第30話
そんな経緯があったことから、私の家庭生活はこの「平賀氏の変」で一変することになった。
比企氏の娘は、私と離婚した後、速やかに出家してしまった。
そのために、私の妻は賀茂氏の娘だけになり、更に一幡や鞠子は賀茂氏の娘が引き取ったことから、私は本宅に完全に腰を据えて妻子と暮らすことになった。
(私としては、賀茂氏の娘による継子虐めを懸念したのだが、時代の違いからか、賀茂氏の娘は一幡や鞠子を我が子のように慈しんで育てた。
賀茂氏の娘曰く、私が正室である以上、側室の子にとっても母であり、子どもは慈しんで育てるのが当然とのことで、私としては、この時代の感覚に心から感謝することになった)
更に言えば、比企氏の娘と異なり、賀茂氏の娘は召人を身の回りに置いていなかったので、そうした点でも、私は21世紀のように一夫一妻生活にいそしむことになった。
(もっとも、既に男4人、女1人の子持ちに私がなっていた以上、跡継ぎの心配は皆無と言ってよく、それこそ召人を抱いてまで、子作りに励む必要が私に無かったのも事実だった)
そして、薄皮をはぐように私の体調は回復し、将軍としての職務に(止む無く)励むべきだったが。
私は意識が混濁している1月余りの間に、トンデモナイうわ言を言っており、更には梶原景時と私のやり取りが畠山重忠を介して、御家人達に伝わっていたことから、それどころではない事態が起きた。
梶原景時の報告を、私は特に御家人らには秘密にはしていなかった。
何故なら、報告等を秘密にしては却って御家人らに勘繰られてしまい、ろくでもない事態が起きると私は考えていたからだ。
だが、特に秘密にはしていなくとも、勘繰る人間は常にいる。
更に言えば、私は病に苦しんで、危篤状態に陥っていた前後、トンデモナイことを言っていた。
(尚、私は本復した際に、何でそんなことを私は口走ったのだ、と頭を抱え込んだ)
私が危篤の間、ほぼ付き添っていた賀茂氏の娘の言葉によればだが。
私は、梶原景時が言った南の大陸(南米大陸のこと)には、黄金郷があるらしい、気候にしても夏冬が逆になるが、日本と似た四季がある暮らしやすいところらしい、と口走ってしまっていたようだ。
更には、梶原景時が1万町歩もの荘園開拓に乗り出しているとの話までが、御家人達の耳に届いた。
既に南宋や高麗との貿易によって、一部の御家人は利益を得られるようになっている。
(この辺りは、この当時の貿易時の事故率の高さから、共同出資による貿易が基本的に行われるようになっていた影響もある。
少額の出資しかできなくとも、複数の御家人が手を組めば、貿易船を南宋や高麗に送ることができるようになっていたのだ。
更には、現代流に言えば、リスク分散の見地から貿易船も船団を組んで赴くようになっていた。
そういったことから大御家人だけではなく、中小の御家人さえも貿易に手を出して、利ザヤを稼いで、味を占めるようになっていた)
貿易だけではなく、荘園開拓でも儲けられるだと。
更には黄金郷までも、遥か彼方の土地にはあるだと。
こういった情報を聞いた御家人達、それこそ上は小山や千葉といった大御家人から下は小さな御家人までもが、目の色を変えて、日本国外に乗り出していこうとしだすようになった。
本来からすれば、余りにも歴史が変わり過ぎるとして、私は押し止めるように動くべきかもしれないが、下手なことを言えば、梶原景時を贔屓するのか等の難癖が付けられて、私の命まで危険にさらされそうな状況になりだした。
こうしたことから、日和った私は海外に乗り出そうとする御家人達を押し止めなかった。
かくして、坂東を中心とする御家人達は海外に乗り出した。
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尚、次話は10年程は先の話になります。




