デートのお誘い
「おっす、おはよう、ユウマ」
通学路。声をかけられたので、振り向くと、友人の水野イツキが手を振っていた。
僕のことを、ユウマ、と下の名前で呼んでくれるのは、家族とこいつくらいしかいない。小学校からの付き合いで、僕にとっては親友と呼べる相手だ。
イツキはトレードマークである黒縁眼鏡のレンズの向こうで、切長の目をきゅっと細めた。
「おはよう」
「うん。で、神崎さんとはどうなの」
「いや、あまり進展はないな」
素直にそう伝えると、イツキはつまらなさそうに、そうか、と呟いた。
神崎さんと屋上で出会ってから、二週間が経過している。
それで分かったことは、甘いものが好きなこと。哲学に興味があること。それから、実は図書委員で、絵本が好きなこと。それだけである。
ちなみに、ファッションには疎いらしく、服の話題を振ると、きまって頓珍漢な顔をする。
童話からそのまま出てきたような綺麗な容姿をしているのだから、フリルやリボンが似合いそうなのに、本人が興味を持たないなんて、もったいない。まあ、服なんて好きなものを着ればいいのだが。
大きくため息をつくと、イツキは制服のポケットから紙切れを二枚取り出した。
「やっぱり、奥手なユウマには、俺がついてなきゃダメだな。ほら、これ使ってデートでも行けば」
そう言って、イツキはその紙切れを僕に握らせた。
僕の手に握られていたのは、水族館の無料チケット二枚。
イツキは得意げな顔をして笑っている。
僕と神崎さんで付き合うことになった、としか報告していなかったから、僕と神崎さんを、普通の恋人同士だと思っているのだろう。
「……ありがとう」
「楽しんでこいよ。キスとかすればいいじゃん?」
「調子に乗るな」
「ハイハイ。……あ、神崎さん。おーい!」
イツキが指を差した先に、長い黒髪が揺れている。毎度、目を奪われるほど美しい髪だ。
大きな声で呼びかけられると、神崎さんはゆっくりと振り向いて、こちらに気づくと小走りで近づいてきた。
「おはよう。柊くんに、水野くん」
「おはよう。っていうか、俺、初めて神崎さんと喋ったかも」
「そうね」
「だよな。……あ、そうだ、ユウマ、今誘えよ」
イツキは思い出したかのように手を叩いて、僕の背中をぐいっと押した。
神崎さんが僕の手に握られている紙切れを覗き込もうとしたので、思わず後ろ手に隠してしまった。
「……何?」
神崎さんは少し不機嫌そうな目をする。
そりゃそうだ。誰だって気分が悪くなるようなことをしてしまった。
「ごめん。えっと、イツキがくれたんだけど、水族館、一緒に行かない?」
チケットを見せると、神崎さんの目が心なしか輝いたように見えた。
しどろもどろになってしまったが、上手く誘えたのだろうか。
神崎さんは、雪のような頬をほんのり赤く染めた。
「それは、恋人としてのお誘い?」
「……恥ずかしいことを言わせないでほしいな。わかってるでしょ」
「ね、ちゃんと言ってよ」
いつにもまして、神崎さんのテンションが高い気がする。
助けを求めようとイツキの方を見ると、もうそこには誰もいなかった。冷やかしてくれた方が、百倍も気楽だっただろうに。
心の中でイツキに悪態をつきながら、深呼吸をした。
「そう。これ、デートのお誘い」
言いながら、顔に熱が集まるのを感じた。
デートだなんて恥ずかしい言い方をしたことを後悔する。
僕が赤くなり始めると同時に、神崎さんの顔色からは赤色がスッと抜けた。
格好がつかなかったのは自覚しているが、そうもあからさまに冷められると落ち込んでしまう。
しかし、神崎さんは真っ白の顔のまま、にゅっと口角を上げた。
「真っ赤になってる。からかい甲斐があるね。じゃあ、水族館は、今日の放課後にしましょう」
「……え、いいの?」
あの雰囲気で良い返事が返ってくるなんて思っていなかったから、間抜けな声が出た。
神崎さんは悪戯っぽい笑みを浮かべている。
そんな色っぽい表情は、僕の心臓が止まりそうになるから、やめてほしいものだ。
「ちょっとびっくりしただけだから。私ね、あなたのこと、仕事相手みたいに思ってた」
「仕事相手? ビジネスパートナーってこと?」
「そう……んーん。いや。柊くんにとっては、これも仕事かしら」
そうか。元々、お互いの利害関係の一致で付き合うことになったのだから、その解釈も、あながち間違いではないのだ。
僕と神崎さんの間で、この関係性の名付け方に大きな齟齬がある。
そんなつもりではなかったのに。
「仕事なんかじゃないよ。僕らはそんなに冷たい関係じゃないでしょ」
「……なるほどね」
どこか含みのある声。
神崎さんの目を真っ直ぐに見つめると、神崎さんは何かを納得したかのように頷いた。
「柊くん、恋人になっても、私のことを、全然サヤカって呼んでくれないじゃない。だから、ただのビジネスパートナーみたいに思えたの」
「なんだ、そんなこと。サヤカ、じゃ、僕のこともユウマって呼んでよ」
「……うん。ユウマ」
神崎さん、もといサヤカは照れ臭そうに笑った。
下の名前で呼ぶことに何の意味があるのかは知らないが、とにかく誤解を解けてよかった。
学校の屋上ではあんなことを言ったが、サヤカに告白したのは、別に、一番の目的は生きる意味を探すことではない。
遠くの方で、始業を知らせるチャイムの音が聞こえた。
「え、遅刻しちゃった」
そんなことを言いながら、サヤカの頬は緩んでいる。
恋人と話をしていて遅刻? そんな恥ずかしい話は他にない。
僕は、表情が緩んだままのサヤカの手を引っ張って、走り出した。