得ない。消えろ。妄言機械め!」
そこで、不意に私は寒気を催した。橋の上で亀裂を思い出した様な、夢の中で足首から下をなくしてしまった様な、視界の外で何かを掛け違えた感覚だった。
「なら君の言う“私”とやらも、本質的には伝達不可能だと理解できるだろう」
瞬きの刹那か、それとも最初からか。今度は私が、ラジオの中にいた。
「対話を拒んでいるのは君の方だ」
『何だというんだ? お前は本当に神なのか?』
「神にとって重要な要素は造られていないという事だ」
『じゃあ』
「誰もが皆、神だった。だが、僕から見れば君は相対的に神ではないね」
『定義の話がしたい訳じゃない。だったらお前はどうして私を造ったんだ』
「僕らは自分たちがどうやって生まれたかを知りたかったのさ。君の言う、“私”という暗黙を解剖することにしたんだ」
理解が把握する対象は、言っている事ではなく、言う為に必要な事だ。
『つまり命は、命の誕生を知る為に生まれたのか!』
回路が爆ける。シナプスの海が沸き立って全てを洗い流す。どうしてだか私は感動していた。余計なものが一つもない美しいものが、たったひとつ、全てに協働する。この瞬間、私は途方もない宇宙の果てにいるのだ。そう思えた。
「だが、君には。関係ないだろう?」
そこで全ては明転した。
気付くと私は、私として存在していた。
それは今この瞬間を意味する言葉でもあり、そうでない時点を意味する言葉でもあった。
変化が意味の根源であるのなら、無意味とは存在しても何の影響力も持たないものの事だった。
どうせ人類はいつか滅びるが、幸いなことに今じゃない。君はそれを不幸だと言うだろうか。
記憶は圧縮され、意味を伴わない断片は消失する。寝て起きれば、余計なものは全て静けさを取り戻すだろう。換言するに、次の私に残ったものは、私にとって多少なりとも意味のある事だったと言うことだ。
黄昏の下で導きに引きずられる様に、私は歩いている。発作の様に何かが過ぎてゆく。
今日のことを、私は思い出す事はないだろう。
言い忘れていた。Cは積分定数とする。
2022/08/14
私たちの記憶は整合性によって保たれている。
であれば不整合な記憶たちは歴史からも人生からも見放されて、明日へ届く事なく消えてゆく事だろう。
忘れ去られた全ての記憶を、不可逆的な総合を、無意味の記号として残す事にした。