氷の公爵とその少年は、何を思う
青年が王宮の長廊下を歩く度、靴音が王宮に響く。
カツン、カツンとリズムを刻む靴音に皆が視線を向ける。
それは靴音が響くからではなく、歩く青年の佇まいに目が奪われ。
歩む男性の姿に周囲の侍女は溜息を漏らすのだった。
二十二歳となったレイナルドは誰もが目奪われるほどの美丈夫に成長した。
若い頃は美少年と称され、若き青年時代には姉に似た美しさを褒められていたが、今はその美しさに一層の気迫も含まれている。
滅多に笑うことのない無表情な顔と、先だっての戦における功績により与えられた公爵という爵位から。
彼は氷の公爵と呼ばれるようになっていた。
「リゼル王子に謁見願いたい」
「かしこまりました」
王太子の住まいとする王太子の間まで訪れたレイナルドは家臣の一人に告げると、男は頷きその場を離れた。
暫くの間レイナルドはその場に立ったまま確認を待つ。
王太子ことリゼル王子は九歳。まだ遊びたい盛りの少年ではあるが、現在唯一の王位継承者であることから既に帝王学の教育は始まっている。
それでも遊びたい、甘えたい心を育てるためにも時々休み時間を与えられる。
今日はレイナルドがリゼルと休息時間を過ごす予定になっていた。
(面倒だな……)
王子の遊び相手に選ばれることは名誉あることだと周囲は言うが、遊び相手は遊び相手。
なるべく政権を握る貴族の中から交代制で、かつ権力を偏らせないよう平等に与えられている機会だったが、レイナルドとしてはそこまで重要性を抱いていない。
勿論、リゼルを懐柔することはレイナルドにとって想定の動きであるが、その役目はアルベルトに丸投げしている。実際、リゼルの護衛騎士に就任したアルベルトとリゼルが接触する機会は多く、リゼルが今最も信頼を置いているのはアルベルトである。
「ユベ……いえ、ローズ公爵」
言い慣れない様子の男がレイナルドを呼ぶ。
新たに得た、ローズの姓で。
「失礼いたします。リゼル殿下は現在図書館で授業を行っており、そちらが伸びておいでです。恐れ入りますが図書館までお越し頂けますか、とのことでございます」
「分かった」
レイナルドは踵を翻し元来た廊下を歩き出す。
そしてまた、侍女達は惚けた顔で、レイナルドを見つめるのだった。
北部で騒動となった小部族との争いから勝利した後、レイナルドは公爵位と同時に新たな姓を得る権利を得た。
それがローズという姓だった。
『陛下……私は罪人と呼ばれても致し方ない生まれにございます。ですが陛下の温情により、この地に立たせて頂いている事を忘れてはおりません』
(お前によって裏切られた姉様への復讐があるからこの場に立っているのだ)
『過去の過ちを忘れぬため、ローズと姓を新たにします』
(忘れるな。姉様を殺したのはお前達だ)
『今後、レイナルド・ローズと名乗ることをお許し下さい』
(この名を名乗る度、お前達は思い出すだろう。無実の姉様を殺めた罪を。忘れさせる筈がない。私がそうはさせるものか)
レイナルドの真意を知る者は、一体どれほどいたのだろうか。
無実の罪でありながら殺められたローズマリー・ユベールの真実を知る者は口を閉ざし目を伏せたことだろう。
真実を知らない者には、レイナルドの王家への忠誠心に心を撃たれたことだろう。
かくして、レイナルドはレイナルド・ローズ公爵として新たな地位と名を与えられた。
「お待ちしておりました。間もなく授業が終わりますので、今暫くお待ちください」
図書館に向かうと護衛兵によって小声で指示された。図書館の奥からは教師らしき男の声と、それに質問を投げる少年の声が聞こえてきた。
足音を立てないよう、レイナルドは図書館の中を見回した。
(懐かしい……)
公爵位を得るまでは滅多に訪れる機会の無かった図書館。今まではレイナルド自身を警戒され、更には身分や立場を理由に入室を拒まれていた。
ここには貴重な書物が多いために反逆者の子供であるからと立ち入りを拒まれていたのだった。
しかし公爵となった今は有難いことに自由に出入りができるようになった。
レイナルドは図書館に訪れると必ず訪れる書棚があった。
部屋の端、子供向けの絵本や児童書が並ぶ書棚だ。
高い段の本を取るために小さな梯子がある。
レイナルドは静かにその梯子に触れた。
(いつもこれを使っていたな)
レイナルドが求める本は、この棚の一番上にある一冊の絵本だ。
梯子を使わずとも取れる身長になったレイナルドはその一冊を手に取った。
絵本は、騎士と姫の物語。
姉であるローズマリーが愛した本だった。
本の表紙を眺めるだけで、レイナルドは当時の記憶を鮮明に思い出せた。
『レイナルド。これから私は滅多に貴方と会うことができなくなります。貴方が王城に会いに来ても、きっと与えられた時間は少ないと思うの』
『そんなのイヤです……』
王太子の婚約者として教育を受けるためにローズマリーはユベール領を離れる日、レイナルドは泣いてローズマリーを困らせた。
家族の中で唯一愛してくれる姉と引き離される絶望にレイナルドは必死だった。それが姉を困らせることだと分かっていても、レイナルドは必死だった。
そしてローズマリーもまたレイナルドという大切な弟と離れること、彼を冷めきった家に残すことを心配していた。
『……レイナルド。一つだけお父様にお願いしていたことがあるの。貴方が勉強出来るよう、王都に向けて馬車を与えて欲しいって』
『馬車……?』
『ええ。ユベールの名を出せば王城の図書館へ出入りできるようにお願いしたの。会えるかどうか分からないけれど……私も勉強のために図書館を使うことが多いらしいわ』
『姉様!』
『もし出会えなかったとしても、何処かに手紙を隠しておきます。だから貴方も手紙を書いて、来たことを教えてね。レイナルド……私も寂しい……』
家族に愛されていない自覚があったのはローズマリーも同じだということを今のレイナルドなら分かった。彼女もまた、愛情に飢えていたのだ。
それからローズマリーの願い通り、彼女の数少ない資産の中からレイナルドに馬車が与えられた。いつでも勉強しに王都へ行けるように、と。
家では嫌がらせを受けるレイナルドにとって、姉のいる王都に行けるだけでも幸せだった。たとえ、彼女の言葉通り会える機会はほとんど失われたとしてもレイナルドは図書館に訪れた。
手紙のやりとりに使われたのは、今レイナルドが持っている本だった。
この本はローズマリーが本当に好きだった物語で、いつも読んで欲しいと頼まれたことを思い出しレイナルドは笑う。
図書館に行ってはこの本を捲り、手紙がないか確認をする。その繰り返しがレイナルドにとって生き甲斐だった日々だった。
しかしそれも、婚約の話が揺らぎだしてから手紙の数が激減していったのだが。
「ローズ卿!」
幼い少年の声に、レイナルドは顔を上げる。
目の前に赤髪の少年が笑顔でこちらを見上げていた。
「リゼル王子。勉強はもうよろしいのですか?」
何事もなかったようにレイナルドは本を書棚に戻した。
「終わったよ! 今日は何をする?」
「そうですね。天気もよろしいので外に行きましょうか。乗馬は上達しましたか?」
「うん! 僕、乗馬がいいな!」
嬉しそうに話しかけるリゼルに罪はない。
けれどその赤髪が揺れる度、レイナルドの心の奥で焔が揺れる。
ーあの女と同じ赤い髪。
ーあの男と同じサファイアの瞳。
子供に罪はないけれど。
どうして憎まずにいられよう。
無垢な王子の笑顔を向けられる度。
薄暗い図書館の中で、姉の手紙を待ち侘びる幼い頃の自身が。
「早く復讐しろ」と、翡翠色の瞳を憎しみで燃やしながら。
レイナルドを見つめているのだ。




