第28話
私が奇跡的に病から回復してから約1月近くが経って、私が病み上がりながらも、何とか日常生活が送れるようになりつつあった(1203年)9月末、私の枕頭には、私の実母の北条政子を中心にして、後2人が密かに集っていた。
ちなみに、その2人だが北条義時と三浦義村の2人である。
更に言えば、何故にこの3人が集ったのか、私は教えられていない。
私の母の北条政子が、最初に口を開いた。
「この度の平賀義信の行動ですが、私の子や孫の代わりに自らが将軍になろうとしているようにしか、私には考えられません。皆はどう考えますか」
私が病み上がりのこともあり、頭がどうにも回らずに黙っていると、三浦義村が口を開いた。
「私も尼御台(北条政子のこと)と同様に考えます。平賀一族は討つべきです」
ちょっと待て、平賀一族を殺すというのか、と私が口を開く間もなく、母が口を開いた。
「三浦殿が私に同心してくれるとは。この際、平賀一族討伐の令を将軍の名で出します。理由は既に述べた通りで、自らが将軍になろうという幕府に対する謀反を企んだことです」
流石に北条義時が止めに入った。
「しかし、そのようなことをしては、私の父の北条時政や私の妻の縁者になる比企能員までも、攻撃することになりかねませんが、本当に良いのですか」
母がすぐに口を開いた。
「これは父や比企能員に対し、判断を強制するためでもあります。私の子や孫の将軍位世襲を積極的に認めるのか、それとも認めないのか。平賀一族に対する攻撃を妨害することで、暗に将軍位世襲を認めないというのならば、父や比企能員も私は殺める覚悟です」
私は、改めて母に対する恐怖心を抱いた。
流石に承久の変において、朝廷に対する攻撃を、母が全く躊躇わなかっただけのことはある。
やはり私の母は日本史上最狂の存在なのではないだろうか。
何しろ、史実でも実父の北条時政や朝廷に対する攻撃命令を、母は積極的に下している。
仁義八行の二つである忠孝に明確に反する行動を、ここまで執れる女性が日本史上どれだけいただろうか、私の母だけではないだろうか。
私がりつ然とする余りに口を開けないでいると、三浦義村が呟いた。
「尼御台様の御言葉、ごもっとも。北条時政や比企能員が、平賀一族を攻撃しないというのならば、平賀一族と同心しているとして攻撃するのも止むを得ないかと。その場合。和田一族や畠山一族も我らに加担するでしょう。和田一族は、三浦一族と同族。又、畠山一族は武蔵の権益について、比企能員と微妙な状況に陥りつつあります。そうしたことから、我らに加担するでしょう」
(少なからずの補足説明をすると、比企能員と畠山重忠は武蔵国内の権益を巡って、微妙な緊張になっていたのだ。
畠山重忠は、それこそ坂東八平氏の秩父一族の現在の長であり、武蔵国留守所総検校職を帯びている存在で、武蔵国全ての武士の長ともいえる立場になる。
一方、比企能員は、それこそ源頼朝の乳母の比企尼の養子であり、源頼家の第一の乳母夫でもあることから、その勢威を背景にして武蔵国の武士団を膝下に置こうとしていた。
こうしたことから、お互いの関係が、周囲の思惑もあって悪化していたのだ)
私は背中が徐々に冷たくなった。
ここまでのやり取りを、母と三浦義村がするということは、完全に二人は話し合い済みなのだ。
母は完全に腹を括っていて、私が下手に断れば、それこそ濡れた布で私の口と鼻を塞いで、私が遺言で平賀一族を討て、と言ったと言うつもりだろう。
私は死にたくない。
そして、私がそれとなく叔父の義時を見ると、義時も顔を蒼白にしていて、私と同様の結論に達しているようだ。
私は終に言った。
「平賀一族を討つのだ」
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