第61話
少し幕間めいた話で、主人公の源頼家の妻子の話が主になります。
だが、これはこれで幕府の御家人達の内心では、私が幕府を軽んじていると見られることになった。
そうしたことから、後鳥羽上皇らの遠流を決めてから、約1年程が経った頃に、私は嫡男の頼貞に征夷大将軍の地位を譲って、併せて従二位に叙した。
又、頼貞を鎌倉に常住させることにもした。
幸いなことに不破関の戦いで武勇を示した頼貞は御家人達の受けもよく、又、北条頼時を補佐役として付けたこともあり、頼貞は新将軍として順調に受け入れられることになった。
その一方で、庶長子の源家朝は私の後ろ盾もあり、順調に朝廷内で官職等を昇進させ、官位は正三位に、更に権大納言兼左大将へと徐々に累進していくことになった。
又、頼貞の同母弟になる家経(史実の禅暁)は、西国の抑えとして従三位に叙せられ、太宰大弐兼鎮西探題となり、大宰府に赴任して西国の御家人に睨みを利かせることになった。
尚、言うまでもなく、娘の鞠子は皇太后として朝廷で重きをなしている。
こうして、私の息子や娘は、それなりに世間で出世したのだが、一人だけ例外がいた。
言うまでもないことだが、栄実である。
栄実は、栄西の晩年の弟子となって禅僧の路を歩んでいた。
そして、承久の変で義父と言える三浦胤義が、実父である私に事実上は討たれるという事態に、更に俗世を厭って離れようとし、1223年に兄弟子の明全に誘われて渡宋した。
尚、この時に道元も同道している。
更にこの際に物語るならば、1225年に明全が宋で病死したことから、栄実は更に無常を感じて、道元の誘いを断って、日本への帰国を拒み、宋で没することになった。
又、栄実の母も、夫の三浦胤義の戦死直後に出家している。
自分が積極的に三浦胤義を朝廷方に立たせたことから、何らかの処罰を恐れて彼女は出家したのだ。
そして、一部の御家人は彼女の処罰を主張したのだが。
「三浦胤義が妻の言葉に乗ったとするのは、本人の覚悟を貶めるものだ」
と私は、そういった御家人をたしなめて、彼女が隠棲するのを認めた。
(私の本音としては、かつて彼女と気軽に関係を持って、子どもまで産ませながら、自分から捨てた後ろめたさから、彼女をどうにも責められなかったのだ)
更にこの際に言えば、息子の栄実が宋に住み着いたのを、道元から彼女は聞かされて、息子の後を事実上追って渡宋し、母子共に宋で亡くなることになった。
そして、私としては、摂政太政大臣になった直後は、京で単身赴任生活を送るつもりだったのだが。
正室の辻殿の方が、私を放っておかなかった。
(彼女に言わせれば、京の悪い女に私が引っかかるのではないか、と危惧して)呼びもしないのに、京に彼女は来たのだ。
かくして、京で私は夫婦揃っての家庭生活を送ることになった。
最も辻殿の本音としては、承久の変の直後、娘の鞠子が皇太后になって、更に息子の家朝が朝臣の路を歩み出したことから、比企の新尼が、京へと住まいを移したのを、私と密やかに関係を持つためではないか、と勘繰ったことから、京に来ることにしたらしい。
後、京の公家社会では、比企の新尼が皇太后の実母、御嵯峨天皇の実祖母として敬われているのにも、彼女の腹の虫が治まらなかったらしい。
何しろ比企の新尼は、鞠子が物心がつく前に出家しており、実際に鞠子を育てたのは辻殿なのだ。
こうしたことから、辻殿は鞠子の嫡母は私で、御嵯峨天皇の養祖母にもなる、と京の公家社会に知らせようと、京に乗り込んできたという訳だ。
最もこれはこれで有難い事態と言えなくも無かった。
それこそ私の朝廷内での威勢から、妹や娘を私の愛人等に提供しようとする公家は後を絶たなかったが、辻殿を見てそのほとんどが諦めてくれたのだ。
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