第22話
ともかく、三浦義澄や安達盛長が亡くなったことから、私は代わりに三浦義村や安達景盛を宿老衆に入れていた。
本来の趣旨からいえば、別に補充しなくともよいような気が、私自身しなくもないが、13人の宿老衆のバランスを取る必要がある。
浅草の大仏建立一つにしても、色々な利害調整が必要不可欠で、私一人で専断しては色々と恨みを双方からぶつけられかねない。
だから、常に宿老衆の意見を聞いて、その意見を取りまとめた判断に基本的に私は従うということで、私はできる限りの責任回避を図っていた。
話が相前後するが、浅草での大仏建立が決まった直後、陳和卿(と彼が率いる技術者集団)は、私の招きに応じて坂東の地に来てくれた。
これは元からいる東大寺の僧侶らと、外部の人間である陳和卿との仲が悪化しており、(史実でもあったことだが)後鳥羽上皇の耳にまでそのことが達していることから、私が大仏建立のために浅草寺で陳和卿を引き取りたい、と言ったところ、東大寺の僧侶らも陳和卿も双方共に納得して、私の下に陳和卿が来てくれたのだ。
そして、早速、陳和卿に浅草寺の大仏建立を命じる一方、又、大船の建造を江戸(?)において始めることになった。
私にしても、ヨット建造については21世紀での知識があるが、この時代の船の建造に役立つかというと微妙どころではない。
何しろ電動工具等は影も形も無い時代に自分はいる一方、自分は電動工具等を活用してのヨット建造が当たり前で、そういった知識しかもっていないのだから。
勿論、ド素人よりは遥かにマシで、船の構造等について、こうしたらどうだろうか位は言えるが、ともかくそういったことから、2本マストの船でさえも建造するのは一苦労どころではなかったのだ。
陳和卿というより、その周囲の技術者集団は、この当時としては最高の技術を持った者が集った技術者集団と言えた。
1年余りの時間は掛かったが、手始めに3本マストの巨船を建造して、内海(東京湾)に浮かべることに、彼らは成功した。
更には、私は規格の統一を示唆し、この船の量産(といっても年に数隻だが)を図った。
200人近い人を乗せることができ、1000トン近い巨船は、この後で役立つことになる。
その一方で、この時代に国外逃亡するのが意外と難しいのも、陳和卿やその周囲の者との話で、改めて私は認識させられることになった。
言葉や習慣の違いというのが、この時代は意外と大きいようなのだ。
よく考えたら、それは当たり前で、(この時代の)日本語一つとっても、自分やその周囲が話す坂東の言葉と、京言葉は大きく違い、別の言語だと言っても信じてしまうくらいなのだ。
そういった言葉や習慣の違いを無視して、自分が国外逃亡しては、すぐに野垂れ死にしかねない。
それに将軍という自分の立場もある。
早く善哉が成長して、大人にならないか、そうすれば自分は隠居して、将軍位を譲って、日本の外に行けるやも、という半ば妄想までが自分の頭の中に浮かんでしまう。
母や叔父に殺されないように、北条家を結束させないように、更に御家人同士の力の均衡を図って、と懸命に自分が生き延びようと足掻いた結果、逆説的に将軍の権威が上昇し、自分が最終的には裁断しないと多くの御家人が納得しない事態が起きつつあるようなのだ。
こんな状況を放っておいて、自分が国外逃亡しようとしたら、逆に多くの御家人が、俺達を見捨てるような将軍は許せねえ、として自分を殺す側に回りかねない。
何でこうなったのだ、と自分が頭を痛めているときに、梶原景時が南洋調査の報告をしたい、という口実で帰国してきた。
私は梶原景時の調査がどこまで進んだのか、本当に気になった。
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