第51話
6月に入っており、いわゆる梅雨の雨を私は心配せざるを得なかった。
朝廷軍が構えた陣地を突破するための秘密兵器と言える「てつはう」を存分に使うためには、乾いた空気が必要不可欠といえる。
雨が降る中で使用する等は論外と言えるし、雨が止んでいても地面に水溜りがここかしこにあるような中で使っては、効果が上がる訳がない。
とはいえ、季節的には雨が多い時期であり、私は皮肉にも神仏に晴れを祈るしかなかった。
そして、神仏は私の祈りを聞き届けてくれたらしい。
坂東から大量の「てつはう」とそれを扱える人員が到着したその日は雨だったが、その翌日から丸二日の間、晴天が続いたのだ。
この状況を見て、翌朝の朝駆けに全てを託すことを私は決断した。
正々堂々の昼戦こそが、鎌倉武士の本懐かもしれないが、私達を朝敵とし、更には土御門上皇や邦仁王を呪殺しようとまでしてくる敵に対して、正々堂々の戦いを挑む必要を私は認めなかった。
(尚、私の部下の御家人達のほとんども、私と同意見だった)
「ふむ、「てつはう」を投げて届く距離だが、20間から30間といったところなのか」
「そんなものです。投げる者の巧拙によって、届く距離が違います」
「そうなると、弓矢の射程距離内に完全に入る必要があるな」
「流石に矢が飛んでくる中で、「てつはう」を投げるのは勘弁してほしいです」
「だろうな」
そんな事前の会話が交わされていたことから、私は朝駆けに賭けることにしたのだ。
朝方、基本的に日の出の光で朝廷軍の目がくらんでいる中で、「てつはう」を朝廷軍の陣地の一か所に集中して投げつける。
何しろ懸命にかき集めたものの、「てつはう」は約1000発、投げられる者は約500人なのだ。
(この時代の「てつはう」は火を着けた上で投げる必要があり、そういった危険性から素人がいきなり投げられる代物ではないという事情があった)
だから、1か所を集中攻撃して、その場を守っていた朝廷軍を崩壊させて、そこに幕府軍を突撃させて、後は連鎖的に朝廷軍を崩壊させるしかない、というのが、幕府軍の幹部の多数意見であり、私もそれに全面的に同意していたのだ。
そして、その時は終に来た。
幸いなことに月明かりも無く、夜陰に乗じて密かに「てつはう」を投げる者達は、朝廷軍が構えた柵の近く、「てつはう」が柵に投げつけられる距離にまで接近できた。
朝が近づくにつれて、徐々に日の出の光が差してくる。
幸いなことに、朝廷軍の見張りは、幕府方の騎馬武者の動向に注目していて、「てつはう」を投げる者を特に警戒していないようだ。
(これはある意味では当然の話で、護身用の短刀に訳の分からない丸い物(「てつはう」)を持っているような者達が柵に近づいたところで何もできまいと、「てつはう」を知らない見張りは、軽く考えてしまったのだ)
「よし、やれ」
一斉に法螺貝を、私は吹かせた。
法螺貝の音を聞いた「てつはう」を持っている者達は、一斉に一人当たり2発を相次いで、朝廷軍の柵めがけて投げつけた。
流石に全てが音を発して、火を噴くことは無いが、その多くが音を発して火を噴く。
そして、その火は柵に燃え移り、複数の個所で火災を引き起こした。
更にその火災は、朝廷軍の将兵に混乱を引き起こしだした。
「やれるか」
「大いにやれます」
私が叔父の源範頼に尋ねると、叔父は即答して、更なる号令をかけた。
「進めや、者ども」
「応」
叔父の号令に答えたというよりも、それ以前から既に逸っていたようで、和田義盛や畠山重忠に加え、更には息子の源頼貞までもが、火災をものともせずに突撃を開始した。
私も速やかに騎乗して、突撃に参加した。
ここで勝たねば、不破関を突破できない。
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