第34話
少なからず時が前後してしまう話になるが。
(この世界の)「平賀氏の変」で、平賀義信の実子になる大内惟義は、私というか幕府方の武士たちの攻撃によって結果的に自害する事態が起きた。
だが、この当時、大内惟義は後鳥羽上皇の側に仕える武士でもあり、大内惟義が自害したことは、後鳥羽上皇にしてみれば、幕府内部の紛争に朝廷が巻き込まれる事態が起きたと言ってよく、表面上は何事も無しに済まされたが、朝廷自身の軍事力を蓄えようとする動き、具体的には西面の武士創設の動き等が起きることになった。
これに対抗するという訳ではなく、私としても「平賀氏の変」の後始末を考える際、私というか将軍家自身の軍事力をある程度は蓄えよう、と考えざるを得なかった。
何しろ「平賀氏の変」の際には、将軍家自身の軍事力は皆無で、有力御家人の動員で平賀氏を攻撃したと言っても過言では無かったのだ。
まずは鎌倉幕府の地盤と言える東国の御家人達に対して、三月交代の鎌倉大番役を創設して、東国の中小御家人にその負担を命じて、実際に来た際や帰る際等に、私自身が親しく声を掛けて、又、ある程度の必要経費は将軍家の負担にすることにした。
(尚、言うまでもないことかもしれないが、京都大番役の負担について、東国の御家人の負担を、をそれに応じて減らしている。
そうしないと、東国の御家人の不満が膨らむからだ)
これによって、鎌倉大番役を務めた御家人達の幕府への忠誠心を高め、いざという際の平時の軍事力になるようにと考えた。
そして、緊急事態に備えた将軍直属の奉公衆の創設にも、私は踏み切った。
これは小山氏や千葉氏といった大御家人に対する牽制策でもあった。
奉公衆は、それこそ中小の御家人の中から、直接に将軍家に仕えたいと希望する御家人を採用した。
奉公衆の御家人は、それこそその国の守護当主の次に位置すると定めた(裏返せば、守護当主の次に偉い存在になり、守護一族等より上位になる)ので、中小の御家人から志願者が殺到することになった。
もっとも、その結果として守護家の分家の当主からも志願する例が出て、守護一族が却って紛争を起こす事例まで起き、これはこれで私の頭を痛めることになった。
ともかく、私としてはあくまでも将軍家子飼いの軍事力を育成すると共に、大御家人に対する牽制策として、鎌倉大番役や奉公衆の創設を行ったのだが。
後鳥羽上皇を中心とする朝廷にしてみれば、別の事態を懸念するようにもなった。
それは幕府が朝廷に対する暗黙の恫喝として、鎌倉大番役や奉公衆の創設を行っているのでは、ということだった。
(私としてみれば、そんな意図は皆目無いのだが)
そうしたことから、朝廷は、従来からある北面の武士のみならず、西面の武士の更なる拡充を図ろうとすると共に、私やその周囲に対して官位等の飴を撒く事態が起きた。
例えば、私は五位中将という摂家と同様の特例に伴う任官待遇を受けており、「平賀氏の変」が起きた時点で征夷大将軍であると共に、正二位の官位を持ち、左衛門督にも任じられていた。
だが、大臣どころか納言、参議でさえ無かった。
それに私自身が坂東在住ということもあり、中央の官位を受けても、中央で仕事が私はできないという難問を抱えていた。
しかし、官位等の飴は、そういったことを無視して私達にばらまかれた。
例えば、この10年余りの間に、私は気が付けば右大臣にまで昇進していた。
いきなり権中納言に任ぜられ、更には権大納言に、内大臣から右大臣へと昇進した。
とはいえ、京に私は詰められない以上、適当な時機を見て辞職願を私は出したが。
これはこれで、後鳥羽上皇らから私への疑念を生む事態が起きていたのだ。
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