見つからない
薄い色の雲が、青空を緩く覆う昼下がり。
屋上のフェンスを乗り越えた先に、少女が立っていた。
どん、と心臓がどこか固いところに叩きつけられたような心地になる。立ち入り禁止のはずの場所に、誰かがいるだなんて思っていなかった。
フェンスの向こうで、腰まで届く長くて美しい髪が、風に吹かれて揺れている。
真っ直ぐに伸びる背筋に、袖から覗く白い肌。後ろを向いている立ち姿が、ぞっとするほど美しい。その少女は顔だけがじっと俯いていて、どこか不安そうな、儚い雰囲気を纏っている。
自信を持って立っているように見えて、不安で揺れ動く。凛々しさと儚さを同時に持っている、まさに芍薬のような少女だ。
しかし、フェンスの向こうにいるだなんて。あんなところに立っているのだから、目的など自明だ。あの美しい少女が下に落ちるなんて想像もつかないが、飛び降りたとて、僕には止められない。自殺は、赤の他人が軽々しく止めていいものでもないのだ。
おもむろに、少女が振り向く。
黒曜石のような瞳に、光が透けそうなほど白い肌。桃色の薄い唇が、驚いたように小さく口を開けた。
「……神崎さん?」
顔を見て、そう声が出た。
呼びかけようとしたわけではなく、独り言のような呟きだ。
神崎サヤカ。僕のクラスメイトの一人だが、一度も話したことはない。席が近くなったこともないから、僕と彼女の関係値は他人に近い。昼休みはいつも教室の端っこで一人で文庫本を開いているような大人しい女子で、そもそも誰かと話しているところを見たことがない。
そんな彼女が、フェンスの向こう側で、僕を見つけて動揺するわけでもなく、まじまじとこちらを見つめている。
「何、してるの?」
「迷ってるの。飛び降りるかどうか」
理由を聞けば、何もやましいことはないと言った様子で、あっさりと言ってのけた。
神崎さんは僕から視線を外し、再度、フェンスの向こうの、遠い地面に目を向けた。
五階建ての建物の屋上階で、真下の地面は中庭のコンクリートだ。引っ掛かれそうな木もないから、落ちれば、致命傷は避けられないだろう。それどころか、死んでしまう。
つまりは、神崎さんは死のうか生きようか迷っている、ということだ。
「……何かあったの?」
そう尋ねると、神崎さんは何かを考えるような仕草をして、それから、ゆっくりと口を開いた。
「何もないの。本当に、何もない」
「嘘だ」
「……うん。それより、柊くんはなんでここに?」
「昼ごはん。食べにきた」
「ああ、そう。お腹すいたって顔してる」
「ええ?」
「ふふふ、間抜けな声」
一度も話したことのないクラスメイトなのに、神崎さんはどこか楽しそうに笑った。
明るく、純粋で可憐なこの少女に、自殺を考える理由があるとは到底思えない。
神崎さんは右足を空中に投げ出して、ふらふらと揺らしている。手はフェンスをしっかりと掴んでいるから落ちることは無いだろう。
僕は神崎さんにそれを止めさせるつもりはなかった。その動作が、彼女ににとってはただの遊びでしかないようにように見えたからである。子供が毎日のように鬼ごっこで駆けずり回って、足が速くなるのと同じ。きっと、日常的に彼女はそんなことをしているから、地面に落ちないやり方も知っているし、さほど恐怖もないのだ。
多分、神崎さんじゃなかったら、僕は力づくで内側に引っ張っていたと思う。
「……普通は、もっと慌てて私を止めようとしてくれるんじゃないの」
今度は不服そうな顔でこちらを見る。
教室にいる顔からは想像もつかないほどに表情が変化するのがおもしろい。
「止めてほしいの?」
「別に」
意地悪のつもりで返すと、神崎さんは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
薄く太陽を覆っていた雲は、いつのまにか消えていた。雲がひとつもない真っ青な空に、白い太陽がぽっかりと浮かんでいる。
もしも空が飛べたら、気持ち良いのだろうか。
そんなふうに考えて、一度、僕は四階から飛び降りて、骨を何本も折る大怪我をしたことがある。
今考えると、よく助かったな、と思う。たまたま木に引っかかったから死ななかったのだ。
涼しい風が吹く。
僕が大怪我をした時と、全く同じ天候だ。あの空を見ていれば、特にひどい怪我をした右腕がずきずきと痛む。
「生きる意味が、見当たらないの」
涼しい風が一度通り過ぎて、神崎さんはぽつりと呟くように言った。
外なのに、その言葉だけが、やけに大きく響いたような気がした。
「……ああ」
共感のような、否定のような、曖昧な返答をした。
生きる意味なんて、考えたこともなかった。
だから、肯定も否定も出来なかった。
そんな僕の気持ちを汲み取ったかのように、神崎さんは言葉をぼろぼろこぼしはじめる。
「将来の夢もない。クラスで役に立ってるわけじゃないし、特段に勉強が得意なわけでも、スポーツが得意なわけでもないの。それでね、ふと思った。私、なんで生きてるんだろうって」
弱々しい台詞を吐くわりには、声は震えていない。
りんとした鈴の音のような声。
生きる意味が見出せないから、死ぬことを考えている。少なくとも、生きる意味など考えたこともない僕には、理解しかねる行為だ。
「僕は、飛び降りはあまりお勧めしないよ」
人が地面にぶつかって、ぐちゃぐちゃに潰れるところを想像すると、ぞっと吐き気がした。
生きていた原型は留められず、おかしな方向に曲がった体から鉄臭い液体が噴き出る。目撃者にトラウマを植え付け、死んでから何年経っても白い目を向けられ続ける。
なんて醜悪で不幸な死に方だろう。
「人間もんじゃ焼きとか気持ち悪いし」
神崎さんは、苦虫を噛み潰したような顔でゆっくりと振り向いた。まるで、僕の脳内の映像が直接脳に注ぎ込まれたような、そんな顔をしている。
そして、しばらくしてのろのろとフェンスを乗り越えて内側に戻った。
どうやら、飛び降りる気は失せたらしい。
さっきはあんな意地悪を言ったけれど、僕は神崎さんを死なせたいわけではないのだ。
むしろ、生きていてほしい。
「神崎さん、どうする? まだ死にたい?」
「……綺麗な死に方を探すことにする」
挑発的に言うと、神崎さんは不貞腐れたように僕から目を逸らした。
「迷ってるんじゃなかったの?」
「……」
神崎さんはついに黙り込んでしまった。
どうしたものか。
何か、生きていたくなるようなものはないだろうか。死にたくなくなるような、生きることに執着したくなってしまうような何か。
ぐるぐると真っ暗闇の思考回路の中をしばらく彷徨っていると、出口の光が見えた。
……いいことを思いついた。なんだ、簡単なことじゃないか。
「神崎さん、僕と恋人になってよ」
自信満々に手を差し出す。
神崎さんは僕を不審がるように眉をつりあげた。
「……どうしたの、急に?」
「僕は、生きる理由なんて考えたことなかったから、僕も何のために生きてるのか探してみたい。ってわけで、お互いの生きる意味を見つけるサポートをしていこう。どう?」
そう。要は、生きる意味さえ見つかれば良いのだ。
生きる意味が見つかってしまえば、死ぬ理由はない。神崎さんには、死にたい理由はないのだから。つまり、僕が彼女の生きる理由になればいい。
悩みを解決できる上に、相手への利益もある、平等な関係性。僕のことがよほど嫌いじゃなければ、断る理由はないはずだ。
神崎さんは、しばらく目を丸くして固まっていたが、やがてゆっくりと僕に近づいて、差し出している手を取ってくれた。
白くて細い指が、僕の手のひらに乗っている。思っていたよりも大きな手だ。ピアノでも習っていたのだろうか。
「ちょっと、楽しそう、かも」
神崎さんは、初めて僕に満開の笑みを見せてくれた。薔薇が咲いたような笑顔に、僕もにっこりと笑い返した。
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