第62話
そして、承久の変後の幕府方の論功行賞だが、まず和田義盛が上総介に任ぜられて面目を施した。
これは高齢の和田義盛を気遣い、最後の栄誉を与えようという私の想いからで、和田義盛一代限りの特例ということで、源氏や北条氏以外の国守任官に難色を示す北条義時らを私は説得して納得させた。
又、畠山重忠も改めて武蔵の守護に任ぜられ、又、息子の重保は筑前守護に任ぜられた。
(これは私の四男になる源家経を、畠山一族に傍で支えさせるためでもあった)
北条義時は後方支援に務めたことから、伊豆及び駿河の守護と国守に任ぜられた。
三浦義村は改めて相模守護に任ぜられた。
尾張源氏の山田重忠は尾張守護に任ぜられ、源氏一族ということから尾張守も兼務した。
源範頼は伊予守兼伊予守護に任ぜられ、本人は高齢であったことから、その息子の範圓が伊予に赴任することになった。
(これは朝廷方に与して、承久の変後は伊予への逃亡に成功した河野通信誅罰のためでもあり、最終的には河野通信は、源範圓らに追い詰められて自害することになった)
そんな感じで幕府方の武士に付いては論功行賞が行われたが、朝廷方に付いた武士にはそれなりに過酷な運命が待っていた。
例えば、藤原秀康の一族は、実際に朝廷方として戦った面々で戦死しなかった者は自害を強いられ、幼子は女子も含めて仏門に入ることになった。
源頼茂の一族も同様の運命をたどった。
そして、近江の佐々木一族にも似たような運命、いや、それ以上の悲劇が待っていた。
佐々木一族は嫡流と言える広綱やその叔父の経高といった面々が朝廷方に付き、広綱の弟の信綱とその子らだけが幕府方に味方したのだ。
更に承久の変終結後、私、源頼家は藤原秀康らと同様の処分を佐々木一族にも下そうとしたが、佐々木信綱は、今後の禍根を完全に断つために、自らの戦功に伴う恩賞を無くして、兄の広綱や叔父の経高の男子らは皆殺しにして欲しい、と嘆願して、他の御家人らもそれに味方したことから。
私としては、完全に不本意ながら、広綱や経高の男子らについては皆殺しにせざるを得なかった。
そんな感じで、朝廷方についた武士に関する処分は行われた。
更には一般的な話として、承久の変の結果、敗者となった寺社の旧荘園を始めとして、公領にまで新たに地頭が設置され、徴税の担保等をすることになった。
言うまでもなく、新たに地頭に任ぜられるのは、幕府方で戦った武士達の面々である。
こうして新たに地頭に補任された武士の面々に対する報酬については、一般的な基準を新たに定めて大きな問題が生じることを、私は避けようとしたが、そうは言っても、武力を笠に着て報酬を少しでも多くしようとする地頭が絶えず、それこそ私が死んだ後々まで、この問題は色々と頭が痛い事態を引き起こし続けることになった。
だが、そうしたことを色々とするとなると、どうしても時間が掛かる。
私が京にいては、どうにもこういった論功行賞が細かいところまで行き届かないことも相まって、息子の源頼貞に征夷大将軍の地位を譲って鎌倉に常住させて、宿老衆と協議の上で少しでも早い処分を目指させたが、その間にも三善康信らが亡くなる等の事態が起き、数年掛かりの話になった。
そして、そうこうしていると、私の叔父の北条義時が急死してしまった。
(史実と異なり)北条頼時が、北条義時の後継者と定められていたので、幕府の混乱は防げたが、このことは、私の心の張りを急に失わせた。
又、私の母の北条政子も、その頃から徐々に体調不良となり、間もなく亡くなるのでは、という連絡が京にいる私の下に、鎌倉の源頼貞から届いた。
私は母の見舞いのために、鎌倉へ向かうことを急遽決めた。
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