第32話
とはいえ、南米大陸到達にしても、そう易々と成し遂げられる代物では無かった。
私は南宋や高麗との交易が徐々に活発化する中で、膠泥活字による印刷が既に開発されているというか、知られていることが分かったので、そういった技術を持つ者を何とか日本に招へいした。
又、天文台を造って、天測航法の援けができるようにし、その成果を書物等にした。
更に海外に赴きたいという者に、現代で言えば船員学校と呼ばれる学問所を造って、そこで天測航法や航海術が学べるようにもした。
そして、探査報告を取りまとめて、毎年、極めて簡素ながらも海図等も作成した。
(後、インドやペルシャ等に到達した者から、アラビア数字の存在を聞いて、それを積極的に導入するようなこともしている。
漢数字で足りるだろう、と言われそうだが、やはりアラビア数字の利便性には勝てないのだ)
そういった営々たる努力の果てに、南太平洋等の探査を行い、終に我々は南米大陸へ到達したのだ。
(序でと言っては何だが、布哇やニューカレドニア島等にも、その過程で我々はたどり着いている)
(尚、この学問所だが、意外と不評だった。
学問所に入るよりは、直に水夫(兼戦闘員)として商船に乗り込んで、そういったことは実地に学んだ方が良いという面々の方が、圧倒的に多かったのだ。
確かにその方が、略奪で小遣い稼ぎもできるし、水夫でも自分の手荷物程度は船に持ち込めるので、それで交易のノウハウまでも実地に学べるのだから、そちらの方が人気が集まるのも当然だった。
もっとも、学問所と違って、未熟なままで乗り込む以上、そういったことを学ぶのが文字通りに命懸けになるが、時代が時代だ。
そんな危険等はどこにでもあるものだ、として、多くの者が軽視したのだ)
そうした探査活動を行う一方で、我々の活発な交易活動は、東アジアから東南アジアを経てインド洋に至る交易活動を大いに活性化させた。
何しろモンゴルの勃興によって、古来からある陸のシルクロードや「草原の道」は、それこそ戦乱によって寸断されるとまではいわないが、大いに危険が高まる事態が起きたのだ。
そうしたところに、日本の商人(というより経済ヤクザ)がその代替をするかのように積極的に海上交易に乗り出したのだ。
こうした状況から、東アジアと欧州を結ぶ交易ルートが陸から海へと大きく転換し、それを主導するのが日本の商人になるのは、ある意味では時代の趨勢となった。
(更に言えば、日本の商人は優れた天測航法や航海術によって、相対的に海上交易の安全度を大きく向上させることにも成功していたのだ)
そういった東アジアからインド洋への交易を主導することによって得られた膨大な利益を、結果的に注ぎ込むことによって、日本は南米大陸への航路を開拓することに終に成功できたと言ってよかった。
そうでなければ、日本から南米大陸への航路を開拓する以前に、そのための費用がどうにも足りないとして、南米大陸への航路を開拓すること自体が断念されていた可能性が極めて高かったのだ。
何しろポリネシア航法で南米大陸への航路自体は、既に発見されていたが、それによって恒常的な利益は挙がっていたとは、とても言えなかったのだ。
航路が恒久的に維持されるためには、恒常的な利益確保が航路によって得られることが基本的に必要不可欠で、それが不可能ならばある程度以上の赤字穴埋めができないとどうにもならない。
そのために、史実ではポリネシア諸島から南米大陸への恒久的な航路は維持できずに終わったのだ。
だが、私は無理をしてでも南米大陸への航路開拓に努めた。
何しろジャガイモやキニーネ等、南米大陸は宝の山としか言えなかったからだ。
ご感想等をお待ちしています。
尚、東アジアからインド洋を介した欧州への香辛料等の貿易を、日本の商人(というより経済ヤクザ)が積極的に行うことで、南米大陸航路発見費用を賄えるかについては、どうか緩く見て下さい。




