第23話
「御館様には、誠にご機嫌麗しく」
「堅苦しい挨拶は良い。ここは鎌倉ではない以上、鎌倉殿等とは呼ばずに御館様と呼んで、できるだけ気楽に話せ、と命じたであろうが」
「ははっ、確かにそうでした。浅草のこの地に梶原景時が来たいのなら来ればよい、父の供養のための大仏建立への協力として、景時が自らが寄進したいというのまで、そなたらは許さぬというのか、と御家人達を説得して下さり、本当に有難うございます。故郷には帰れませぬが、それでも、この地に上陸して、富士の山を遠くに眺めると、日本に帰ってきたという想いが溢れ、どうにも涙が止まりませぬ」
実際に梶原景時は、時折、涙を拭いながら、浅草寺の一角で私と対面していた。
(尚、お互いに疑われないように、私の身辺警護と称して畠山重忠を側に控えさせている)
「琉球の一角(後で、私が地図で確認したら現在の那覇港近辺だった)を、まずは南方探査の前進拠点として確保しました。更にその南方に巨大な島を確認できた時は、本当に一族揃って喜びました。御館様から、その島は台湾と呼んではどうか、と示唆を受けて、台湾島と名付けて、2か所の前進拠点を設け、更に本当に南に巨大な島を見つけた時も喜びました。同様の経緯で、呂宋島と名付けて、その島にも1か所の前進拠点を設けて、更に南方の探査を進めています(後で、私が地図で確認したら、現在の台北市、台南市、マニラにそれぞれが相当するようだった)。更に現地の勢力というか、諸国と接触してもいます。この近辺の島々の内部においては、そんなに大きな国は無いようで、それこそ1000人も兵を集めるのが精一杯という国が稀ではないようですな。一方、大陸ではそれなりどころではない大きさ、それこそ数千人の兵を集められる王国が稀ではありません」
「ふむ」
私は、景時の言葉に肯いた。
この辺りの私の世界史知識は極めて怪しい代物だ。
もっとも、この頃の東南アジア史を詳しく教える高校があったら、お目にかかりたいくらいだ。
欧州史や中国史ならまだしも、詳細な東南アジア史が必要になること等はまずないだろう。
だから、景時の報告にしても、私は黙って聞くしかない。
「ともかく、そういったことから、まずは私としては台湾と呂宋に荘園を構えたい、と考えて、一族や私に賛同する者と協力して適地を探して、開拓を試みています。それにしても、現地の住民に言わせると、澱んだ池や沼地には決して近づくな、高熱を出す病になって死ぬぞとのことです。これは沼地に近寄ることで、瘧(現代で言うところのマラリア)に掛かるためではないか、と考えまして、そういったところを避けて、川辺で丘が近くにあるところ等に目星をつけて、適地を幾つか確保しました。その際に既にいた住民と紛争沙汰になることもありましたが、それなりに開拓して荘園を造れそうです」
「それは何よりだ」
「何れは全てを併せれば1万町歩の大荘園を造りたいものです。その際には、荘園の本家として鎌倉殿を仰ぐことにしたいと考えております」
「事実上は追放した儂に処分を解いて欲しいのか」
「それくらいのことをすれば許していただけるのではないかと」
「そなたは、私の乳母の一人の夫でもあるからな。宿老衆が許すのならば、許すことにしよう」
「誠に有難うございます」
私と景時の開拓に関する会話は、それで一段落した。
「ところで、帆や六分儀に関することは何かわかったか」
「四分儀というものが、時刻を図るのに使われており、航海にも使えるのではないか、ということで使用している者がいるのは分かりましたが、六分儀というのを知る者は宋人どころか、私の知る限りの南方の者にもおらぬようですな」
次話に続きます。
尚、具体的な地名を挙げていませんが(本文中で挙げると不自然になったので)、梶原景時の探査は西はマラッカ、東はニューギニア島の西にまで進んでいます。
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