それでは、復讐を始めてよろしいですか?
手を強く握り締めたマリーの身体が次第に弛緩し、ついには椅子から落ちそうになるところを抱き留めた。
薬が効いたのだ。
身体を横に抱き上げても反応はなく。ただ、苦しそうな表情のまま眠っている姿はレイナルドも見ていて良心が痛んだ。
否、そもそも自身に良心など無いのだ。
テーブルを一瞥する。マリーがナイフを握り締めようとした時には息が止まるかと思った。
まさか、そんな行動を取るとは思いもしなかったのだ。
「無茶をする」
眠るマリーの顔を覗き込む。
いつもキラキラと輝く蜂蜜色の瞳は長い睫毛と瞼によって閉じている。
レイナルドは抑えきれない衝動と罪悪感からマリーの額にそっと口付けた。
もしかしたらこれが、彼女と触れ合える最後の時間となるかもしれないのだ。
これぐらい……許して欲しい。
そんな子供のような理屈のない我儘から彼女に触れたが、それが余計にマリーを愛おしくさせるだけで。
かえって自身を苦しめてしまった。
(…………無様だ)
これほど恋に溺れる人間になるなど二十年前のレイナルドには想像も出来ないことだった。
それどころか数ヶ月前のレイナルドとて考えもしなかった。
マリーに出会い、ローズ領で過ごしてきた日々の中で芽生え出した感情。
復讐しか望まないレイナルドにとって唯一現れた未来に対する希望の兆し。
それがマリーだった。
だが。
「…………貴女は私が全てを終えた後、どんな目で私を見るのだろうな……」
もう、止まれないのだ。
レイナルドは復讐者だ。
いくら恋心が芽生えようと愛する人が出来ようと変わらない。
マリーを横抱きしたまま寝室に向かい柔らかな寝台にそっと乗せた。
見下ろす形で暫くの間マリーを見つめていたレイナルドだったが、もう時間が押していることを分かっているため寝室を後にする。
歯車は動き出したのだ。
広間に戻ったところで扉を叩く音がした。
時間通りだ。
「失礼致します。マーデル子爵とライル書記官がお見えです」
護衛の声が聞こえた。レイナルドは黙ったまま扉を開ける。
扉を開けば、並んで二人の男性が扉の前に立っていた。
「失礼致します」
礼儀正しい様子で入室してきた一人はライル・シズヴェール。まだ十五、六の若さでレイナルドの書記官として務めている青年である。
切れ長の瞳に切り揃えられた前髪から几帳面な性格が滲み出ている。
「ライル。少しぐらい手伝ってくれよ」
「扉を開けておきますからそのままお入り下さい」
悪態を吐きつつ大きな箱を複数持ったセイン・マーデル子爵が入室してくる。
二人の背後から少し気後れしたような侍女の姿が見えた。
レイナルドは視線を向ける。
「マリー・エディグマ嬢への贈り物を届けに来てくれたんだ。君はもう休んでいい。あとはライルに任せる」
「か……かしこまりました」
レイナルドに言われ侍女が慌てた様子で立ち去っていく様子をライルは扉の前から眺めていた。
「……あの侍女は事情を知らないのですね」
「ああ。適当に一人だけ寄越してもらった。事情は何も知らない」
「薬をどうやって入れたのですか?」
「私が用意した酒を出すようにと指示しただけだ」
小声で会話をしながら扉を閉める。
ライルとセインは中に入ると床に大きな荷物を置き、そのまま荷物の紐を解く。
中からは可愛らしい寝巻きのドレスと榛色のウィッグが出てきた。
マリーと同じ色の長い髪だ。
「エディグマ嬢は?」
「寝室だ」
「……本当によろしいのですか? ローズ公爵」
セインの声色は厳しい。
「貴方の指示でしたから眠り薬を用意しましたが……まさかエディグマ嬢に使われるとは思いませんでしたよ」
「…………」
「私はエディグマ領で彼女の家族にも会いました。エディグマ嬢の無事を任された身でもあります。貴方を疑うわけではありませんが」
婚約者と発表されたマリーの家族に余計な負荷を掛けないよう、以前レイナルドはセインをエディグマに派遣していた。無理を強いるような貴族らが圧力を掛けないようにするための牽制として寄越していた時がある。
命令によりマリーの故郷へ訪れたセインは、エディグマが本当に何もない田舎の町であることを知っている。
そして、そこで育ったであろうマリーがどれだけ皆に愛されているかも短期間であるのにも関わらず分かった。
その後帰城してから見掛けたマリーとレイナルドの姿に更に驚いた。
レイナルドが、復讐しか見ていなかった彼がマリーという一人の女性を気に掛けていたのだから。
「…………彼女の安否を願うからこそ実行したまでだ」
「…………分かりました」
レイナルドはそれ以上話すことはなく。
黙ってマリーの眠る寝室に向かう。
音を立てずに入室する姿をライルとセインは眺めていた。
暫くするとマリーを外套で包み隠すようにしながら横抱きに連れてくるレイナルドの姿が現れる。
「手伝いましょうか?」
「構わない」
まるで「指一本触れるな」とばかりの断りを入れたままレイナルドは扉の前に立ち外で待機している護衛兵に声を掛ける。
護衛兵は扉を開けるとレイナルドに何かを告げる。
その姿を眺めていたライルとセインは互いの顔を見合わせた後、静かに溜め息を漏らしたのであった。
夜が深まった頃。
護衛が婚約者の間で夜半の見張りをしていた時のこと。
「交代だ」
一人の男が護衛兵に声を掛けた。
「そんな時間か……ん? トールはどうした? 今日の夜勤はトールだっただろう?」
「トールから変わって欲しいと言われたんだよ」
「そうなのか。……分かった」
護衛兵は顔見知りの男と場所を交代し、新たにやってきた兵が婚約者の間の前に立った。
先ほどまで立っていた兵の足音が聞こえなくなることを確認した後、兵の男は辺りを確認してからそっと扉に手を掛けた。
扉が開く。
音を立てぬよう入室した男は周囲を見渡し、人の気配が無いかを確認した。
男の表情が強ばりながらも笑った。
男は命じられたまま、マリーの眠る寝室へと向かう。
男を命じた者の素性は明らかにしていなかったが、それが明らかに爵位を持つ者であることは知っている。
多額の前金を渡された。
賭博により借金がある男にとって救いであったが、それ以上に疑いもした。
何かとんでもない事に巻き込まれるのは御免だからだ。
しかし依頼してきた男は笑う。
事が問題なく進めば、必ず男の待遇を保障すると。
切り捨てない証拠として首謀者である貴族の名前を教わった。
名を知って男は仕事を承諾した。
マリー・エディグマに手を出し、婚約者として相応しくない身にするだけでいい、と。
男は高揚する気持ちを抑えながらも音を立てずに寝室の扉を開けた。
寝室には静かな寝息が聞こえてきた。
薄暗い部屋の中、遠目からも分かる。
寝台では榛色の髪色をした女性が眠っていた。
男は緊張しながらも寝台に近寄り。
毛布に手を掛け、目覚めた時に叫ばぬよう口を抑えるための猿轡を用意し。
そして襲おうとしたその時。
眠っていたはずの女性の瞳が開いた。
その瞳は話に聞いていた蜂蜜色の瞳ではなく、黒茶色の瞳で。
「なっ!」
飛び起きた女性の肘が、男の顔面に直撃した。
勢いに負けて男が寝台から床に尻をつく。立ち上がるより早く女性は寝台から降りると持っていた剣を男の首に向けた。
「…………!」
「本当に引っかかるなんて……」
榛色の髪をした女性だと思っていたが、その声色は青年の声だった。
「お前……!」
「ああ。顔ぐらいは知っていますか? 貴方は護衛兵の一人ですよね。すみません。名前まで覚えていませんが」
マリーを装った男性、ライルは微かに微笑んだ。
「手伝う暇も無かったか」
別室に息を潜め控えていたセインが入ってくると護衛兵の男を縄で縛り付ける。ついでに舌を噛み切らないよう口の中に布を押し込むことも忘れない。
「王城の近衛兵は騎士団に比べて訓練が足りていないようですよ」
「そこは騎士団長殿に今後の課題として提言しておこう。さあ、お前にはまだ働いてもらうよ」
薄らと微笑みながらセインは男に向けて微笑んだ。
男は引き攣りながら。
自身の視界が、世界が。
暗い暗い闇に染まっていったのだった。
「…………」
レイナルドに与えられた執務室は暗闇に覆われていた。
柔らかなソファとはいえ、寝台ではない場所にマリーを寝かすことはレイナルド自身不満であった。
どうにか誂えた寝台用のシーツや布団で包まれるマリーを運んだのはレイナルド自身だったが、もし間に合うのであれば私室に寝台を用意したかった。
しかし不審な行動をすれば怪しまれるため、その案は諦めた。
「…………」
マリーを快く思わない貴族一派が行動に移そうとしている情報を以前からレイナルドは仕入れていた。
作戦の決行日がガーデンパーティを実施して数日以内であろうことは予測していた。
そして、その決行日が当日の夜であると知った時からレイナルドの作戦は決まっていた。
同時に、襲撃を逆手に取ることを作戦に含めていたのだ。
だがそれではマリーを危険な目に遭わせてしまう。
彼女のことだ。
作戦の内容を伝えれば率先して協力すると言い兼ねない。
レイナルドは嫌だった。
マリーが、好きな人が傷つく姿を見たくない。
万が一にも被害があったら?
果ては、姉のように命を落としてしまったら?
レイナルドは怖かった。
もう二度と愛する人を喪う恐怖を味わいたくなどないのだ。
薬の効果は日が昇る頃まで効くと聞いている。
人にバレないよう執務室に移動させた時もマリーは目覚めなかった。
ふと、小さく扉を叩く音がした。
合図だ。
レイナルドは立ち上がる。
どうやら鼠が罠に引っ掛かったらしい。
薄暗い部屋の中でレイナルドは笑う。
(婚約発表をしたその日にマリーを汚す……あの女らしい考えだ)
ガーデンパーティの後にマリーを襲撃する策を練ったのは間違いなくティアであろう。
しかしあの女は自身の痕跡を遺したりなどしない。恐らく自身の駒となる者を利用しているに違いない。
(そうはさせない)
相手が卑劣な手を使うのであれば。
こちらも卑劣な手を返すまで。
レイナルドは最後とばかりに名残惜しくもマリーの頬にそっと触れた後、部屋を出て行った。
その表情には固く。
そこには、氷の公爵と呼ばれる男が居たのだった。




