第43話
ちょっと箸休め的な話になります。
そんなことが鎌倉であった数日後、自分も鎌倉に集った御家人達を率いて京へ向かうことになった。
とはいえ、千葉氏を筆頭とする房総の御家人が駆けつけてくれたとはいえ、私自身が率いる御家人の兵数は数千騎程に過ぎない。
何故にこんな事態になったのかと言うと。
「本当に申し訳ありません。後で幾らでも叱って下さい」
「ああ良い。儂の息子の頼貞を心配したということだろう。所で、お前の口元が緩んでおるぞ」
「いえ、緩んでなどおりませぬ。唯、和田殿は叱られて当然ですので。良い薬だと」
私は三浦義村とそんな会話をしていた。
あの会議のすぐ後、和田義盛は三浦一族に対して分家の長老として総動員を掛けると共に、侍所長官として速やかに京へ向かえ、と近隣諸国の御家人にも命令を下したのだ。
それを後で知った私は、越権行為にも程がある、と怒ることになった。
三浦義村にしても、本家当主の儂を無視するのか、と怒ることになり、私が同じ想いなのを知って、ここに奇妙な統一戦線が組まれた次第だ。
ともかく、そんなことから、三浦一族を始めとする相模の御家人の多くが、相次いで勝手に和田義盛の後を追って、京へ向かってしまったのだ。
武蔵の御家人は、当然のことながらほぼ全てを畠山重忠が率いて、東山道を西へと向かっており、上野や下野の御家人は、北陸道経由での上京を図っている。
そうした次第から、房総の奉公衆や御家人がある程度、鎌倉へと集まり次第、自分は上京することになってしまった。
流石に常陸はともかく、奥羽の御家人が集まるのを、のんびりと待つこと等はできないからだ。
それはともかくというか。
「山田重忠殿が味方してくれて、本当に助かった。土御門上皇と鞠子を始めとする妻子を無事に警護して、尾張まで護衛してくれたとは。このお陰で、幕府軍が勝てる目途が立った」
私は心から安堵して、そう呟いた。
「正室の辻殿にお礼を申さねばなりません。山田殿は尾張源氏の一員、辻殿とは同族になります。辻殿の手紙による働きかけから、幕府方への同心を決めたとか」
「全くだ。更に言えば、濃尾三川を地元の武士として熟知していることから、山田重忠殿の陣頭指揮によって、美濃と尾張の国境線で朝廷軍の進撃を阻止することに成功した。山田重忠殿が朝廷側に立っていれば、朝廷軍は尾張から三河へと乱入し、我々は苦戦を余儀なくされていただろう」
私と三浦義村は更なる会話を交わした。
半ば裏話になるが。
地頭改任問題が起きた後、それこそ北条時房を京に送り込む等、私と言うか幕府方は、朝廷方の武士達の寝返りを始めとする様々な工作を行い続けた。
例えば、私としてはやりたくなかったが、実弟の源実朝が朝廷方に立って行動するというのを一早く掴めたのもこうした工作の成果で、表向きは源実朝の側近である和田朝盛の内報で知ったのだ。
(尚、和田朝盛は山田重忠と行動を共にして、現在では尾張まで逃れており、そこで、再会した祖父の和田義盛から、
「よくやってくれた。流石は我が孫だ」
と激賞されて、何ともいえない複雑な表情を浮かべてしまったらしい)
山田重忠もそうした工作から、幕府方に立つことを決めた武士の一人だが、山田重忠の場合は、私の正室である辻殿と同族というつながりから、辻殿に幕府方に誘われて、かなり悩んだ末に幕府方に立ったという経緯があるのだ。
ともかく、山田重忠が幕府方に立ってくれたことから、土御門上皇に鞠子、邦仁王が無事に尾張まで避難することができたといえる。
更には、山田重忠の名指揮で、幕府方は濃尾三川で朝廷軍の初期攻勢を凌げたのだ。
「さて、京を目指さねば」
「御意」
三浦義村とそう会話をして、私は京へ向かうことになった。
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